桂金哉・金二

桂金哉・金二

右より
正司敏江、桂金二(砂川きん児)、中田純平、中田ひろみ、島ぼん太

 かつら 金哉きんや
 ・本 名 ??
 ・生没年 ??~??
 ・出身地 ??

 かつら 金二きんじ
 ・本 名 小林 重幸(小島一雄?)
 ・生没年 ??~1979年
 ・出身地 ??

 人 物

 桂金哉・金二は戦前活躍した桂金吾門下の漫才師。正統的なしゃべくり漫才を得意としたというが多くの謎が残る。金二の本名は、大日本漫才協会名簿だと「小島一雄」、『上方演芸人名鑑』だと「小林重幸」とあり、どちらが正しいのか判別できない。

 出身経歴等は不明であるが、桂金吾・花園愛子の弟子だったのは間違いない。事実、金吾のご子息にあたる稲田とし氏によると「最後の弟子が金二・金哉というコンビだったそうです」と伺ってメモをしている。

 波多野栄一も『寄席と色物』の中で、 「桂金二・金哉 金吾の弟子で共に落語の柳好師の門下の由」と、記している。

 コンビ結成年は不明であるが、昭和初期の結成と推測される。また、1933年の広告(『都新聞』1933年1月21日号)に、

 「▲帝京座 廿一日より文化萬歳金吾、愛子、金哉、小金二、千代吉、千代菊……」

 という名前がある所から、昭和一桁より漫才をやっていたのは確かであろう。

 戦前は師匠について巡業や浅草の寄席に出演していた。都新聞に名前が時折出てくるが、これという広告もないので、どんな活躍していたのか分からない。

 師匠・金吾の威光やコネもあったのか、1939年には東宝名人会に出演している。これが数少ない資料である。

『都新聞』(1939年8月10日号)の安藤鶴夫「夢聲と圓生」には、

お言葉の丁寧な愛子、金吾も連略もなにもなしに突如として古い流行歌を歌ひ出したりする金哉、金二の二組の漫才、

と記されている。

 1940年、わらわし隊に参加し、砂川捨勝、木村小友(後の松葉薫)等と共に、中支方面へ慰問出発――と、早坂隆『わらわし隊の記録』にあるが、目下調査している陸軍恤兵部の慰問記録が見つからない。以下はそのメンバー。

北支那慰問班
河内家美代次・文春、東亭花橘・玉子家光子、大利根太郎(曲師 吉沢団蔵)

中支那慰問班
桂金哉・金二、祇園千代子・砂川捨勝、木村小友(曲師・戸川大助)

南支那慰問班
千代田みどり・松緑、林家染子・染次、広沢小虎造(曲師・とし子)

艦隊慰問班
柳家千枝造・漫作、奥野イチロウ・竹本ジロウ、秋山右楽・左楽 浪花軒〆友(曲師・荒川文柳)、松平晃(アコーディオン・岡本豊久)

 新聞には確かあったので見つかれば出てくるかもしれない。ここに年齢も書いてあるのかもしれない。

 1942年時点にはコンビを解消していたようで、桂金哉の名前は見えず。桂金二は「小島一雄」名義で出ているが、住所不明になっている。

 相羽秋夫『現代上方演芸人名鑑』によると、戦後は名古屋へ移住。「砂川きん児」と改名する。砂川捨丸一門にでも移ったのだろうか。

 妻の暁あけみとコンビを結成し、夫婦漫才「ウルトラコンビ」なる名称で、名古屋を拠点に活躍。

 1960年代には、雷門福助が会長を務める「名古屋芸能人協会」に関与、長らく同会に所属した。その名簿は雷門小福の聞き書き『噺家根問』の中で見る事が出来る。

 長らく大須演芸場や東海近辺の劇場、ラジオに出演。堅実な活躍を見せたという。桂喜代楽・愛子などと仲が良かったというが――

 1968年、事情は不明であるが、大阪へやって来て、島ぼん太(本名・渡辺康雄、島ひろしの門弟)とコンビを結成。

 中年ながらも新参者としてスタートし、正司玲児・敏江、中田ブラック・ホワイト、中田純平等といった若手漫才師と交友した。上の写真は正にその1シーンを撮ったもの。

 しかし、その活躍は長くは続かず、1970年、名古屋へと戻った。

 ただ、ぼん太とのコンビは解消せず、名古屋市で活動をつづけたらしく、『出演者名簿1974』に、二人の名前を確認する事が出来る。

『上方演芸人名鑑』によると、1979年に没。生年が判らないので逆算できない。

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