ベレーミヤオ・左キヨ子

ベレーミヤオ・左キヨ子

 人 物

 ベレー ミヤオ
 ・本 名 宮尾 淳
 ・生没年 1917年3月30日~1981年以降
 ・出身地 東京

 ひだり キヨ子
 ・本 名 宮尾 清子
 ・生没年 1923年10月9日~1979年頃?
 ・出身地 千葉県

 来 歴

 ベレーミヤオ・左キヨ子は戦後活躍した漫才師。ベレーミヤオは芸名の通り、ベレー帽をかぶりそれをトレードマークとした。キヨ子は三味線を抱え、小唄端唄を聞かせたという。実力はあったが、中年から漫才師になったせいもあってか遂に売れなかった。

 二人の経歴は、『芸能画報』(1959年4月号)に詳しい。

ミヤオ ①宮尾淳②大正6年3月30日③東京④太平洋美術学校卒業後、エノケン一座文芸部を経て独立。戦後楽劇団「紅いバラ」を結成する
キヨコ ①宮尾清子②大正12年10月19日③東京④女学校中退後踊り、長唄、常磐津、小唄等を学ぶ。後楽劇団「紅いバラ」を経て、昭和33年7月ミヤオとコンビ

 また、ミヤオはエノケン一座に入る前に浪曲師をやっていたらしい。『浪曲ファン』(1974年7月号)に、

「馬鹿野郎、節をやるんじゃあねえッ。お前は啖呵をやってりゃ好いんだッ」
  強烈な弥次が飛ぶ。戦前の客は厳しかった殊に漁場の客は荒っぽかった。気にいらなければ大声でわめき叫ぶ。その頃こっちも若いから、浪花節が好きでなったんだ、節をやらなきゃ損だとばかり、弥次を無視してうなり続けた。
「節をやるなってのがわからねえのか」「こんな下手な奴あ聞いた事がねえッ」「不思議な声を出す野郎だッ」「いいかげんに止めろッ」「この野郎こらしめろッ」
 ひときわ怒号が大きくなると、客達は手当り次第に高座めがけて色んな物を投げつける。頭で受けたり頬の真中で受けたり……。
 痛いのを我慢してこっちも負けずに唸り続ける。
「呆きれたな。強情な野郎だ。奴は」 「面倒だ幕を閉めちゃえッ」
 客の怒りは爆発して、ついに幕を引かれてしまった。芸人として敵に下面目な事ではあるが、だからこそ、糞ッと云う気になって稽古に打込んだものだった。
 啖呵は聞いて呉れても、節になると客が騒ぎ出す。何とかして「節がうまくなる様にと私なりの努力はした。旅に出ても、ひまを見ては人気のない山や川辺で、夢中で稽古をしたが一向にうまくなれなかった。
 ある東北の小屋でまだ誰もない客席で唸っていたら、何時の間か大勢の顔が見て居て「下手だねェー」といわれて気まりが悪くて外へ出られない事もあった。
 尾道では一節やったら前に居るお婆さんに「下手だねえ」と笑らわれてメロメロになってしまった。辛い事も多かったが今になって見れば楽しい思出である。浪曲をうなる事が楽しかったから、その国巡業では不思議と女の人に好かれたが、節に夢中で花も咲かず実も結ばなかった。惜しかった。
 また浪曲の高座に上りたいと情熱燃やしている昨今です。(漫才師)

 という寄稿を乗せている。そのためか、舞台に出ると一節唸る事があったという。

 1958年7月コンビ結成。35歳と41歳の中年コンビであった。

 1959年秋、第6回NHK漫才コンクールに出場。『お笑い瞼の母』を披露したが、入賞には至らなかった。審査員だった玉川一郎は『読売新聞夕刊』(1960年2月20日)の『よみうり演芸館』の中で、

ベレーを絶対にぬがないことと、絵が好きでムヤミに描き、横山隆一画伯にあこがれているのがミヤオ君で、小唄の名取りの左君は、相当イケるので左キク子と改名したらの説あり

 と評している。

 主に木馬館や松竹演芸場などを拠点にして活動したが、いまいちパッとする事はなかったという。

 ベレーミヤオがヌーボーとボケてみせ、それをキヨ子がツッコむ。キヨ子が三味線を弾きながら、小唄端唄を披露するというオーソドックスな芸風だったと聞く。

 長らく漫才協団に籍を置き、1978年の漫才大会までコンビで出演しているが、翌年1979年の漫才協団の連名から消えている。

 晩年は病気がちになったと見えて、ベレーミヤオがピンで高座に上がる事もあった。

『東京かわら版』における木馬館の広告を見ても、1976年1月木馬館中席までコンビ、同年3月木馬館中席より「文芸物語:ミヤオ淳」。4月下席よりまたコンビで出演。5月中席より文芸物語、8月下席、コンビ復活と目まぐるしい。

 1981年までに没した芸人をまとめた極楽寺『芸能人物故者芳名簿』の中に、その名前が出ている。

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