林家染次・染子
染次(右)・染子
(※左下の人物は関係ありません)
人 物
林家 染次
・本 名 大崎 三松
・生没年 1906年(逆算)~1981年以前?
・出身地 ?
林家 染子
・本 名 大崎 タケノ
・生没年 1910年頃?~1981年以前?
・出身地 ?
人 物
古い漫才師であるが、染團治門下で夫婦漫才であったこと、戦前、東京吉本に所属し、わらわし隊に参加した事以外はよく判っていない。
ハイカラな芸風だったらしく、波多野栄一の『寄席と色物』の中では「林家染次・染子 女房の腹のとこをたたくのが売物達者だった」と評されている。
戦前の雑誌や吉本の名人会などに掲載記事、出演記録が出ていたりする所を見ると、人気は有った模様である。吉本所属は古く、1930年代にはもう東京吉本の専属になっており、手元のメモには以下のようにある。
東京吉本直属技藝士一覧
漫才(順不同)
林家染団治・高山美貴子、千代田松緑・千代田わかば、都路繁子・立花六三郎
桂里子・桂文弥、玉子家光子・東亭花橘、河内家芳江・桂三五郎
河内家美代次・河内家文春、林家染次・染子、林實・町田武
西山奈美江・大倉壽賀若 松平漫謡隊(松平操?)、橘家菊春・橘家太郎一行
また、戦時中はわらわし隊として、千代田松緑と共に南支へ派遣されている様子が、早坂隆の『戦地演芸慰問団「わらわし隊」の記録』(同著 348~9頁)よりうかがえる。
北支那慰問班
河内家美代次・文春、東亭花橘・玉子家光子、大利根太郎(曲師 吉沢団蔵)中支那慰問班
桂金哉・金二、祇園千代子・砂川捨勝、木村小友(曲師・戸川大助)南支那慰問班
千代田みどり・松緑、林家染子・染次、広沢小虎造(曲師・とし子)艦隊慰問班
柳家千枝造・漫作、奥野イチロウ・竹本ジロウ、秋山右楽・左楽 浪花軒〆友(曲師・荒川文柳)、松平晃(アコーディオン・岡本豊久)
(註・資料の記録された当時の情勢や資料の引用上の関係から、支那と記しておりますが、決して差別を助長するものではありません。ご了承ください。)
太平洋戦争開戦直後の1941年12月には中国戦線に慰問に出ている。「陸恤庶發第一〇六二號 船舶便乗ニ關スル件申請」(1941年12月18日)の中に――
團 長 漫 才 林家染次 大崎三松 三三
〃 林家染子 大崎竹乃 二九
浪 曲 木村忠若 齋藤登 三三
三味線 秀治 田中秀治 二二
ひばり唱舞樂團 春日ひばり 大川絹子 一九
山梢 鴨崎梢 一六
美榮子 小原美榮子 一五
春子 小尾はる 一五
清子 鈴木清 二一
かすみ 奈良岡キクヱ 一八
八重子 中西八重子 一五
和子 山本和子 一五
師匠監督 松山宏 松山六蔵 四一
戦後も健在で活躍していたようで、「私のネタ帳 パートⅡ」などからその活躍ぶりがうかがえるが、『朝日新聞』(1951年5月12日号)の中に
(註・五月)十一日夜八時四十五分ごろ台東区上車坂二五先で住所不定輪タク業者Kは酔って通行人江戸川区小岩町五ノ七三四漫才師林家染次こと大崎三松さん(四五)を転がし、巡視中の上野署員がとめると、今度は懐中からナイフを出して大崎さんの胸を二刺しした。Kは直ちに検挙されたが、大崎さんは一カ月の重傷
という記載がある。その後、復帰して、1950年代まで名前が見えるが、漫才研究会などには関与していない。
最後の消息は、『アサヒ芸能新聞』掲載の松浦善三郎『関東漫才切捨御免』(1954年5月2週号)で、
林家染次・染子
立体。老若男女凡ゆる層に向く オーソドックスの漫才。センスが古いという評もするが、それは十人十色で仕方がない。ネタは数え歌でおだてられた染次が洋服からネクタイ、ワイシャツと段々ぬいで裸になってしまうまでのおかしみが売物。染団次師の高弟。放送に出ないので耳からのオナジミは少いが、永年吉本の劇場で本格的な修練を積んでいるのでファンは多い。
色物と正面切って取組んでいた往年の吉本王国で、トリに出ていたのであるから如何に戦前人気があったかということがうかがわれるわけである。
なお、1981年にまとめられた極楽寺の名簿には両人共に名前が出ている。
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