宮島一歩・三国道雄

宮島一歩・三国道雄

左・一歩、右・道雄

下・一歩、上・道雄

  人 物

  宮島みやじま 一歩いっぽ
 ・本 名 三島 末治  
 ・生没年 1906年10月7日~1972年11月14日
 ・出身地 大阪府

  三国みくに 道雄みちお
 ・本 名 三岡 濱雄
 ・生没年 1896年2月6日~1972年以降  
 ・出身地 兵庫県 神戸

 来 歴 

 眼鏡をかけでっぷりとした道雄にヒョロヒョロでギョロ目の一歩と対比的なコンビで、戦後の東京漫才の人気者として君臨した。

 二人は元々、喜劇の田宮貞楽の門下で、役者修業をしていたという。演芸作家の玉川一郎は、

 三国ミチオ・宮島一歩のコンビは、ミチオは曽我廼家系の田宮貞楽一座の喜劇俳優で、一歩はこれまた二枚目。

(「読売新聞 夕刊」 1960年2月13日号 4頁)

 と、指摘している。が、遡れるのはそれくらいまでで、喜劇役者以前の前歴はよく分かっていないのが現状である。

 その後、漫才師に転向。その結成時期はハッキリとしていないが、「読売グラフ」の中で、二人は、

 一歩 もう十五年になりますなあ。
 道雄 このぶんだと、地獄までごいっしょですか。
 一歩 そりゃあ底抜けコンビだもの。どこまで落ちても底なしや。
 道雄 しかしお互いにノンキで、そそっかしい方ですねえ。
 一歩 相手を間違えんのが不思議なくらいや。
 道雄 ところで女にモテるのは何といってもわたしだね。
 一歩 できる方はこちら。
 道雄 それじゃ、まるでわてが損しているみたい。
 一歩 そりゃ仕方ないさ。おたくは神さんがあるが、わたしは十年前からやもめ暮らし。もっとも三人のコブつきだがね。

(「読売グラフ」1955年7月号 より 「顔・漫才」16頁)

 なる証言をしている。これを正しいと仮定して逆算すると、1940年頃にコンビを結成した模様である。なお、小島貞二によると、芸名は「道を一歩ずつ行こう」などと、前向きな願いを込めて名付けたそうである。

 戦前は浅草を中心に活躍していたが、東宝名人会や漫才大会にも呼ばれるだけの人気はあった。

 1940年ごろ、一度コンビを解消。一歩は、浪速マンマルにスカウトされて「浪速マンルイ」と改名。三国道雄はまた別人とコンビを組んだ。

 そうかと思うと、1942年頃にコンビを復活させ吉本の劇場に出演――そうかと思うと、またコンビを解消して、一歩はマンマルとよりを戻すという謎っぷりを見せている。

 戦後、道雄は波多野栄一や三国トンボという人とコンビを組んでいた。一歩はマンマルとコンビを組んでいたが、マンマルが国友昭二とコンビを組むにあたって解消し、道雄とよりを戻した模様。

 一歩・道雄に戻った後は、放送と実演を中心に活躍。独特の間と「底抜け○○」と名付けたネタで高い評価を集めた。

 わずか数年で東京を代表するコンビとして知られるようになり、引っ張りだこの生活を送った。そんな実力を買われたのか、1953年1月に帝劇で行われた漫才大会にも招致される(なお、二人は出る気満々だったそうであるが、一歩が風邪を引き、当日は出られなかった)など、名実ともに人気者として活躍した。

 また、漫才研究会の創設にも関与をしたそうで、1955年に発行された漫才研究会の名簿の中を見ると、

二月十四日午後十一時会員総会を開催改めて役員推挙の結果左の通り確定す

會  長 リーガル千太・万吉
補  佐 林家染団治・美貴子
常  任 都上英二・東喜美江
宮田洋容・不二幸江
会  計 三國道雄・宮島一歩
会計監査 (兼任)リーガル千太
幹  事 大道寺春之助
隆の家万龍・栄龍
大空ヒット・三空ますみ
青柳満哉・柳七穂
桂三五郎・河内家芳江
浅田家章吾・雪枝
桜川ぴん助・美代鶴[※「兼任連絡」の加筆有]
橘晃一・橘眞理子
松鶴家千代若・千代菊
中禅寺司郎・滝喜世美
高波志光児・光菊
新山悦郎・春木艶子
南道郎・国友昭二[※追記]
コロムビアトップ・ライト[※追記]

(八木橋伸浩編「南千住の風俗 文献資料編」 28頁)

 なかなか幹部待遇されている事がわかる。

 だが、1958年8月、漫才研究会で内紛が起こった時には、隆の家栄龍・万龍桜川ぴん助・美代鶴らと共に、会を離脱し、新たに「東京漫才協会」なる協会を設立し、東京漫才の混乱も招く遠因も作ってしまった。

 なお、この団体は最初こそよかったが、実質「有名無実」だったようで、いつのまにか組織は空中分解を起こし、会員は漫才研究会に復帰している。

 その内紛が引き金となったのかはわからないが、昭和四十年代に入ると、一歩は病勝ちになり、少しずつ陰りが出るようになり始めた。

 結局、一歩の病は好転せずに一進一退を繰り返し、このコンビはテレビ全盛を目の前にしながら、徐々にフェードアウトしていき、最期は、

 特に宮島先輩には教えてもらったことは多い。こんなうまい人が、テレビが普及してから、制約した時間に押されたのか、ブラウン管からだんだん遠のいていった。今から四年前、昭和四十七年十一月十四日、六十六歳で心臓衰弱のため、この世を去った。

(玉川良一「タマリョウのぶっちゃけ放談」より)

 と、いう。長年の相方を失った三国道雄は誰と組むことなく、ひっそりと引退した。

 なお、一時期、宮田章司とコンビを組んでいた宮島一茶(本名・三島由紀雄)は一歩の実の倅である。それはまた宮田章司の頁に詳しく書くので、割愛。

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