湊家小亀

湊家小亀

若き日の小亀

晩年の小亀

名相方であった「がんもどき」こと喜鶴

ハワイを訪ねた港家一行

 人 物

 湊家みなとや 小亀こがめ
 ・本 名 後藤 長吉
 ・生没年 1883年頃~1948年2月
 ・出身地 東京?

 来 歴

 漫才師と換算していいのか判らないが、東京漫才の成立には大きな影響を及ぼした存在であり、「江戸っ子萬歳」などという名乗りもした事から漫才師として取り上げることにした。

 本業は太神楽である。「港家小亀」と書く事もある。どちらの表記が正しいかはよくわからない。名簿でも両方出ていたりするのでいい加減の極みである。どうしたものか。

 太神楽の系統ではあるが、謎は多い。柳貴家正楽氏によると「茨城の太神楽の系統だったと伺いますが」との事であるが、どの一派に属していたのか、謎も残る。

 明治時代に上京したのか、赤丸一の鏡味鉄三郎一家の身内となり、独立した模様。この辺りの記録は迷走していて本当に有耶無耶である。わずかに『読売新聞』(一九二七年三月六日号)の太神楽の記事の中に、

◇……柿色の丸に大の字先代は菊田源蔵と云つて却々しつかりした人だつた紺地に白く丸一を染抜いたのがお馴染の丸一小仙の家の紋で鏡味を名乗つて居る仙太郎と云つて小仙の父親が現存して采配を振つて居る紺地に赤の丸一が築地の丸一と云つて鏡味鐵三郎と云ふのが代々の名でけふ大丸連と一緒に出る鐵三郎さんがさうである先代鐵三郎の門からはげ龜その門からバンカラ新坊と小亀などが出て居る

 とある程度か。

 明治末から浅草十二階周辺の寄席に出演。日の出家潮三郎や寿家岩てこなどと鎬を削りあった。

1915年頃には既に一枚看板で売り出しており『読売新聞』(1915年6月9日号)の「●十二階盛況」の記事の中に、

尚小亀一派の演藝は相変らず客を笑せ居れり

とある

 如何にも江戸っ子好みの、粋で洒脱でちょいと末枯れたような味わいを持つ芸や都々逸は江戸っ子や浅草っ子を歓喜させ、大変な人気を集めたという。

 そのファンの代表格が、演芸作家の正岡容。正岡はこの小亀の芸を耽溺し、『異版 浅草灯籠』の中で、

十二階歌舞伎の幕間余興は、衰残の緞帳役者たちと異つて太神楽、活惚のベテランのみが出演してゐた。アトラクションの語は、未だ当時の日本には、海越えて渡来してゐなかつたが、茹蛸のごとき禿頭をそのまゝ己の芸名とするこの江戸生粋の老芸人はげ亀は、ビール瓶の曲技に長じ、また先代岩てこバンカラ辰三郎に比肩する洗練軽快の都々逸をよくした。晩年は港家小亀と袂を分つて、先代バンカラ新坊と共演してゐたが、昭和初頭、浦安在の興行中、流行の感冒に冒されて両名相次いでその地に病歿したとか聞いてゐる。

港家小亀は関東節及び新内くどきを得意として、駅売の函のやうな小型卓子掛を首から吊して、五目浪花節のなんせんすに十二階随一の人気者としてよく全浅草を圧倒してゐた。少うし舌を丸めて甘へるがごとく喋る調子と微笑するたびに妖しく金歯の光るところとに小亀特有の魅力があつた。現下、花柳風俗スケッチの漫謡に都鄙妙齢の浮気女を普ねく魅了し去つてゐる、かの柳家三亀松はこの小亀一門の出と聞くが、しかしながら三亀松の色気と気障とは、小亀が芸風の上には少しも見られず、むしろ私をして云はせれば彼こそは大正年代の川田義雄であつたとし度い。一人舞台の力演に終始する点も両者は太だ共通してゐるし、川田が昭和戦前人気高潮の虎造節を自家薬籠中のものとしたことゝ、小亀が当時の大御所たりし先代楽遊の節調を好んで口にしたところも亦太だ相似てゐる。

 と激賞し、『随筆寄席風俗』の中で、

湊家小亀といえば、暮春の空に凌雲閣の赤煉瓦、燦爛さんらんと映えたりし頃、関東節と「累身しじみ売り」の新内をいや光る金歯の奥に諷い、浅草のあけくれに一時はさわがれし太神楽の、そののち睦派の寄席にも現れ、そこばくの人気を得しも、一人舞台の熱演にすぎ、あれはばち(場違い)よと、一部のお仲間うちにはとかくさんざんにさげすまれたり。
 遮莫さわれ、その小亀一座にはがんもどきと仇名打たれし老爺あり、顔一面の大あばた、上州訛りの吃々きつきつと不器用すぎておかしかりしが、ひととせ、このがんもどき、小亀社中と晩春早夏の花川戸東橋亭の昼席――一人高座の百面相に、その頃巷間の噂となりし小名木川の首無し事件を演じたりけり。まず犯人を逮捕せんと捕縄片手にいきまく刑事、お釜帽子も由々しき犯人、捕縛現場の赤前垂もなまめかしき料亭仲居と次々に扮したるいや果てが、水上たゆたとうかびたる女の生首。何しろ、じゃんこ面の見るもいぶせき男だけに、この生首、物凄しとも物凄し、いやはやぞっとおののきし記憶あり。百面相も数々あれど、かかるぐろてすくなるはまたとあるまじ。まずは他日の思い出までに一筆ここに誌すとなん。

 と記している。ちなみに「がんもどき」というのはあだ名で、本当の芸名は港家喜鶴(亀鶴)が正しいという。

 浅草での人気は素晴らしく、特に音曲では優れた才能を発揮したという。その都々逸や音曲の乙さは、後年一世を風靡した柳家三亀松が小亀を私淑して「湊家亀松」と名乗ったほどであった。

 そんな人気を見込まれたのか、1920年9月、テイチクから『餅つき』のレコードを吹き込んでいる。

 1920年頃、ビクターレコードから『鹿嶋踊』のレコード?

 この頃、浅草十二階演芸場やら浅草の寄席に出演して抜群の人気を得た。相方はがんもどきや幸昇。ちなみに幸昇の娘が、桂竜夫・竜子の竜子であった。

 1923年9月1日、関東大震災に遭遇。当人は無事だったというが、「太神楽ァやっていた湊家小亀も、かみさんが行方不明になっちゃったてんで、オロオロしながら歩いて来ましたよ。」と、古今亭志ん生『貧乏自慢』の弁。おつねさんというのが奥さんだったのだが、どうも無事で再会した模様。

 震災後は浅草が復興するまでの間、巡業。また横浜などにも出ていたという。

 1924年12月、三光から『滑稽曽我』のレコードを吹き込んでいる。

 1925年2月、三光から『音曲都々逸』のレコード発売。

 1925年9月、ヒコーキから『お座敷スケッチ』のレコード発売。

 1925年11月、三光から『滑稽萬歳』のレコード発売。

 1926年4月18日、JOAKより『滑稽掛合ばなし』を放送。『累身売り』を茶化した茶番を行った。出演は小亀、幸昇、喜鶴、亀之助。

 1929年4月、コロムビアから『餅つき』のレコード発売。

 1929年5月、コロムビアから『江戸っ子萬歳』のレコード発売。

 1929年7月、コロムビアから『滑稽音曲大磯廓通ひ』のレコード発売。

 1930年夏、ハワイの興行部にスカウトされて、渡米。ハワイを巡演している。『日布時事』(6月15日号)に、

予て当市木村興行部で招聘交渉中であつた東京浅草の名物男湊家小亀の一行(男優六名女優八名)は、愈来る六月二十日横浜発の春洋丸に乗込来布と決定した旨最近一行より木村興行部へ確報があつた春洋丸は二十八日当地着の予定である。湊家小亀の一座は浅草で大人気を博して居る、色ものなら何でもござれの一座である。

 とある。ただ、トラブルがあったのか、22日の春洋丸には乗らず、一週間程ずれて、龍田丸に乗船してハワイに行った模様。

『日布時事』(1930年6月29日号)の中に座員名簿が出ているので引用しよう。

 何でも御座れの湊家小亀一座 演芸の種類と一行の顔触れ 浅草名物男湊家小亀が男俳六名、女優八名の色物一座を引つれて來布、近くホノルルで賑やかな興行を打つことは既に紹介したが、一座の演芸種目として通知してきた所を見ると実に賑やかだ 
 女道楽、歌道楽、所作事、都々逸、小原節、米山甚句、磯節踊、串本節、鴨緑江節踊、追分、袈裟姿踊、大漁節、中山節、花笠節、安来節 
 その他諸国名物踊お好み次第、掛合曲取り、新旧喜劇、掛合茶番、高級萬歳、早替り大芝居、楽屋総出掛合喜劇等々とある。これこそ本当の何でも御座れの一座だ 
 鳴物入りの大騒ぎで見物人の心を有頂天にせうといふのが眼目らしい。緊縮、不景気、失業といふ声が人の心を滅入らせ様として居る今日この頃の景気附にはこんな一座の來布もいいだらう。湊家小亀といふのは珍無類の演芸を呼びものに日本内地は勿論、朝鮮、台湾を巡業し大好評を博した丸一演芸團大神楽界の家元で 
 震災後は浅草、昭和公園劇場、横浜旭座等を根じろに京浜人士の大向ふを唸らして居たものださうだ。一行男女優の顔触れは次の通り

女優 △藝名港家美東子(本名木村たま)△同美西子(疋田とし子)△同小梅(磯むめ)△同米子(青木よね)△同小花(佐藤なつ)△同美勢子(津久井ふみ)△同茶良助(石谷きみよ)△同定奴(阿代田はるの) 
男優 △藝名港家小亀(本名後藤長吉)△同亀太夫(小澤清太郎)△同幸昇(関根幸次郎)△同松太郎(千葉留吉)△同萬幸(船越益治)△同市郎(飯塚一郎)

 後で気づいたのだが、美勢子は後の「宮の家玉子」、茶良助と萬幸は「大美不二・石谷紀美」コンビであった。意外な所にいたものだ。

 しばらく一座で巡演し、7月31日から3日間「吉田伊左衛門・天中軒如雲月・湊家小亀合同劇」の三人会を行っている。

 打ち揚げた後は如雲月と行動をしていた。

 長らくハワイ諸島を巡った後、本土に渡米。『新世界』(1930年12月23日号)に 

 新渡米港家小亀 今回新渡米の港家小亀一行の美人連来る土曜及日曜両夜家庭学園ホール興行の筈なるが曲芸その他滑稽喜劇に珍部類の演芸を御覧に供すべしとの事とて待たれて居る

 ただ、ハワイ以来、米国当地で契約詐欺にあったり、嫌なことも多かったらしく、この興行をろくろくしないまま、帰国してしまった。その後、一回楽器や何やらを準備して戻る算段で帰国したらしいが、再渡米の話も立ち消えとなった。

 小亀は『読売新聞』(1931年5月15日号)の中で、

先頃米国から帰朝した港家小亀、今は寿座に出演中だがロスアンゼルスには弟子を三人残してあるので日本楽器の仕入れが済み次第また渡米の予定、但し布哇には悪い興行師がゐて酷い目に遭ふから皆さん行く時には気をつけなさいと仲間に頻りに警告してゐるのは、余程酷い目に遭つたらしく小亀曰く
「ハワイ子には旅をさせるなですよ」

 と洒落ている。

1931年11月23日、JOAKに出演し、「掛合噺・忠臣蔵六段目」を披露。出演は小亀、亀三郎、亀鶴、亀四郎、鶴次、亀太郎。

1933年10月2日、JOAKに出演し「掛合噺・昔噺馬鹿の婿入」を披露。出演は小亀、小松、松葉、亀鶴、鶴子、音丸、囃子連中。

 その後も寄席や浅草の劇場に出ていたというが、漫才人気や当人の老齢もあって表舞台から消えるようになる。後年は古風な町回りや太神楽を見せていたらしい。

 1942年12月26日、大塚鈴本の年末特別興行「太神楽大会」に出演。久方ぶりの公演で、正岡容と再会し、正岡を感涙させた。『随筆寄席風俗』に、その時のことが出ているので引用。

 早い夕食を終えて女房と、近くの大塚鈴本へ。今夜は太神楽大会。去年見損っていたものなり。入って行くとすっかり年老としとって見ちがえてしまったバンカラの唐茄子が知らない男と獅子をつかっている。楽屋で時々「めでたいめでたい」というような声をかけるのがひどく古風でおもしろい。続いて唐茄子がやはり知らない男と「神力万歳」というむやみに相手の真似ばかりしたがる可笑味のものを演る。理屈なしに下らなく可笑しい。温故知新というところだろう、まさしくこれなどは。そのあといろいろ間へ挟まる曲芸の、五階茶碗や盆の曲や傘の曲やマストンの玉乗りやそうしたものの中では丸井亀次郎(?)父子の一つまりががめずらしく手の込んだ難しい曲技を次々と見せてくれた。あくまで笑いのないまっとうな技ばかりで、その技がみなあまりにもたしかなので好意が持てた。近頃こんな上手がでてきたのは頼もしい。
 若い海老蔵が「源三位げんさんみ」を演るとて、文楽人形にありそうな眉毛の濃く長いそのため目の窪んで見える異相の年配の男を連れて出てきた。いずくんぞしらん、これが往年の湊家小亀だった。何年見なかったろう私はこの男を。その間の歳月がまるでこの男の人相を変えてしまっているのだった、でもだんだん見ているうちに額にこぶのあるなつかしいあの昔のおもかげが感じられてきた。それにこの頃少しも高座へ出ないが生活も悪くないと見えてチャンとしたこしらえをしていた。艶々と顔も張り切っていた。少なからず私は安心した。浅草育ちの私にとって湊家小亀は十二階の窓々へかがやく暮春の夕日の光といっしょに、忘れられない幼き夢のふるさとである。感傷である。新内もやらず、得意の関東節も歌わなかったが、そうして衰えは感じられたが、昔ながらの猪早太はなつかしくうれしかった。※(歌記号、1-3-28)ストンと投げた のあとへ、※(歌記号、1-3-28)あいつァ妙だこいつァ妙だまったく妙だね――の踊りの繰り返しにもめっぽう嬉しさがこみ上げてきた。※(歌記号、1-3-28)裸で道中するとても――の飛脚のような振りをするところも絵になっていてよかった。

 1943年8月、再編された「大日本太神楽曲芸協会」に参加し、相談役に就任。同役は、巴家寅子、翁家和楽、日廼出家小直、東洋一郎、富士松ぎん蝶、柳家三壽。

 しかし、太平洋戦争悪化に伴い、家を焼き出され、茨城県久慈郡小川村へ疎開。そこで終戦を知ったという。

 その後は時折上京する程度で、基本的には久慈郡にとどまっていたという。

 自然豊かな久慈の村で、好きな釣りや魚とりなどをして平穏に暮らし、村の人に頼まれれば昔鍛えた踊りや芝居の真似事を見せて、「うまいものだ」と村人から尊敬される日々を過ごした。安住の地を得たというべきだろうか。

『アサヒグラフ』(1946年11月5日号)の『寄席芸人告知板』の中に、

「あんでも東京のえれい芸人だつてよオ うめえもんでねえか」と慰安会で村の人たちに随喜の涙を流させたとか 戦災で道具をすつかりなくしたので本職はここのところ出来ないらしいが 芋買出しで一杯の水郡線をチヨクチヨク上京するあたり六十三とは思えぬ元気 いまでは専ら釣倶楽部関脇の腕前を宿の傍の小川に住む鰻どもに見せてゐる

 柳貴家正楽『水戸藩御用達 水戸の大神楽』によると「昭和二十三年二月歿」との由。面識のあった正楽の事、信憑性は高そうである。

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