大津小万・大津小百合

大津小万・大津小百合

右・小萬 左・小百合

 人 物

 大津おおつ 小萬こまん
 ・本 名 藤本 とき乃
 ・生没年 ??~1968年以降
 ・出身地 ??

  大津おおつ 小百合さゆり
 ・本 名 ??  
 ・生没年 ??~戦後
 ・出身地 ??

 来 歴

 大津お萬の弟子であることはハッキリとしている事なのだが、それ以外が何もわからない、どうしようもないコンビである。そもそも師匠の大津お萬に謎が多いので、仕方がない。もはや写真置き場である。

 判っている事のみ羅列すると、二人とも大津お萬の弟子。大津万之助・万由美、杉まり、音曲師の檜山さくらは姉妹弟子にあたる。その中で小萬は古株の弟子で、一時期、師匠と「お萬・小萬」を名乗っていた程。

 コンビ結成は戦後か。資料がないのでわからないとしか言いようがない。但し、1950年時点ではコンビを組んでいない。小萬は、師匠と共にアメリカ巡業に出ている。以下は、『Shikago Shinpō』(1950年10月19日号)の引用。

 シカゴ興行會社有志の主催で行はれる大津お万一行の漫才と映画の夕は廿日(金)と廿一日(土)の両日南北二ヶ所で開演されるが、その切符は北部は戸栗商事社、南部はオーケーグローサリー、藤本商會及びレーキバークラジオ店で賣り出されてゐる。
 氏は大津お万、小万及び檜山サクラの一名よりなり、浪曲、端唄、三味線曲弾き流行歌、漫才と何んでも御座れのお笑いと楽しみのコンビネーションである。久し振りに心の洗濯をしてくれると

 1955年設立の漫才研究会には発足当時から関与し、初期メンバーとして名を連ねた。2月14日の審議で加入決定。

新規加入(追記分) 

森信子・秀子 轟ススム・旗上ヒロシ 白浜浩一・美島詩子 大津小万・小百合 高原妙子・松原桂右 富岡豊・花村いせ路 英主水・川端米子 マキノ洋一・初江 美奈登小雪・つや子 大和家八千代・酒井義二郎 玉松ワカミ・ミス幸枝 中山アラブ・内海サラブ 荒川芳勝・八千代 山みどり・川ちどり

 とある。その直後の2月27日に開催された大会にも出場。彩を咥えたのは言うまでもない。

司会・並木一路 会長・玉川一郎

飛朗・龍尾 竜二・つた子 鶴夫・亀夫 ワカミ・幸枝 〆子、和子 円童・つばめ 静代・美代子 悦朗・艶子 義二郎・八千代 いせ路・豊 龍夫・龍子 照代・淳子 ぴん助・美代鶴 満哉・七穂 章吾・雪枝 英二・喜美江 桂子・好江 ネオン・サイン サンプク・メチャ子 小万・小百合 天才・秀才 小雪・つや子 千代若・千代菊 ススム・ヒロシ 信子・秀子 オサム・ミツル ヒット・ますみ しげる・早見みゆきみどり・ちどり 桂右・妙子 栄龍・万龍 喜代駒 アキラ・アサ子 笙子・美智子 前田勝之助 千太・万吉 内海突破 (会員三唱)晃一・眞理子 イチロー・ハチロー 染団子・染千代 てんや・わんや ワカバ・かほる 光児・光菊 喜世美・司郎 三五郎・芳江 道郎・昭二 洋容・幸江 染團治・美貴子

(出演者五十一組の内、漫才師四十五組、特出六組)

 その後、解散した模様だが、いつ頃なのかはわからない。小萬は師匠、お萬の所へと戻っていった。

 1968年、「大須演芸場」6月中席及び、同年「浅草演芸ホール」10月上席の香盤に、「歌謡漫談 大津お万・小万」という記載があるのが確認できる。その頃まで名前が確認できるのだが――

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