森信子・秀子

森信子・秀子

森信子・秀子(右)

 人 物

 もり 信子のぶこ
 ・本 名 森信子
 ・生没年 1926年5月16日~2011年8月7日
 ・出身地 東京 中野

 もり 秀子ひでこ
 ・本 名 森秀子(後年、森山)
 ・生没年 1930年4月14日~ご健在?
 ・出身地 東京 中野

 来 歴

 玉子家辰坊・八重子の長女と次女。秀子は三遊亭小円馬の妻としても有名。

 辰坊・八重子夫婦には、四男四女の子供がおり、女の子はみな芸能に携わった。上から信子、秀子、百合子、サカエ――上の二人は漫才、百合子は舞踊家から、トレーナーのエディ・タウンゼントの妻、サカエは歌手になった。

 経歴を紹介する前に、後年森家の一員となった三遊亭小円馬やエディ・タウンゼントのwikipediaの記載についてボヤいておく。

両親は夫婦漫才の玉子家辰坊・八重子。すぐ下の妹は、ダンスの世界でハワイで活躍した後、プロボクシングのエディ・タウンゼントに嫁いだ。東京都中野区の鍋屋横丁(鍋横)でスナックを開き、恵まれぬ夫をよく支えた。存命、かつ店も現存。末妹は、お笑いタッグマッチで本人がギャグにしていた通り「妹はジャズ歌手の森サカエ(社団法人日本歌手協会常任理事)」。

 この情報はどこから仕入れたのか、尋ねてみたいものである。

 三遊亭小円馬の嫁の実家が、漫才師であって、小円馬本人の実家は、飲食業を営む普通の家である(蕎麦屋だったと記憶している)。これでは話があべこべである。

 もし、小円馬が漫才師の倅なら、彼は落語じゃなくて漫才をやらされていたのではないだろうか。

 こんな杜撰な事を書いて、更にこれが誤った形で引用される。困った、としか言いようがない。僕は研究者の矜持としてwikipediaを編集する気にならないので、誰か直しておいてください。

 長女の信子は、一番最初に生まれた事だけあって、早くから家を支える運命にあった。大家族を養うために、幼い頃から芸事を仕込まれた。特に舞踊が得意で、西崎緑を師事して、西崎流の免許を持っていたという。

 間もなく母親とのコンビを組んで、「玉子家八重子・信子」として、デビュー。帝都漫才協会の名簿には、「玉子家信子」名義で登録されている。父親は芸能事務所のようなことをやり始めた――と、末妹のサカエ氏より伺った。

 戦時中は八重子・信子として、満州などを慰問した。最後の慰問の時は敗戦の年の冬で、あと一歩間違えれば抑留される危険があったという。

 敗戦直後より妹の秀子とコンビを組んで、姉妹漫才としてデビュー。

 相方の秀子はすぐ下の妹――玉子家辰坊・八重子の次女で、四男四女の三番目(長女、長男、秀子の順)。姉同様に早くから芸事を仕込まれたそうで、戦時中から銭座のような形で着いて回ったとか何とか――

 戦後早くも姉と漫才コンビを組んでデビュー。本名をそのままに「森信子・秀子」となった。女流漫才としては隆の家栄龍・万龍の次に来る程のデビューの早さであったという。

 父親の辰坊がとってくる仕事の他に、漫才大会や余興などで腕を磨き、一家の大黒柱として奮闘した。信子は踊りの腕を買われる形で、浪曲師の堀井清水の一座に入団し、アメリカ全土巡業に出かけたこともあったそうだ。

 秀子が三味線を受け持ち、信子が踊りを踊るオーソドックスな音曲漫才であったが、色気あり、若さあり、達者さありの三拍子で、なかなかの人気を集めていたと聞く。

 中でも高下駄を履いてアクロバティックに踊る「松づくし」は大当たりのネタで、漫才研究会発足記念大会の際もこれを踊った。森秀子氏に電話で伺った話では、「先輩の立見二郎から着想を得て、演じるようになった」という。

 また、森サカエ氏より採録したお話によると、信子・秀子を贔屓にしていた有名な法学士の先生が二人の為に『花嫁学校』というネタを書き下ろし、このコンビの当たりネタになっていたそうである。放送などでたびたび演じている『花嫁学校』『花嫁教室』というのがそれか。

 戦後間もない動向や芸風が、松浦善三郎『関東漫才切捨御免』(1954年4月2週号)に掲載されているので引用しよう。

森信子・秀子  一月ほど前AKの若手芸能家の時間に出演して達者なところをきかせてくれたが、関東の女流としては純理論的にいってトップグループ。いまさら若手芸能家として扱われるのはくすぐったい面持ちだったろう。プロデューサーには別の意見があるだろうが当人たちには気の毒。信子は早くから母親の八重子と組んで戦争中まで鳴らし、いまでは自他ともに許す女流才人だが、小学校を卒業すると下に秀子以下の弟妹がいたので進学を断念して芸界に入り、母親と舞台に立ったという涙ぐましい話がある。母親について幕内をみっちり修業し、苦しい勉強を続けて来た努力がみのっているわけ。戦後妹の秀子が三味線を持って母親に代った。信子は唄と踊りが得意で十八番は越後獅子のサラシ。終戦後一人渡米した才界人のひとりだが帰って来てからの感想は「もう二度と行かない」とこぼしていたそうだ。

 1955年、漫才研究会発足に伴い、入会。初期メンバーとして名を連ねた他、漫才大会にも出演。上記の「松尽くし」を演じて喝采を得たという。

 1956年、第1回NHK漫才コンクールに出場。『花嫁学校』を披露しているが、入賞には至らなかった。

 1958年、漫才研究会を脱会。『毎日新聞 東京夕刊』(8月27日号)によると宮田羊容・不二幸江、三国道雄・宮島一歩隆の家栄龍・万龍、森信子・秀子、高波志光児・光菊大津お萬轟ススム・丘コエルの7組が脱会。

 それから間もなくして、秀子は売り出しの落語家、三遊亭小円馬と結婚。

 この結婚の馴れ初めは、共に大酒飲みで意気投合するところがあった、というような伝説が残されており、『週刊NHKラジオ新聞』には「奥方は森信子、秀子の漫才姉妹の妹の秀子さん。酒が取り持つ縁であったとやら」。

 後年、『キネマ旬報』に掲載された小円馬のインタビューの中には、

恋女房の秀子さんと結ばれたのが酒であったというはなしである。秀子さんはかつて十年程前、信子・秀子のコンビで歌謡コントをやっていたことがあるが、昭和三十年に三遊亭小金馬の結婚式に、二人がお互いの飲みっぷりにホレあったのがソモソモの縁で結ばれたというから、小円馬と酒は生涯切れない伴侶である。

 と、ある。面白い話であるが、楽屋雀の姦しい所もあるのかもしれない。三遊亭小金馬が小円馬の縁を取り持ったというのもなんともおかしい話である。

 結婚後、姉妹コンビを解消し、芸能界を引退。三遊亭小円馬のサポート役として家庭に入った。

 但し、完全に芸界との縁が切れたわけではなく、小円馬の関係者との交友や冠婚葬祭は無論のこと、取材や弟子や後輩などの面倒や世話――人気芸人の女房としての役目はしっかりと果たしていたという。

 残された信子は、妹の森サカエを相手役にして漫才を続投しようとしたらしいが、父親の反対でお流れになった――と、サカエ氏当人から伺った。

 その後、何人かのコンビを経、1968年頃、浅田家章吾とコンビを解消した荒川雪恵とコンビを組んで、奮闘していたが、本人の結婚などもあり、間もなく引退。

 晩年は両人ともに家庭に収まり、市井の人として静かに暮らしたと聞く。信子の没年は、森サカエ氏の協力で判明した。秀子は2019年に伺った際には普通に元気そうであったが――

 早くに引退したせいか、その資料や記録はほとんどないものの、なぜかこのコンビの芸や姿を、あの毒舌で知られた立川談志が気に入っていたらしく、彼の本の中にたびたび出てくる。思えば、彼女たちも、談志の思い出によって名前が残ったとも言えなくはない。

『立川談志遺言大全集14 芸人論2 早めの遺言』や『談志百選』の中でも、

(松づくしの話題があって)ちなみにこれは、「森信子・秀子」というのが上手かったというのを子供心に覚えている。秀子さんは亡くなった「三遊亭小円馬」の女房で、その二人の妹がジャズシンガー、名人、「森サカエ」である。

(早めの遺言)

姉二人は「森信子・秀子」という女流漫才で、これは上手かった。家元ガキ心にファンであった。
一本歯の枡の上で踊る「松づくし」は見事、と鮮やかに記憶にある。

(談志百選)

 と、敬愛の念を以てしたためられている。因みに森サカエ氏と立川談志は古い友人で、よく遊んでいたそうである。『談志百選』にも選ばれているのは、そういうよしみからか。

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