木田Q太・P太

木田Q太・P太

木田Q太・P太(左)

 人 物

 木田きだ Q
 ・本 名 上兼 章裕
 ・生没年 1951年~ご健在
 ・出身地 長野県

 木田きだ P
 ・本 名 ??
 ・生没年 1948年~?
 ・出身地 宮城県 仙台市

 来 歴

 木田P太・Q太は戦後活躍した漫才師。木田鶴夫・亀夫門下のホープで、フレッシュな漫才を得意としたというが早く解散した。Q太は作詞や漫談方面で活躍し、今も健在。

 P太は仙台の出身。実家は農業だったらしい。遠藤佳三氏より見せて頂いた『第21回NHK漫才コンクール』のパンフレットでは、「P太 仙台の人…25才 痩せてスンナリ型。ツッコミ」「P太君は実家がお百姓」とある。

 今は亡き春風こうた氏の話では「元々役者志望だったと聞いた」「確か喫茶店かバーのマスターだったんだけど、その身を捨ててまで漫才師になった」という。『第20回漫才コンクール』のパンフにも似たようなことが書いてある。

 Q太は長野県の出身。松本市の工業高校を卒業し、歌手を志して上京。いずみたくの弟子になった。経歴は『zakzak』(2016年2月26日号)の『人生二毛作』に詳しい。

 長野県松本市の高校を卒業後、歌手を目指して上京。レッスンを受けた作曲家のいずみたくさんに「お前は歌手に向いてない」と言われて、断念。結局漫才師の木田鶴夫・亀夫の内弟子になって漫才修業。

 半年後には「P太Q太」の名前でデビューしたが、相棒が病気でコンビを解散してから歌謡コンサートの「営業司会」に転身。「ラブユー東京」が大ヒットしたムード歌謡の黒沢明とロス・プリモスや、『帰ってこいよ』で売り出した松村和子の専属司会者になった。

 しかし、いずみたくから「歌手より芸人の方がいいのでは」と勧められ、木田亀夫に入門。木田亀夫は親戚だったらしいが――

 その後は浅草の劇場や歌謡ショーの司会などで腕を磨いた。

 1972年3月13日、「20回NHK漫才コンクール」に出場。入賞には至らず。  

 1973年2月24日、「21回NHK漫才コンクール」元木すみおの『しゃれ男』で出場。入賞には至らず。

 1974年2月13日、「第22回NHK漫才コンクール」に出演するものの、入賞至らず。この頃、P太が体調を崩したり、一身上の都合を申し出たため、コンビを解消。

『漫才協団会報』(1975年2月1日号)によると――「P太は足痛病の手術のために引退」とのよし。事実かどうか知らんよ。

 1975年の名簿には既に退会扱いとなっている。

 Q太はドンキーカルテット出身の祝井勝とコンビを組んでいたが、半年足らずで解散した(Q太談)。

 その後、ひろみという人物とコンビを組んで、「ぽぱい」を結成。雑誌の『ポパイ』から名前をとったらしいが――

 1980年2月29日に行われた「28回NHK漫才コンクール」に「ぽぱい」として出演。「百獣の王人間」を口演したが、入選は逃した。

 1983年12月21日、国立演芸場の「花形演芸会」に出演。

 そのコンビも1984年頃に解消。

 Q太は漫談家・司会者として舞台に立つようになる。松村和子、嶋あきら、美川憲一、ロスプリモスの司会などを担当。地方公演や歌謡大会で今も活躍しておられる。

 2013年1月、奈良海津子「ひとりヨコハマ」を、長山洋子に「恋・三味線」の歌詞を提供。作詞家としては「Q太」と名乗る。

 2016年、奈良海津子「ひとり安曇野」「指宿へ」の作詞。

 2023年現在も司会者や作詞者の古老として、堅実な活躍を続けている。

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