大朝家美代子・三枡静代
静代(右)・美代子
旅先での一コマ(ご遺族提供)
カラー写真での一枚(ご遺族提供)
大津萬龍とのコンビ(ご遺族提供)
晩年のコンビ、日の本光子と(ご遺族提供)
矍鑠と活躍する二人(ご遺族提供)
人 物
大朝家 美代子
・本 名 中野 美代
・生没年 1927年8月18日~2018年7月3日
・出身地 東京
三枡 静代
・本 名 森田 ひさ
・生没年 1904年12月2日~1980年代?
・出身地 東京
日の本 光子
・本 名 長谷川 千鶴(旧・大西)
・生没年 1927年5月22日~2005年9月5日
・出身地 大阪府(宮崎出身説もある)
来 歴
大朝家美代子は百面相の柳家あやめの娘。姉の豊子も漫才師。
6歳で父・あやめと父娘漫才として早くも初舞台を踏み、8歳で姉とコンビを組んで、本格的に漫才参戦。少女漫才「奈歌乃登代子・美代子」として活動する。名前は本名の中野からとった事は言うまでもない。
戦時中、大朝家五二郎より名前を貰い、大朝家豊子・美代子となる。
1949年に三枡静代とコンビを結成する。この頃から後述する台所ジャズを演じていたのだから、古い。『アサヒ芸能新聞』(1953年12月1週号)掲載の「関東漫才斬捨御免」の中でも、
女は化物だと云うが全くで数年前の美代子はお世辞にも化粧が上手とはいえなかったが、わずかの間に自分を活かす化粧法をマスターして、もともと目もとのすずしい整った造作だったから、最近はまずまず美人の部に入るようになってきた。若いのに似合わず妙に肉付きがよくこれが一種の性的魅力となっている。京マチ子の感じといったらほめ過ぎだろうか。この化粧法に加えて舞台度胸も増し、円味のある芸域にひろがってきたことはうれしい。
静代の三味線の音調に合せて、ビール瓶、サイダー瓶、フライパン等々をならべて、これをたたいて野崎村の合奏をやる。当世流にジャズ漫才とかいっているが、しいて区別すれば「台所漫才」?とでもいうべきか。合奏が急ピッチになると客が喜んで声援を送る。びっくりする程うまいものでも無いが、女流でしかも若い娘が「台所」をやる其の意気を多いとすべきであるし他に余り類が無いところから珍とするに足るであろう。
と触れられている。この台所ジャズという芸は古くからあるネタで、戦前の朝日日出丸・日出夫、上方漫才の浪花家市松・芳子などが得意とした。
古さで言えば、日出丸・日出夫が1931年10月19日のラジオの中で、『家庭ジャズ』と称し、この芸を演じているので、相当に古い。
静代の前歴はよくわかっていないが、女道楽の出身で古いキャリアの持ち主だったという。『アサヒ芸能新聞』(1953年12月1週号)掲載の「関東漫才斬捨御免」の中に、
静代は年配からいっても今が最良の時期ではないか。以前の「小槌」の名前が売れていたので今でも幕内では静代さんとよぶ人は少いぐらい。それほど静代と名乗るのも新らしいし又美代子とのコンビも新らしい。しかし静代にとっては今の舞台が最も喜ばれ愛されるようだ。これは静代の人柄にもよるだろうが、人気のよってくる原因の一端は若い美代子にもある。
また、神津友好『にっぽん芸人図鑑』に、
三桝静代は支那事変の大陸慰問団「わらわし隊」の一行で、昭和十四年に南支に派遣されたとき三十代であったというから、まず東京漫才が帝都漫才協会といったころの草わけ組の大先輩。
と、キャリアが古い事を伺わせる資料はいくつかある。笑組のゆたか氏が内海桂子や関係者から聞いた話によると、戦前は音羽よし子とコンビを組んでいた、という。
静代の三味線に合わせて、美代子が釜や台所用品を叩いて曲を演奏する「台所ジャズ」なる珍芸を十八番とし、浅草や巡業を中心に活躍をした。
以来、30年に渡ってコンビを続け、台所漫才の第一人者(?)として、一線で活躍してきたが、1980年、静代は老齢の為に引退。これを機に美代子は大朝家を返上し、中野寿美と改名した。
但し、この辺りの情報は錯そうしており、1982月の漫才大会まで「美代子・静代」名義になっている。その一方で演芸家連合の名簿では1981年より万龍とのコンビになっている。
1981年頃、大津万龍とコンビを組み直した。大津万龍は大津お万の門下で――詳しくは、大津一萬・万龍を参考にせよ。
1987年頃、コンビを解消、東寿美と三度目の改名をして、ダーク大和の嫁で奇術師の日の本光子と「オバタリアンズ」を結成。
日の本光子は、漫才師から奇術師になり、また漫才師になったという珍しい経歴の人。
『東京かわら版寄席演芸年鑑 2002年版』などには、「大阪出身」と書いてあるが、「第三〇回漫才大会」のパンフレットには、「宮崎県出身」とあり、どちらが正しいのか、よく判らない。宮崎出身で本籍が大阪、と見るのが妥当な所であろうか。
1930年、新内の鶴賀助六に入門し、「鶴賀小助」と名乗る。三味線や邦楽を教え込まれた。
1932年、父親の桂文太郎とコンビを組んで、父娘漫才でデビュー。1934年には「関西少女漫才コンクール」で優勝した、と大朝家美代子旧蔵のパンフレットにある。以来、漫才師として全国を巡業。
但し、この頃の記録は少ない為、一体何をやっていたのか今となっては判らない点が多い。帝都漫才協会関係の名簿や資料に名前が出ていない事から、長らく関西に居た模様。
1970年より奇術師となり、活動を始める。奇術に転向した理由もよく判らない。ドジョウすくいの手品や飄々とした話芸で人気のあったダーク大和の門下に入って、「ダーク千鶴」と名乗る。それに伴い、日本奇術協会へ入会。漫才コンビを結成するまで、長らく在籍していた。
弟子入り後にダーク大和とも懇意になりはじめ、交際を始めるようになる。
後年、ダーク大和と結婚。『東京かわら版寄席演芸年鑑 2002年版』に――1980年、ダーク大和と結婚、改名して「ダーク千鶴」――とあるが、お弟子のお話などでは、やや時系列が違ったりする。とにかく晩婚だったのは確かである。
晩婚であったが、大和と幸せな家庭生活を築き、よく働いた。その中で、漫才師の仕事も来、これからも人気を集めようという矢先、1991年、ダーク大和を喪い、未亡人となる。
70過ぎても矍鑠と舞台に上がり、台所漫才を披露したほか、若いころ覚えた踊りや俗曲をみせる古風な漫才を展開。古老の一組として、漫才大会などに出演。
また、余談であるが、今売れに売れているナイツの塙氏と仲が良かったらしい。
2005年9月5日、光子が死去したため、コンビ解消。相方を失った美代子は老齢などを理由に一線を退いた。
その後は仲居をつとめる傍ら、余生を過ごしていたが、最晩年は姪の許に身を寄せていた。最期は山形県で静かに冥途へ旅立ったという。
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