大朝家美代子・三枡静代

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大朝家美代子・三枡静代

静代(右)・美代子

大津万龍とテレビに出た時のもの

晩年の二人

 人 物

 大朝家だいちょうや 美代子みよこ

 ・本 名 中野 美代
 ・生没年 1927年8月18日~没
 ・出身地 東京

 三枡みます 静代しずよ

 ・本 名 森田 ひさ
 ・生没年 1904年12月2日~1980年代?
 ・出身地 東京

 来 歴

 大朝家美代子は百面相の柳家あやめの娘。姉の豊子も漫才師。

 6歳で父・あやめと父娘漫才として早くも初舞台を踏み、8歳で姉とコンビを組んで、本格的に漫才参戦。少女漫才「奈歌乃登代子・美代子」として活動する。名前は本名の中野からとった事は言うまでもない。戦時中、大朝家五二郎より名前を貰い、大朝家豊子・美代子となる。

 1949年に三枡静代とコンビを結成する。この頃から後述する台所ジャズを演じていたのだから、古い。『アサヒ芸能新聞』(1953年12月1週号)掲載の「関東漫才斬捨御免」の中でも、

 女は化物だと云うが全くで数年前の美代子はお世辞にも化粧が上手とはいえなかったが、わずかの間に自分を活かす化粧法をマスターして、もともと目もとのすずしい整った造作だったから、最近はまずまず美人の部に入るようになってきた。若いのに似合わず妙に肉付きがよくこれが一種の性的魅力となっている。京マチ子の感じといったらほめ過ぎだろうか。この化粧法に加えて舞台度胸も増し、円味のある芸域にひろがってきたことはうれしい。
 静代の三味線の音調に合せて、ビール瓶、サイダー瓶、フライパン等々をならべて、これをたたいて野崎村の合奏をやる。当世流にジャズ漫才とかいっているが、しいて区別すれば「台所漫才」?とでもいうべきか。合奏が急ピッチになると客が喜んで声援を送る。びっくりする程うまいものでも無いが、女流でしかも若い娘が「台所」をやる其の意気を多いとすべきであるし他に余り類が無いところから珍とするに足るであろう。

 と触れられている。この台所ジャズという芸は古くからあるネタで、戦前の朝日日出丸・日出夫、上方漫才の浪花家市松・芳子などが得意とした。古さで言えば、日出丸・日出夫が1931年10月19日のラジオの中で、『家庭ジャズ』と称し、この芸を演じているので、相当に古い。

 静代の前歴はよくわかっていないが、女道楽の出身で古いキャリアの持ち主だったという。『アサヒ芸能新聞』(1953年12月1週号)掲載の「関東漫才斬捨御免」の中に、

静代は年配からいっても今が最良の時期ではないか。以前の「小槌」の名前が売れていたので今でも幕内では静代さんとよぶ人は少いぐらい。それほど静代と名乗るのも新らしいし又美代子とのコンビも新らしい。しかし静代にとっては今の舞台が最も喜ばれ愛されるようだ。これは静代の人柄にもよるだろうが、人気のよってくる原因の一端は若い美代子にもある。

 また、神津友好『にっぽん芸人図鑑』に、

三桝静代は支那事変の大陸慰問団「わらわし隊」の一行で、昭和十四年に南支に派遣されたとき三十代であったというから、まず東京漫才が帝都漫才協会といったころの草わけ組の大先輩。

 と、キャリアが古い事を伺わせる資料はいくつかある。笑組のゆたか氏が内海桂子や関係者から聞いた話によると、戦前は音羽よし子とコンビを組んでいた、という。

 静代の三味線に合わせて、美代子が釜や台所用品を叩いて曲を演奏する「台所ジャズ」なる珍芸を十八番とし、浅草や巡業を中心に活躍をした。

 以来、30年に渡ってコンビを続け、台所漫才の第一人者(?)として、一線で活躍してきたが、1980年、静代は老齢の為に引退。これを機に美代子は大朝家を返上し、中野寿美と改名した。但し、この辺りの情報は錯そうしており、1982月の漫才大会まで「美代子・静代」名義になっている。その一方で演芸家連合の名簿では1981年より万龍とのコンビになっている。

 1981年頃、大津万龍とコンビを組み直した。大津万龍は大津お万の門下で――詳しくは、一龍・万龍を参考にせよ。(工事中)

 1987年頃、コンビを解消、東寿美と三度目の改名をして、ダーク大和の嫁で奇術師の日の本光子と「オバタリアンズ」を結成。

 70過ぎても矍鑠と舞台に上がり、台所漫才を披露していたが、2005年9月5日、光子が死去したため、コンビ解消。相方を失った美代子は老齢などを理由に一線を退いた。その後は時折、仲居をつとめ、余生を過ごしていたが、最晩年は姪の許に身を寄せていた。先年没したという。

 目下、ご遺族に取材中である。乞うご期待。

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