千代の家計之助・木村咲子

千代の家計之助・木村咲子

 人 物

 千代ちよ 計之助けいのすけ
 ・本 名 矢田 久治
 ・生没年 ??~1970年以降
 ・出身地 ??

 木村きむら 咲子さきこ
 ・本 名 柿村 キテイ 
 ・生没年 ??~戦後
 ・出身地 ??

 来 歴

 千代の家計之助の詳しい経歴はよく判らないが、「千代の家」という亭号からを、関西系の芸人だろう。

「千代の家」は戦前に人気のあった漫才の一門で、冨士蓉子とコンビを組んだ千代の家弟蝶をはじめ、お蝶・蝶九、蝶々・みどり、美蝶・マサル、伸蝶などがいた。一門の元締めは蝶九だったという。

 蝶九は戦前当時としては珍しく何度も渡米をしていた漫才師で、1929年9月から約半年間、アメリカを巡業している様子が、『Nichibei Shinbun』(1929年8月25日号)から確認できるが、この時一座の座員として同行したのが若き日の横山エンタツであった。

 計之助もこの人の門下に入り、大阪で修業した後に上京した模様か。戦前から浅草や巡業で活躍しており、大日本漫才協会名簿にもその名前がある。

 一方の木村咲子は、戦前、木村笑子とコンビを組んでおり、女流漫才の一組として浅草を中心とした人気があった。このコンビはまた別項を立てようと思う。三味線が得意で、諸芸尽くしの漫才を展開していたという。

 戦後、コンビを結成。男女といえば夫婦コンビが多い中で、男女で縁もゆかりもない他人コンビという珍しい形をしていた。

 両人ともに古い経歴を持っていた事もあってか、いわゆる古風な音曲漫才を得意としたらしい。『アサヒ芸能新聞』(1954年1月4週号)に、その芸風が出ているので丸々引用しよう。

◎木村咲子 千代の家計之助

男女で組んでいる漫才はあら ゆる場合に利点が有るようで比較的夫婦が多く男女で他人コンビをいうものは真に数少ない。
其の少いコンビの中の一組でしかも割合に長続きして居る漫才で、舞台から受ける性格的な感じは咲子が陽、計之助は陰である。申し合わせにもよるのだろうが、咲子のポンポンと煙花以上の鉄火鍋――まるで喧嘩腰のしゃべり――を計之助がシネリと受けて行く。「アノネェお寅さん」などと咲子に呼びかけるが実にぴったりといったら御当人怒るかね? 咲子の三味線でつかうが人のやらない数え歌など出して全体の調子は至極古風で区分は音曲の部であろう。逆コースの新春の東京の町々には本場の三河漫才が出て来て江戸模様をたのしませてくれたが、今日舞台に上っている漫才は、三河漫才と別流の三曲漫才と両方の進化したもの――此の二つのイキカタに大出来るのではないだろうか。更に此の二つの中でも現代の漫才は大部分が三曲漫才の亜流をくんで、知らず知らずの内にイキカタで筋立てられているのでは無かろうか。
正調三河漫才にしても尾張漫才にしても聞いて面白いものでは無いのだから、掛合調の三曲漫才のイキカタになるのは当然なわけ。という仮説をたてたのは此のコンビが三河式であるという事を云い度いためで、漫才が興行種目に加えられた中興時代の姿其のであるからだ。三河式すなわちオーソドックスは勿論珍直し、愛存して行かねばならぬものではあるが原子力時代の漫才としては相当のヴァラエテイも要求されるし、そのため台本作家も苦労しているのである。とすると此のコンビも新らしいテアイデアをとり入れて今年の干支のように、三河式から一ハネも二ハネも三ハネもしてほしいところである。

 主に巡業が中心だったせいか、漫才研究会には参加をせず、独立独歩の態度を取り続けた。

 後年、木村咲子とのコンビを解消し、「波の家小波」という相方と組み直した。晩年は浅草松竹演芸場と木馬館を根城としており、人気者たちに挟まれながら、淡々と舞台を勤めていたという。人間的には非常におとなしい人だったらしく、青空うれし氏曰く、「数回しかあった事はないが、然し、すごく大人しい、おじいさんっていう感じだった記憶がある」。

 1970年11月に発行された『漫才協団 漫才グループ21 No.2』の名簿の中に、名前が出ている所を見ると、1970年代まで現役だった模様である。

 その後の消息は不明。老齢のため、引退したか、没した模様である。

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