千家松人形・お鯉

千家松人形・お鯉

千家松人形・お鯉(左)

人気を集めていた頃の人形・博次

千家松人形・博次(右)

 人 物

 千家松ちかまつ 人形にんぎょう
 ・本 名 石川 ふく(旧・稲垣?)
 ・生没年 1907年~1982年10月7日
 ・出身地 福岡県 博多?

 千家松ちかまつこい
 ・本 名 須田 浜子
 ・生没年 1910年3月30日~1979年5月15日
 ・出身地 長野県

 千家松ちかまつ 博次ひろじ
 ・本 名 大久保 たか
 ・生没年 1899年~1950年前後?
 ・出身地 福岡県

 来 歴

 人形は元々博多の芸妓で「博多水茶屋」という有名な見番に所属していた。元相方の「水茶屋」の亭号はここから来た。

 この茶屋は芸達者揃いで、「博多節」を一曲の作品としてまとめ上げたという「水券お秀」こと「水茶屋お秀」なども、人形の仲間であった。

 戦前刊行されていた『富士』(1932年1月新年特別号)の人物録の中に、博次・人形の略歴が掲載されていたので引用する。

博多節(福岡) 水茶家博次 
本名大久保たか。明治三十二年福岡に生る、博多花柳界水茶屋にて七歳より藝を仕込まれ、九歳より半玉となり、十数年前同地に左褄をとり只管藝道精進をなし、大正十四年春演藝界に志し今日に至る。浅草に住す。

博多節(福岡) 博多家人形 
本名稲垣福子。八歳の時より藝道に精進。殊に三味線に興味を持ち、十七歳にして杵屋の名取となり博次と共に大正十四年春藝界を志して上京。現在浅草に住す。明治四十三年の出生と言へば前途春秋に富むと言ふもの。

 美貌と芸達者な所から広く愛され、姉貴分の水茶屋博次と共にある旦那に抱えられた。この旦那こそ後年の博王である。

 長らく水茶屋の人気芸妓として出ていたが、事情あって博王、博次と共に大阪へ出奔。この地で博王を中心とした三人組の音曲グループを作り、寄席芸人へと転向。博王は後年、マネージャのような事をするようになった。

 1928年3月4日、上京しラジオに初出演。『読売新聞』(同日号)の放送欄に「数多の俚謡と中でのピカ一の博多節が家元水茶家博次、博多家人形が上京して放送します」とある。

 この放送がきっかけとなったのか、間もなく上京。5月から浅草公園劇場に出演するようになる。

 同年7月9日『端唄いろいろ』と銘打った演題でラジオに出演した際には「放送者は公園の御園劇場でおなじみの水茶家博次さんと博多家人形さんの二人で……」と、浅草の芸人として紹介されている。

 夫婦喧嘩を面白おかしく掛け合い都々逸で描いた『痴話喧嘩』、『博多節』などを看板芸として演じていた。綺麗で嫌味のない芸が高く評価され、ラジオの人気者になった。目下確認している出演は以下の通り。まだあるようであるが調査中。

 1928年3月4日、夜8時15分より「地方俚謡大会」。

 5月1日、夜8時より「小唄五番」。演奏は「黒田節」「島田金谷」「俺が国さ」「御所のお庭」「博多の四季」。黒田節は鐘太鼓、法螺貝を入れた古風なものであった。

 7月8日、夜8時より「端唄」。演奏は「夏は蛍」「エンカイナ節」「伊予節」「掛け合い都々逸」「博多小唄」。

 8月31日、「博多節」。演奏は「博多節」「ガラガラがき」「ぼんち可愛や」「祝ひ目出度や」「博多四季」「掛け合い都々逸」。

 1929年2月17日、夜8時より「浮世節」。演奏は「博多節」「掛け合い都々逸」「吹き寄せ」。

 1930年2月1日、昼0時5分より「音曲」。演奏は「お座付」「恋の神楽坂」「伊予節」「根無し草」「登山小唄」。

 3月4日、「音曲」。

 6月30日、「音曲」。

 10月4日、昼0時5分より「吹き寄せ」。演奏は「秋草」「弓張月」「浅くとも」「肥後節」「博多なまりわしが国さ」「黒田節」「筑後節」「アルプス小唄」。

 12月4日 、「音曲」。

 1931年2月15日、『落語と音曲の日』に出演。

 5月24日 、「音曲」。

 8月25日 、「音曲」。

 11月9日 、「音曲」。

 1932年8月31日 、「音曲」。

 11月22日 、「音曲」。

 1933年2月7日、「音曲」。

 1934年7月29日、昼0時5分より「吹き寄せ」。演奏は「新曲・無憂華」「米山」「浅くとも」「股旅」「江戸騒ぎ」「大津絵」「えんかいな」「都々逸ナンセンス・出張」。

 また人気に乗じて、レコードも吹き込んだ。動画サイトに転がっているはずであるので、興味のある方は適当に確認してみてください。以下は判明している分。

 1928年3月、ビクターより「博多節」(50378)、「痴話喧嘩」(50379)。

 1929年3月、ビクターより『本場正調 博多節・博多節』(50651)。

 1930年2月、ビクターより「しょんがね・端唄 大津絵」(51104)。

 1930年3月、ポリドールより「端唄 掛合都々逸」(212)。

 1934年3月、タイヘイより「音曲ナンセンス・痴話喧嘩」(4150)、「博多節」(4151)。盤面には「博多家改メ千家松」となっている。

「博次・人形」名義であるが、「痴話喧嘩」には、映画説明者的な存在として、博王も登場している。ガラガラ声の親父声が、博王である。

 1933年頃、吉本興業と契約を結び、専属の芸人となる。これにより、花月系の劇場にも出演できるようになった。桂金吾・花園愛子林家染団治などと共に東京勢として活躍。

 また、大阪系の劇場にも出演した。詳しくは、『上方落語史料集成』見てください。又追記します。

 1934年2月7日、「千家松人形」と改名。詳しい理由は不明であるが、吉本興業との専属になった背景は一枚噛んでいるようである。

『読売新聞』(1934年7月27日号)の放送欄に、

お馴染みの博多家博次、人形が千家松(チカマツ)と改名したのが昨年の2月7日、其後吉本興行部専属となり目下浅草萬成座に出演中だがけふ一年半振りでAKから放送する

 とある。余談であるが、この直後、放送の出演を巡り、吉本とNHKの間に、緊張状態に陥った。

 この人気が買われて、寄席や劇場の色物として出演するようになったほか、千家松一座として各地を巡業した。

 戦前、新興演芸部に迎え入れられる形で、吉本から移籍。大劇場で女道楽を披露し続けた。この頃が「人形・博次」の全盛期だったといえよう。

 1940年頃、旦那分の博王が亡くなっている。

 戦時中は戦意高揚風の演目を演じた様子が、『近代歌舞伎年表京都篇』などで確認できる。

 敗戦直前まで奮闘をつづけ、劇場や寄席の焼失に伴い仕事を喪う。戦後は横浜に移住し、博次と再起を計った。その頃はラジオなどに出演している。

 色川武大や川戸貞吉は「敗戦直後1947年頃に死んだ」と発言したり、記しているが、『NHKラジオ新聞』(1950年2月18日号)の中に「二四日後七・三〇 第二 放送演芸會 落語 古今亭今輔 俗曲 千家松人形・博次」とある所から、これは誤解のようである。

 然し、この後間もなく亡くなったのは事実らしくコンビ解消。以降は横浜にとどまって、三味線や踊りの師匠をして、余生を過ごしていた。

 お鯉の前歴はよく判らない。真山恵介『寄席書き話』によると、芸者の出身だったそうで、

それもそのはず、お鯉は神戸で、鮎子は東京の芳町で左褄をとったご履歴の所有者。

 とある。どこまで本当なのか知らない。

 戦前は滝の家連という女道楽のグループに入り、三味線や踊りなどを演ずるようになる。この頃に出会ったのが後年コンビを組む滝の家鯉香であった。

 後年、この2人でコンビを組み、舞台に上がるようになる。戦前戦後と長きに渡って活躍。落語協会に入会し、同会の定席に出入りをしていた。この頃見かけたという清水一朗氏によると、「漫才みたいなものだったと記憶してますが」。

 1952年4月頃、鯉香とのコンビを解消。鯉香は一人高座の三味線漫談に転向し、「のんき節」で人気を集めるようになった。

 コンビ解消後、芸妓上がりの「鮎子」という女性とコンビを結成。日本芸術協会へと移籍し、1956年8月頃より定席へ出演するようになる。

 この頃には漫才の型を捨て、座り高座で三味線を弾き、俗曲や端唄小唄などを聞かせる古いスタイルへと戻っていた模様である。

 1959年7月限りで鮎子とのコンビを解消。相方と別れたお鯉は、昔馴染みの人形に復帰してもらうようわざわざ横浜の家まで訪ね、三顧の礼で懇願した。

 1959年8月、コンビを組み、「千家松人形・千家松お鯉」となる。落語芸術協会に入会し、「女道楽」のコンビとして枯淡の芸を見せた。

 ただ、結成直後は話術や掛合が馴れず、観客を困惑させることもあったという。『新文明』(1961年1月号)に――

 ○千家松人形は、お鯉、鮎子のコンビの片割れであるお鯉と少し前新たに組んだ女性である。鮎子と組んでいるときはあまりパッとしなかったお鯉だが、人形という顔もよし聲もよし踊りもよしの相棒をみつけて自分がワキに 廻ってからはかなりひきたつて見える。二人ともかけ合いの呼吸が悪く、セリフの面では素人のような感じが丸出しで、悪いことに人形の方がその點ではいつも特に不出來だが、一旦都々逸などを謡わせると、文字通り鈴を振るような聲の美しさが、人を魅せずにおかない。西川たつの没後、しばらく淋しい思いをさせられていて、はじめて人形の聲を聞いた時は嬉しかった。聲に有りあまる艶を丹念に消して、いぶし銀のような磨きをかけた仕上げを心がけるのでなければ西川の藝には追 いつけまいし、ことに「さのさ」は甘つたるさがかなり邪魔になるが、力量はある人だから今後に充分期待はかけられよう。お鯉と二人でやる「たぬき」 の曲など、西川のよりも派手なだけに充分聞きばえがする。人形の三味線が腹の美しい音を始めに聞かせる瞬間が僕は好きだ。ただこうしたサワリの部分のよさにくらべて、お座附とか、はじめのセリフのやりとりなどにどうも粗雑なものが感じられるのはどうしてだろうか。三味線の音も、「たぬき」を弾く時以外はこのコンビは別人の組み合わせのように不揃いでいささか愉快でさえある。細部の仕上げや演出には、かなり手ぬかりがあると見た。人形は最後に立つて「潮來出島」を踊る。これはさっぱりしていて美しい。

 三味線や唄を中心にした古き良き芸で、爆笑路線をゆくものではなかったが、鍛え上げた撥さばきや貫禄は、多くの人から激賞されるところとなった。芸に厳しい立川談志も、『立川談志遺言大全集14』の中で、

「滝の家鯉香」、その頃は「滝の家お鯉・鯉香」の二人で演ってた。後に鯉香さん独り高座で替え唄でウケていた。チト下司だが、それが迫力となってウケた。別れた”お鯉さん”は三味線の名人博多家人形(後の千家松人形)と組んで最後の「女道楽」、「千家松人形・お鯉」は結構でした。やれ、”結構”だの”ダメ”だのと書いても皆目判るまい。でも書いておく。そのことに些か意味もあるべえに……。
 女道楽とその旦那人形さんは、美人で素晴らしい漫才であった、と、色川武大さんが書き残してる。こちとらとは文章が違う……、当たり前也。博次と組んだ漫才、後に鯉香さんと別れたお鯉さんと組んで 後の女道楽「千家松人形・お鯉」。ネタは一つだが、そのバチ捌きは冴えに冴えた。

 と激賞している。その他、真山恵介、馬場雅夫、色川武大なども高く評価し、取り上げた。随時更新します。

 晩年は寄席や落語系の名人会を中心に、華々しい活躍を続けたものの、お鯉の心臓病の悪化に伴い、徐々に活動が縮小するようになる。

 1979年2月、上野鈴本演芸場中席の出演を最後に休席がつづき、同年5月心臓弁膜症のため、横浜市の病院で死去。人形は引退した。

 以下は『演劇年報1980年』に掲載された訃報。

千家松お鯉
 ○俗曲家
 ○ちかまつ・おこい。本名・須田浜子。
 ○大正四年三月三十日、神奈川県に生れる。滝の家鯉香と組んでデビュー。二十年前に別れて千家松人形と組む。落語芸術協会所属。
 ○昭和五十四年五月十五日、横浜市の横浜救済会病院で心臓弁膜症のため死去。六十九歳。

 お鯉の死を受けて、人形は引退。

 1979年7月中席のカケブレに――「退職千家松人形永い間お世話になりました。今後はお稽古のみいたしております。」とあるのが確認できる。

 以降は芸能界と距離を置き続けたが、松乃家扇鶴を弟子にしたほか、『早起き名人会』の企画で、川戸貞吉のインタビューを受けるなど縁を切ったわけではなかった。

 しばらく達者で隠居生活を送っていたが、1980年8月、脳血栓をおこし入院。

 当初は病状が軽く、即座の退院も打診されるほどであったというが、突如容態が急変し寝たきりとなる。点滴だけで夏を過ごし、そのまま健康を回復することなく75歳で亡くなった――と川戸貞吉が『早起き名人会』の中で語っている。

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