東京漫才の創設に関わった初期時代の漫才師たちの群像です。
太田家五郎・初江
太田家五郎・初江は戦前戦後に活躍した夫婦漫才師。五郎は剣舞が得意で、これを舞台で披露するという独特の漫才を展開した。主に浅草の劇場を拠点として活躍した模様。
大津お萬
大津お萬は戦前・戦後に活躍した漫才師。元々は安来節の出身で、大津検番の花形だったらしい。男勝りの女傑だったそうで、豪快で鉄火肌な舞台を得意としたという。余技として浪曲や節真似を得意とし、一門や関係者を囲って歌謡浪曲を上演。歌謡浪曲の先駆けを作った一人として、評価されるべき人材ではある。
大道寺春之助・天津城逸朗
大道寺春之助・天津城逸朗は戦前活躍した漫才師。野球やボクシングを取り入れたスポーツ漫才を創始し、東京漫才の花形として君臨した。春之助は戦後大江茂とコンビを組み、「凸凹ボップ・ホープ」と名乗った。
松鶴家千代若・千代菊
松鶴家千代若・千代菊は、戦前戦後に活躍した夫婦漫才師。「もう帰ろうよ」とボヤきながら、民謡や古典万歳をみせる、ほのぼのとした芸風でテレビラジオの人気者になった。千代若は90まで生きた長命の芸人として知られた他、松鶴家千とせ、東京太、ビートたけしの面倒を見た師匠分として有名である。
林家染太郎・染次郎
林家染太郎・染次郎は戦前に活躍したコンビである。染太郎は桂小文治の、染次郎は三遊亭円橘の門下であったが、漫才師になり、林家染団治の門下におさまった。達者な音曲と三味線の曲弾きを得意とした。染太郎の妻がはじめた店が浅草の「染太郎」で、屋号は彼の芸名から来ている。
前田勝之助・隆の家百々龍
前田勝之助・隆の家百々龍は、戦前に活躍した夫婦漫才師。勝之助は、節真似で戦後の放送の人気を総なめし、一世を風靡した前田勝之助その人であり、百々龍は隆の家萬龍の妹。その名前の通り、浪曲節真似と音曲を得意とした。
玉子家辰坊・八重子
玉子家辰坊・八重子は戦前に活躍した夫婦漫才師。辰坊は玉子家円辰の直門で、名門の出身であった。戦前から鍋屋横丁に住み、多くの子女を育成した。三遊亭小円馬の妻になった森信子、エディタウンゼントの妻、百合子、歌手として知られている森サカエの両親に当たる。
永田一休・繁子
永田一休・繁子は戦前に活躍した夫婦漫才師。一休の名の通り、坊主頭を売り物にした不思議な漫才師であった。後年、コンビ別れをし、妹、弟とコンビを組みなおすという変則的なコンビを結成した。
朝日日出丸・日出夫
朝日日出丸・日出夫は戦前から戦後に活躍した漫才師。朝日家日出丸・日出夫ともいう。東京漫才の創成期から寄席や劇場で活躍。先見の明があり、洋楽やジャズを入れた音曲漫才を展開した他、レビューを元にした漫才ショーを開拓し、爆発的な人気を集めた。漫才でも最初期に車を所有した人物でもある。
荒川清丸・玉奴
荒川清丸・玉奴は戦前に活躍した夫婦漫才師。清丸は玉子家圓辰の門下で、長らく上方にいた。晩年小沢昭一たちに注目され、聞き書きがとられたが、事実誤認や誇大発言なども多く、どこまで本当なのかいまいち信じられない漫才師である。
都家福丸・香津代
都家福丸・香津代は戦前に活躍した夫婦漫才師。役者上がりの福丸と芸人を親に持つかつ江の芸達者同士のコンビで、かつ江が福丸をコテンパンにやっつける女性優位の漫才で人気を博した。福丸没後、香津代は都家かつ江と改名し、毒舌と愛嬌を振りまく三味線漫談と、独特の味を見せる女優として八面六臂の大活躍を遂げた。
大津検花奴・菊川時之助
大津検花奴・菊川時之助は戦前戦後に活躍した漫才師。花奴は、震災前後の安来節ブームの担い手として君臨し、人気歌手としても活躍をつづけた。美男美女の誉れ高く、曲芸や安来節を取り入れた芸尽くしの漫才で、戦前戦後の東京漫才の人気者の一組として大活躍を続けた。
桂金吾・花園愛子
桂金吾・花園愛子は戦前に活躍した夫婦漫才師。花園愛子は、慰問先の中国で戦死し、靖国神社に祀られることとなった悲運の漫才師として著名である。
林家染団治
林家染團治は東京漫才創成期から戦後まで40年近くにわたって活躍を続けた。東喜代駒や朝日日出丸・日出夫らと鎬を削った。多くの門弟を育成し、帝都漫才組合の会長や漫才研究会の副会長を歴任した漫才界の功労者であった。ゴリラの真似の名人と言えばこの人の事、ゴリラの染團治と謳われた程。
桂喜代楽・愛子
桂喜代楽・愛子は戦前戦後に活躍した夫婦漫才師。戦前は東京、戦後は名古屋を中心に精力的な活躍をつづけた。喜代楽は古い漫才や芸をよく知っており、晩年はその貴重な証言者、演者として研究者や芸人たちから慕われることとなった。
玉子家利丸・松鶴家日の一
玉子家利丸・松鶴家日の一は、東京漫才創成期に活躍した漫才師。利丸は玉子家円辰の末弟子、松鶴家日の一は日の丸の弟子。コンビとしての上手さや漫才師の活動というよりも、多くの談話と芸を残したということから、その名を歴史に刻む事となったという異色のコンビである。
桂木東声・春風小柳
桂木東声・春風小柳 戦前戦後に活躍した漫才師。東声は弁士・噺家、講釈師を経て漫才師になり、小柳は東京日本橋の芸者出身。達者な芸と話術で、様々な漫才師に大きな影響を与え、吉本と新興演芸部の対立の火種ともなった人気者であった。
玉子家源一
玉子家源一は東京漫才創成期に活躍した漫才師。ドンドン節を十八番にし、ドンドン節の源一で売れに売れた。戦後は、漫才師を引退し、興行師に転向。90歳の天寿を保った。
砂川捨勝・祇園千代子
砂川捨勝・祇園千代子は戦前戦後に活躍した漫才師。捨勝は名前の通り砂川捨丸の弟子。祗園千代子は名前の通り、京都の出身。砂川捨丸譲りの音曲主体の芸尽くし萬歳を得意としたそうで、「関東砂川会」の支部長でもあった。戦後一時期歌姫として活躍した西村つた江は二人の娘である。
吉原家〆坊・〆吉
吉原家〆坊・〆吉は戦前戦後に活躍した漫才師。元は新内流しだったそうであるが、詳細に謎が多い。漫才師としては古く、昭和一桁台から東京の舞台に出るようになる。戦後まで健在だったというが――
松尾六郎・敷島和歌子
松尾六郎・敷島和歌子とは東京漫才創成期から戦後にかけて長く活躍した夫婦漫才である。六郎は剣舞を得意とし、剣舞師としても著名な存在だったという。元々は剣舞師として浅草の舞台に立っていたが、後に妻の和歌子とコンビを組んで夫婦漫才に転向をした。老いてもなお活躍をしたという。
小桜金之助・桃の家セメンダル
小桜金之助・桃の家セメンダルは東京漫才創成期に活躍した漫才師。夫婦であった。セメンダルはセメント樽の略称。凸凹コンビで人気があったという。金之助が独特の所作で雪駄や畳直しの職人の真似をする不思議な物真似芸がトリネタであったと聞く。
太刀村一雄・筆勇
太刀村一雄・筆勇は戦前戦後に活躍した漫才師のひとり。一雄は玉子家円辰とコンビを組んでいた事もある。大柄の筆勇が土俵入りの真似事や一雄に相撲四十八手の型をかけてみせる相撲漫才という独特の芸を得意とした。地下鉄漫才で一世を風靡した春日照代の両親としても有名である。
日本チャップリン・梅廼家ウグイス
日本チャップリン・梅廼家ウグイスは関東大震災以前~戦前の東京漫才創成期に活躍した夫婦漫才。早くから寄席へ進出し、東京漫才の啓蒙に一役を買った。ウグイスの美声とチャップリンのサルの物まねが売り物であったという。
宝家大坊・小坊
宝家大坊・小坊は戦前活躍した漫才師。中国系の人だったという。戦前、少年漫才として売り出し、浅草を中心に活躍したが、戦後になると消息が途絶える。六尺棒を使いこなす漫才だったというが――真木淳・斎藤れをの「ダイナマイトコンビ」が東京大坊・小坊を組んだ際は、三代目だったという。
荒川末丸・玉子家艶子
荒川末丸・玉子家艶子は、東京漫才の創成期に活躍した漫才師。末丸は玉子家圓辰の直弟子だというが謎が多い。ただし、演芸としての「東京萬歳」の名称を使った最初の芸人と目されている。震災前後は大和家八千代一座で活躍したというが、末丸は夭折した。艶子は一時期大和家かほると組んでいた。
橘家デブ子・花輔
橘家デブ子・花輔は戦前に活躍した漫才師。夫婦だったそうで、浅草を中心に活躍した。花輔は、噺家の出身。デブ子は太った見た目を芸名にしたというが謎が多く残る。
東亭花橘・玉子家光子
東亭花橘・玉子家光子は大正から戦後まで活躍した漫才師。夫婦漫才であったという。漫才というよりも、高座の上で餅を搗き、曲芸や餅のこねる様を見せる珍芸を売り物にした異色のコンビであったという。芸歴も長く大正時代から戦後にかけて、40年近く活動した。
東喜代駒
東喜代駒とは、東京漫才の元祖と言っても過言ではない漫才師である。上方漫才の影響を受けながらも、その流れに従う事なく、独学で奮闘し、はじめて東京人による東京漫才を完成させた功労者というべき存在であろう。