宝大判・小判

宝大判・小判

大瀬しのぶご遺族提供

大瀬しのぶご遺族提供(左が大判)

 人 物

 たから 大判おおばん
 ・本 名 犬井 國夫
 ・生没年 1917年2月16日~1990年代
 ・出身地 新潟県 新発田市(台湾)

 たから 小判こばん(初代)
 ・本 名 桑原 勇三郎
 ・生没年 ??~没?
 ・出身地 ??

 たから 小判こばん (二代目)
 ・本 名 小笠原 敏夫
 ・生没年 1930年7月24日~2004年9月15日
 ・出身地 青森県 十和田湖町

 たから 小判こばん(三代目)
 ・本 名 岩部 芳宏
 ・生没年 1923年2月24日?~没?
 ・出身地 北海道?

 たから 小判こばん(四代目)
 ・本 名 原田 六郎
 ・生没年 ??~没?
 ・出身地 ??

 来 歴

 宝大判・小判は戦後活躍した漫才師。戦後の高度経済成長の中で旧弊な兵隊漫才を得意とし、アナクロな人気を集めた。小判は四人存在する。初代は俳優、二代目は後の大瀬しのぶ、三代目は元少年漫才、四代目はのど自慢大会入賞者とそれぞれ異色の経歴を持っている。

 宝大判の経歴は、『月刊ペン』(1977年9月号)の藤井宗哲『兵隊漫才・その滅びの美学』に詳しい。

 出身を「新潟県」と記したが、本当は「台湾」の出身のようである。ただ、名簿などには新潟とある。あくまでも本籍地、という事か。

 父親は台湾総督府の役人だったそうで、大判も同地で誕生。上記の記載の中に、

その強情っぱりがきっかけで、この芸界に足を踏み入れたそうな。
「父親がね、台湾総督府の役人でね、私が六歳の時に亡くなって、郷里の新潟へ戻ったんです。ええ、生まれ、大正六年です」
·······で、間もなく、父親の旧友が千葉におり、養子に貰われた。
その家で中学へ入れて貰った。
「中学はね、千葉中学ってね、 現在の千葉一高です。今でこそ年取って身体が利かなくなったが、甲子園にも出たことがあるんですよ」

 と、いう。当時にしては相当の高学歴であり、かつ元祖甲子園芸人である。今でこそ甲子園出た芸人は何人もいるが、戦前からいるというのが面白い。

 中学卒業後、読売新聞社の地方支局の見習いとして働き始めた。しかし、ある事がキッカケで会社を辞めて、芸人になってしまった。曰く、

 その中学を出て、読売新聞の地方支局の見習記者になった。
「もともとね、本を読んだり文章を書いたりするのが好きでね。 もっとも、記者といったって見習でしょう。ボーヤみたいなもので体のいい給仕みたいなもんですよ。あれで七、八年勤めていましたかね。 二十五歳の時に、どうやら一人前の記者になれた時分によしちゃったんです」
というのは、子供を育てなければならなくなって、 という。
「ある日ね、前にいた下宿の娘が社へ訪ねて来てね。私も知ってる男なんですが、その男の子をみごもったという。で、男がそのままトンズラしちゃって、行方知れずで、その娘も家へ帰れないというし、しょうがないので、私の下宿へ連れてって、 身二つになるまで置いた」
「結局、その娘さんの子は?」
「それでね、その娘は子供を生んで、産後の肥立ちも悪く死んで、取りあえず子供を実家の下宿へ連れて行くと、「そんな子は受け取れねえ』って言うし、こっちも途方に暮れてるところへもってきて、新潟の母親が嫁を貰えだし、会社へは行けなくなるしでね……。よーし、こうなりゃ、意地でもこの子を育ててみせるってタンカ切っちゃった」
 未婚の父は、それから、子供と一緒に旅役者の一座に入った。
「そうでもしなければ、親子ともども餓死しますからね」
 生活のために役者になったのである。
 この時二十五歳だった。

 その後、新興キネマの仕出しや、高田稔一座、1941年には「笑の王国」に所属する――など、芸界を転々としている内に出征。中支に配属となり、終戦まで苦労を味わった。

 復員後、ムーランルージュや清水金一一座に入団して、喜劇役者を続けていたが、1947年頃、人を介して、新しい劇団に招聘される。主役に抜擢されるが、ギャラと待遇が不満で辞退。当人に言わせると、

 戦後、復員して間もなく、ムーランに入ったり、シミキン一座にいた頃、ちょうど、人を介して、「空気座」という劇団を作るので来ないかと誘われ、渡された台本が、田村泰治郎の「肉体の門」だった。それも主人公で。「ところがね、幕開けて客を入れるまではギャラなしだと言うんですね。これは考えましたよ。もう子供も大きくなってくるし、その上女房と別れた後で、女房もね、自分が腹を痛めた子じゃないので、どうしても情が移らない。結局私は、私だって自分の子ではないが、何しろ生まれた時からのつきあいだから、で、方々へ預けなきゃならない。それには金もかかる、てんで、『空気座』、よしたんですよ」
 もっとも、今でこそ、「空気座」の「肉体の門」といえば、戦後風俗史の大きなトピックスであるが、
「当時の私にしてみれば、戦後雨後の筍のように出来た劇団の一つぐらいにしか軽く考えてませんよ」 
 その時の主役が、田中稔、現在の田崎潤である。

 1950、1年頃、宮田洋容に誘われて、夫婦でコントを演じるようになる。これが大いに勉強になったらしく、この時の経験が後に行かされた。曰く、

「自分でも気がついたら、完全に芸人の水を飲んでたんですよ。その頃ね、『立体コント』 と銘打って、夫婦でやるんですが、純粋のコメディアン上がりでないから、ネタ数が少なくて、人のを盗みましたね。ある時なんか、困って、先代東八郎さんの『相撲漫才』のいいところ取りをして、降りて来ると、ゲストのご本人が次の出番だという。弱っちゃったが仕方がない。まあ一礼して、そのまま帰ったことがありましたが、温厚な東さんのことで黙って見過ごしてくれましたがね」

 因みにここでいう東八郎とは、コメディアンの東八郎ではなく、東イチロー・ハチローの事であろう。

 1955年頃、同じ軽演劇一座に居た桑原勇三郎を誘って、「宝大判・小判」を結成。これが漫才師人生の振り出しである。

 桑原勇三郎という人物は、謎が多くよくわからない。

 1959年頃、桑原と解散し、春日八郎プロに居た小笠原敏夫を二代目小判として起用し、コンビを組む。この小判は、後に大瀬しのぶと改名。「大瀬しのぶ・こいじ」のコンビで売り出し、晩年は青森の人気タレントとして人気を獲得した。

 ご遺族に聞いた話では、2年ほどやっていたそうであるが「給金の配分を巡って別れた」という。

 この頃、柳家金語楼に気に入られ、独演会の色物として呼ばれるようになったそうで、

「あれはいつだったかなぁ、三十年代に入ってたと思う。高崎市民会館へ仕事に行った時、ちょうど、柳家金語楼先生も出演しており、私ら二人、軍服のまま、先生の部屋を訪ね、敬礼してね、『先生のアイデアを使わせていただいております』ってあいさつに行ったんですよ。それが気に入られたんでしょうかね、先生の公演はもちろん、事ある度に、『兵隊漫才を使ってやってくれ』ってね。 後で人づてに聞くと、若い頃相当苦労なさったらしいですね」

 と語っている。

 また、トリオブームに便乗してか、入江将太(1915年7月12日~?)を入れて、トリオで兵隊コントをやっていた事もある。

 トリオを解散した後は、岩部芳宏の宝小判とコンビに戻った。年齢と出身は『文化人名録』より割り出したが、謎が多いので「?」としておく。

 この岩部は元々少年漫才の出身で、「都のぼる・河合小僧」の都のぼるという芸名で舞台に立っていた。1942年の帝都漫才協会の名簿に登録されており、芸歴は古い。

 しかし、1971年頃に岩部とコンビを解散。また桑原勇三郎とよりを戻した――と思いきやすぐにコンビを解消。相方を転々とし、最後は原田六郎の小判に落ち着いた。大判自身、余り相方に執着がなかった模様である。

 原田六郎という人物は、元々歌手だったらしく、藤井宗哲『兵隊漫才・その滅びの美学』の中で、「小判、戦後始まったNHKののど自慢コンクールの第一回の第二位入選者で……」とある。

 1985年の『日本演芸家名鑑』を読むと、日本演芸協会に所属。健在が確認できるが、その中には「宝小判」の名前はなく、ピン芸人として活躍していた模様。あるいは臨時コンビでやっていた模様か。

 晩年は「兵隊コント」と名乗っていた。

『日本演芸家連合会員名簿』などを見ると、1990年代中盤(1993年頃)まで健在を確認できるが、詳細は不明。老齢のために引退をしたか、没した模様である。

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