青空うれし・たのし(二代目)

青空うれし・たのし(二代目)

うれし・たのし(右)

 人 物

 青空あおぞら うれし

 ・本 名 島田 寿三
 ・生没年 
1935年1月5日~ご健在
 ・出身地 東京 日本橋

 青空あおぞら たのし(二代目)

 ・本 名 武田 健三
 ・生没年 1935年5月15日~2008年以降
 ・出身地 北海道 函館市

人 物

 青空うれし・たのし(二代目)は戦後活躍した漫才師。スマートな時事漫才を得意とし、うれし当人が「一番やりやすいコンビだった」と言わしめ、トップ・ライト、都上英二などからも期待をかけられたが、発展途上で解散してしまった。

 青空うれしは、今も第一線で活躍する、青空うれしその人。いつもお世話になっております。その経歴は、若手時代の芸名である「隼飛郎」の頁に置いてある。

 出身は日本橋、株屋「島田商店」の一人息子。幼い頃は大変裕福であったというが、戦争と疎開で多くの財産を失い、駒沢へ転居する。駒留中学に進学するが、当人曰く、「トンデモナイ悪ガキ」で、中学時代にはあまりにもヤンチャで手が負えないほどであったそうな。

 余りのヤンチャぶりに手を余らせた教師たちによって、うまく駒沢付属高校へと進学。当人曰く、「当時駒沢は学生数が少なくて、生徒が欲しかったんだろうな。思えば、駒沢に進んだ同級は悪ガキばかりだった」。

 駒沢高校でもなかなかのヤンチャぶりを発揮したそうであるが、自由な校風があったと見えて、小金竜尾、青空南児といった漫才仲間や、野球人たちと交友を深める事となる。

 1953年夏、TBS『のど自慢大会』に出て、漫才で一等を取ったのをきっかけに、漫才師デビュー。但し、当人はそこまでやる気がなかったそうで、「俺も鳥居(相方)も遊び半分でやっていた」「優勝の帰り道に小さな芸能事務所の社長に声をかけられて、東北巡業の司会漫才に出たのが、初仕事だった」との由。

「当時は旅が簡単にできない時代でもあったからね、今思えば、ロハで旅できる、上手いものも食える、女と遊べる、好きなことして金がもらえる――そりゃ下手なバイトよりもよほどありがたい話だった」。

 1955年の漫才研究会発足になし崩し的に参加。コロムビアトップ・ライトの門下に入り、「春うれし・秋たのし」「青空うれし・たのし(初代)」と改名。しかし、改名から間もなく、相方の鳥居義光が辞めてしまったため、コンビを解消。

 岡晴夫の一座に入り、北川要と出会いコンビを結成。「神田一郎・青山二郎」として数年活躍するが「思う所あって」一座を抜けて独立。それと同時に北川要とのコンビも解消し、東京へ戻る。

 一方の二代目たのしこと武田健三は、北海道函館の出身で、実家は材木問屋。幼い頃は、やはり裕福だったという。家業を継ぐために函館工業高校に進学したが、「なんか学生演劇とかハマって役者になりたいとか何とか」(うれし談)で上京。役者の修業中に、新宿末広亭の席亭で演芸評論家の真山恵介と出会い、漫才転向を勧められたという。

 元相方のうれし氏曰く、「本人から聞いた話だと、真山さんとどこかの居酒屋で顔見知りになって漫才師になりたいって相談したとか何とか」との事で、「それで真山さんから話を通してきて、コンビを組むことになった」。 

 真山恵介『寄席がき話』の中では、

コンビが変ってグーッとよくなったのに、青空うれし・たのしがある。前の相棒だった先代たのしが陶器問屋の若且那で、親元へ連れ帰られた。 いまのたのしと組んでからメキメキのグングンで、 このクラスでは第一の人気者であり、今や随一の忙しさを誇っている。うれしが昭和十年一月日本橋の株屋の倅に生れ、駒大の商経出ならたのしは北海道函館の材木問屋の息子で、同じ十年の五月生れ函館工業の出とある。どっちもどうして漫才なんか (失言か)になったのかと、それこそ親の顔が見たい? 次第だが、師匠のコロムビア・トップや、都上英二が口をそろえ「節操と礼儀の正しさ、そして芸人としての分を忘れぬ敬長の精神は現代若いモノのモハンですよ。芸も熱心だし、あすがたのしめる二人ですよ。こりゃ全くです」とホメそやす。ガン張れガン張れである。

 と、なかなか強く推されている。うれし氏に見せたところ、「真山さんが俺らのコンビを組ませたってのもあったんだろうな。俺らなんか随分ヤンチャしたものだが、世渡りだけはうまかったから」と呵々大笑なすっていた。

 性格は優しく、芸人には珍しい好人物だったそうで、「とてもやりやすい人物であった」とうれし氏から聞いた。

 余談であるが、青空はるおが、うれし氏との約束で、一年間、米屋で働いていた際の寄宿先は、田園調布にあった武田健三の家であったという。面倒見もよかったのであろう。結果としてはるおは、うれし氏との約束を守り、青空一門に入門する事が出来た。

 スマートな時事ネタと師匠譲りの社会批評を打ち出し、「若くフレッシュな」芸風で頭角を示した。早くからラジオ・テレビに出るなど活躍した。

 1958年10月、第4回NHK漫才コンクールに出場し、内海桂子・好江に次いで、準優勝を獲得。「確かオートメーションってネタをやったはず」とうれし氏の弁。

 その後も着実な成長を見せ、若手の中でもてんや・わんや、天才・秀才など、敗戦直後組に継ぐ第二世代の漫才師の筆頭と噂されるほどの人気と実力を兼ね備え、幹部からも可愛がられたが、1960年にコンビを解消。

 元相方のうれし氏によると、「人が良すぎたのと芸人には向かない性格の持ち主だったのが仇になったのではないかねえ。悪い人ではないけども、遅刻が多かったり、ちょっと揉めたりね。残念ながら、芸能界で生き残れる感じではなかった。」との由。遅刻癖やおとなしい性格が仇となって、結局色々と不義理(?)を作ってしまったのではないだろうか。

 たのしは芸能界に残らず、引退。一般職について、市井の人となったという。

 2018年に、武田健三の消息を訪ねた際、うれし氏は「今は知らんよ」と言いながら、「確か、上馬の質屋の娘と結婚したのを覚えている。最後にあったのは、今(2018年当時)から、10年位前くらいだから、2008年頃か。その頃までは健在だったんだよなあ」と語ってくれた。

 相方と別れたうれしは、1960年6月、同じく相方と別れたばかりの北川要(神田一郎)とコンビを組みなおし、「青空うれし・たのし(三代目)」を結成することとなる。

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