天野竜二・東お駒

天野竜二・東お駒

竜二(左)・お駒

 人 物

 天野あまの 竜二りゅうじ

 ・本 名 柴田 政次
 ・生没年 明治43年/1910年7月20日~1991年以降
 ・出身地 愛知県 名古屋市

 あずま お駒 こま

 ・本 名 柴 敏子
 ・生没年 明治43年/1910年12月28日~1991年以降
 ・出身地 新潟県

 来 歴

  1930年代から平成に入るまでの60年以上の長きにわたって活躍した、生きた漫才史のような存在であったという。それ相応のキャリアと芸格を持っていながらも、竜二の病気や狷介な性格故か、ついに大輪の花を咲かす事のなかった惜しいコンビでもある。

 しかし、キャリアの長さだけで行けば、千代若・千代菊に匹敵するものであり、夫婦漫才コンビの長さとしてもギネス級の記録の持ち主であった。

 ・漫才以前

 前歴は謎が多いものの、資料が全くないというわけではない。『芸能画報』(1959年2月号)によると、天野竜二は、

昭和2年演劇界に入ったが漫才を修業同6年舞台に立つ

 だったそうで、『著作権台帳』には、

師匠 山本一夫

 とある。山本一夫が如何なる人物であったかはよくわからない。

 一方のお駒は、『芸能画報』(1959年2月号)に

一時演劇界で活躍していたが昭和6年漫才として舞台を踏む

 とある。同じ一座で出会ったのであろうか、詳しい事は判らないが、二人は結婚し、共に1931年にコンビを結成した。

 ちなみにお駒は元々、「長谷川つた子」「天乃つた子」という名前で舞台に上がっており、戦後も一時期「長谷川つた子」を名乗っていた。

 ・東京漫才の一員として

 漫才転向後、二人は喜代駒を頼ってその門下となったというが、詳しい経緯はよく判っていない。また竜二は少々頑固で一匹狼のきらいがあったそうで、俺は誰にも関係していない、などと口にしては周囲を困らせたなどという逸話も、関係者から聞いた事がある。

 しかし、そうはいうものの、実際は喜代駒を頼りにしていたそうで、喜代駒門弟の一人である源氏太郎氏も「あの二人は何かにつけては親父(喜代駒)を頼っていましたし、お駒さんも東っていう亭号は喜代駒さんからもらったっていっていましたよ」との事であり、喜代駒のご子息も「このお駒さんっていうのはしょっちゅう家に来ていました。すごくしっかりとした人で、可愛がってもらった記憶があります」と、昔を思い出して下さった。

 1943年には、帝都漫才協会に所属。

 1955年、漫才研究会発足に伴い入会。この時はまだ「長谷川つた子」であった。この後、東喜代駒から名前を貰い、「東お駒」と改名した。

 主に浅草の木馬館を拠点に活躍。竜二のボヤキをうまく受け流す話芸と、「こいつ家のかみさん」と竜二がお駒の帯を叩くネタで人気があった。また三味線も弾けたため、俗曲や数え歌などを演奏する事もあった。

 器用だった一方で、時事ネタは些か時代遅れの所があったらしく、秋田実が主宰していた同人誌『漫才』(№7)に掲載された『東京短信』の中に、

天野竜二・東おこまはすごく古い人達です。カマキリのようなやせ型の竜二さんに配してぽってりとやさしいおこまさん。大阪の人生幸朗さんのところほど陽気ではありませんが時世を風刺する味を盛り込んだ方向をとって います。ボヤキの人に対してボヤクのもなんですが、時世を風刺するのは結構、でもその内容が中途半端に古いのは頂けません。今頃、クリスマス島や久保山さんが出て来ても知らない人は知らないし、知ってる人も忘れかかっている話題は一年おいたカズノコみたいなものでしょう。このコンビの(特に竜二さんの)ずっと押しておいてひょいと気を抜くところから出て来る味は又格別なんですから、ファンを失望させないで下さい。(どなたか同人の方でネタを送ってあげたらどうでしょう。)

 とある。よく言えば古風な、悪く言えば遅れ気味の芸風も仇となってか、実力こそありながらも高い評価を得る事が出来なかった。

木馬館を中心に淡々と活躍していたが、1969年頃、脳出血に倒れ、コンビ活動を停止。左半身不全麻痺が残り、リハビリを続ける毎日であった。

 その頃の顛末は、『読売新聞』(1973年1月6日号)掲載の『人間広場 夫婦漫才、舞台は死なじ』に詳しいので、丸々引用する。

 舞台の上でも家庭でも、勝手を知った女房といつも一緒。小唄や端唄、数え歌をいい調子で歌い、客を相手に言いたい放題。はた目にはひたすらおかしく、気楽な家業を送っていた夫婦漫才の天野竜二さん(六二)が、脳出血で倒れたのが五年前の正月。浅草・木馬館の事務所で、打ち合わせの最中だった。
 入院四十日、左半身にしびれが残った。もちろん、舞台は踏めない。自称ヘソ曲がりの一匹オオカミで、師匠もなければ弟子も持たない主義。頼れる親類も子供もない。四十年連れそった東おこまさん(六二)の内職だけが頼りという心細さ。
 おこまさんの奮闘ぶりはめさましかった。寄席に口をかけておはやしを手伝い、料亭では酔客相手に三味線をつまびき、仮面ライダーのマスクにひもを通した。しかし、その日その日の暮らしに加えての、竜二さんの通院とマッサージ――。百万円の貯えは右から左へ消えてしまった。「もうダメかもしれない」――ともすれば、くじけそうな二人を支えたのは「一度だけでいい。なんとかしてもう一度舞台を踏みたい」という竜二さんの芸に生きるこころだった。そして、その執念に木馬館支配人の小川平八郎さん(四三)がこたえた。
「芸人が舞台の上で死ねば本望じゃないか」
 
昨年春、竜二・おこまは四年ぶり、復帰の舞台を踏んだ。客席をまともに見れないほど恐ろしくて、あぶら汗が流れ、足がふるえた。わずか十分の舞台だったが、まるで永遠のように感じられた。だが、四十年間、夫婦で鍛え抜いてきた芸は、十分間を立派に支え通した。

✕ ✕ ✕

夫婦はいま、月に十日ほど木馬館に出演する。竜二さんの左半身のしびらは相変わらず残っているが、好きではいった道だから、これ以外の生き方は知らないのだから――。(松)

 上記の新聞の時間軸や発言は矛盾がある。1968年12月発行の『漫才』の中では普通に活躍していることになっているので、倒れたのはその直後であろう。また、一匹狼というのも眉唾な所である。

リハビリを経て、舞台に復帰こそしたものの、老齢も仇となって、往年の覇気も消え、嘗ての様な活躍は見られなくなってしまった。

 それでも木馬館が閉鎖する1977年頃まで、必死に舞台へ上がり続けていた。その後は有名無実に等しい存在となり、舞台から一線を退いた。

 1995年頃まで漫才協団に籍だけは置いており、名簿で確認する事が出来る。80過ぎてもお駒と二人細々と生きていたが、天野竜二が先に没したという。

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