オオタケタモツ

オオタケタモツ

 人 物

 オオタケ タモツ
 ・本 名 大竹 保?
 ・生没年 1902年~1964年以降
 ・出身地 長野県 松本市

 来 歴

 漫才師として数えるかどうか、となるとヒジョーにややこしい存在なのであるが、戦後コント漫才をやっていた事や、あきれたぼういず、小宮凡人・凡児の存在に関与する事、またリクエストがあったため、これを掲載することにした。

 その人気の割に経歴が不明で、Wikipediaなんかも滅茶苦茶ぼんやりと書かれているが、『サンデー毎日』(1936年10月18日号)の「笑ひの人国記G」に詳しい経歴が出て居た。

 長野県松本市まで行くと、オオタケ・フォリーの主宰者
 オオタケ・タモツ
 が出てゐる。彼が吉本の部隊で、現在チャップリンの意気そのまゝ再現して、笑ひとペーソスの演技をつゞけて行くまで、喜劇俳優らしくない苦情な道を歩いて来てゐる。
 明治三五年生れで、松本中学を出ると、画家を志望して上京し、昭和座に入つた。それが苦労のし初めで舞台監督、舞台装置と、大体が器用な性質で、何をやらしても一人前に出来る。故小山内薫のもとで新劇の修業を積んだり、梅島昇のもとで、新派の経験を積んだりしてゐる間に、新しいレヴューが勃興し、この波に乗って、カジノ・フォリーが現れたが、こゝも、巡業の途次、ロイドの「足が第一」の翻案問題から、文芸部が割れて、とうとう四散し、神戸に落ちて、金井修理の一座の文藝部員になつた。
 神戸に根をおろしてからの彼が、始めて本格的に舞台を踏始めるきっかけで、金井のもとを出て、女の子達を育成して、「バッドガール劇団」を松竹の手で興行した。これから、彼の俳優としての生活がはじまったわけだ。だが、これも長続きはしなくて、松竹少女歌劇の演技指導になつたり、市川右太衛門の「旗本退屈男」その他に、三枚目として出演してゐるうちに、現在のオオタケ・フォリーを創立したものである。何しろ信州浅間で、現在売り出してゐる市丸が、蝶々と名乗ってゐた半玉時代、恋をさゝやいたりなんかしたほどであつて、三枚目には惜しい色男である。

 当初は「遠山ヒサラ」とも「東山比佐良」とも名乗っていたらしい。独立後は一度関西に上り、エノケン張りのナンセンス喜劇で人気を集めた。

『漫才』(1977年2月号)掲載の新田珠樹『千代之座芸人』という随筆の中に、

 元々は東山比佐良(遠山ヒサラ?)という芸名で舞台に立っていたらしく、『漫才』(1977年2月号)の新田珠樹『千代之座芸人』という随筆に、忘られぬ舞台の最高は、オオタケ、タモツ、当時の東山比佐良が浅草バッドガール集団を連れて出演した昭和七年の十月であった。後の白河夜舟、当時の白川耕二、後の芝利英、当時の白井順、ヤパンモカルの男性の踊り手の横山芳夫、河合君子、草川喜代子、東山敏子等皆美しかった。

 と記し、後年ラジオに出た際の紹介に(『読売新聞』1936年8月23日号)、

 AKトップは目下浅草の花月劇場に出演中の吉本ショウの立体漫才「逝く夏を唄はうよ」主役のオオタケ・タモツはカジノフォーリーで遠山ヒサラと云つてゐたがその後上方にゆき「関西のエノケン」と云はれたが、昨年十二月吉本専属になった

 とある。

 1933年頃、独立して喜劇一座を結成。大阪を振り出しに、1934年には京都、東京と順調に出演を続けている。この一座にいて活動をしていたのが、後にあきれたぼういずの一人として活躍した芝利英であった。こうした所から、あきれたぼういずの源流とも目される。

 喜劇一座結成後の動向は、胡弓かなた氏の『オオタケ・フォーリーをさがせ!』に詳しくでているので、そちらを見てください。相当調べ込んであります。

 1934年4月、常盤座に出演し、東京初デビュー。「弥次喜多漂流記」を演じて喝采を得ている。

 1934年冬頃より、喜劇映画「お江戸紳士録」の撮影に参加。この映画は12月に公開されている。

 その後は浅草の昭和座や常盤座を中心に活躍を続けていた。

 1935年12月、吉本興行に入社。ここから吉本の主要劇場に出るわけだが、すべて採録はしていないので、割愛する。いずれ書くかもしれない。

 1936年8月23日、JOAKに出演し、『逝く夏を唄はうよ』なるレビュー調の漫才を披露している。共演は松平操・春風枝左松、上方の杵屋芳奴・松本庫吉。

 この頃、オオタケフォーリーズを解散させたらしく、『キネマ旬報』(1936年11月4週号)に――「この度オオタケフオリースを解散したオオタケ·タモツが特別出演する」とある。

 1939年5月、新興演芸部に入社。同月14日の『読売新聞』に、

 大竹保新興に入社
【大阪電話】吉本興業の陣営を衝く新興演芸部では中根龍太郎とともに吉本ショー大竹保に引抜きの手を伸した結果大竹は十三日入洛同夜新興入社の調印をなした

 1940年6月26日公開の喜劇映画『笑ふ地球に朝が来る』に出演。おとぼけの四人組ボードビリアン・ピカとして出演。他には岸井明のゴム、江出勘太のハム、それに東喜代駒のベンこれは現存しているらしい。

 戦時中、新興から吉本へ復帰。1944年末まで、吉本の諸劇場に出て居たりする。小宮凡人などと仲が良く、一時期行動を共にしていた事もあった。

 戦後、吉本が演芸から一線を退いた事もあって、フリーになった。その後はコント役者として、日劇や寄席などに出演。「漫画座」と称したコントグループも展開する事となった。

 ただ、全盛時代から見ると、戦後の活動は華々しくなかったと見えて、向井爽也『にっぽん民衆演劇史』の中で、

 戦後の三十六年、新宿の松竹文化演芸場で私は思いがけなくこの大竹を見受けた。「漫画座」と称するファミリー四人組でそれぞれタンバリンを持ちながらコントを熱演していたが、客受けも良くなく、痛々しい感じがした。

 とボロカス貶されている。

 1960年にはじまった人気番組「快傑ハリマオ」に出演。ハリマオの敵で、卑劣な軍人や高官と繋がる商人・陳秀明を演じた。この姿はハリマオの復刻DVDなどで見られるはずだが――

 1962年より始まったテレビ時代劇『隠密剣士』に出演。1963年より放映された「第3部・忍法伊賀十忍」の忍者の親玉・鬼眼道願、1964年より放映された「第9部・傀儡忍法帖」の悪党忍者の頭領・黒風堂幻心を怪演している。

 その後も健在で端役などに出ていたらしいが、いつの間にか消息が途絶える。その華々しい人気の割にはよく判らない存在である。

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