瀧川鯉かん(音曲・掛合噺)

瀧川鯉かん(音曲・掛合噺)

 人 物

 瀧川たきがわかん
 ・本 名 矢島 金太郎
 ・生没年 1873年11月13日~1927年7月15日?
 ・出身地 東京 八丁堀

 来 歴

 瀧川鯉かんは戦前活躍した音曲師・掛合噺の名人。美声の音曲と入船米蔵との息の合った掛合噺が売り物で長らく柳派の看板として活躍。ラジオ黎明期のスターとしても活躍を続けた。

 経歴は『日刊ラヂオ新聞』(1929年7月18日号)に詳しい。

 瀧川鯉かんは八丁堀の錺(かざり)屋の息子で、小さい時から落語を好み、橘家圓喬の弟子となり一晩四銭位の給金で席走りをやつた程であつたが天性の美音と熱心さが遂に音曲界に名を馳せしめるやうになり、圓喬の許を去つて先々代の音曲の名人春風亭柳枝の門に入り、梅枝と名乗つて賣出した。

 4代目柳枝に入門して「春風亭梅枝」と名付けられる。ただ、先代梅枝が三升家勝次郎を襲名したのは、1896年3月なのでそれ以降の事だろう。

 明治末、事情あって2代目談洲楼燕枝門下に移籍している(ただ一部資料には燕枝から柳枝門下とあり錯綜している)。

1908年9月、師匠の燕枝と大阪へ上り、初お目見得。『上方落語史料集成』掲載の『大阪朝日新聞』(8月30日号)に――

◇浪花三友派各席へは九月一日より東京より柳亭燕枝、同梅枝、曲独楽松井源水出勤す。

1909年8月、再び京都・大阪へ出勤。京都へは初お目見得だったらしく、7月31日付の『京都日出新聞』に――

 ◇新京極笑福亭へは明一日より、初御目見得の柳亭燕枝と、五歳の音曲家柳亭小つばめと、三味線弾の三州家小峯と、柳亭錦枝同梅枝が、東京より下り来り。燕枝は大道具入り四谷怪談を演ずる筈なるが、之れと同時に大阪より久々にて桂文吾が帰京して出演する由。尚此の一座は大宮末広座と昼夜掛け持ちなりと云ふ。

 とある。

 1912年2月、三升家勝次郎らと共に大阪へ来演。錦枝と共に「東京茶番」と称して高座に立った。

 1912年5月、「三代目瀧川鯉かん」を襲名し、真打となった。襲名祝いとして燕枝から「尾もひれもふとれ五月の登鯉」という一句を戴いた――と『日刊ラヂオ新聞』(1927年6月13日)にある。

 以来、柳派の売れっ子として出勤。音曲噺を基盤に、落語、踊り、入船米蔵との滑稽茶番と様々な芸をこなす芸達者として売れた。

 1914年3月26日より明治座で行われた落語家劇に出勤。「曽我対面」の仁田四郎、「高時」城の入道、「腕の喜三郎」の大島逸平の役を貰っている。

 1917年7月、師匠の燕枝に同行して大阪へ出勤。紅梅亭などに出演する。

 1918年1月、大阪へ上り、紅梅亭や瓢亭、芦辺館などへ3月ほど出演。

 同年秋組織された「東京演芸会社」に所属し、優遇された。この後、睦会との分裂騒動があるのだが、鯉かんは当初関与しなかった。

 1923年9月1日、関東大震災に被災し、家を失うが、命拾いをした。この時、墓を家の代りにして雨露をしのいだという笑い話がある。

 震災後は一時落語協会に所属。

 1924年6月頃、柳亭左楽率いる落語睦会へと移籍した。

 寄席に出る傍ら、勃興したラジオ放送に積極的に関与し、初期ラジオ放送の人気者として君臨する事となった。明瞭な音曲と滑稽な掛合噺は人気の的であったという。

 1925年7月8日、JOAKに出演し、「音曲ばなし」を放送。共演は声色の柳亭春楽。

 8月23日、JOAKに出演し、「音曲いろいろ」を放送。

 10月3日、JOAKに出演し、「音曲噺 浮世風呂」を放送。

 11月12日、JOAKに出演し、「音曲噺 酒の出来事」を放送。

 12月31日、JOAKの「年忘れ演芸会」に出演し、米蔵と共に掛合噺を披露。

 1926年1月15日、JOAKに出演し、「稲荷車」を放送。

 5月23日、JOAKに出演し、米蔵と共に「掛合話 晩春の賑ひ」を放送。

 昭和に入っても第一線で活躍していたが、この頃から愛飲していた酒がたたってか胃を痛めるようになり、かつてのような掛け持ちをするようなことは少なくなった。

 1927年6月13日、入船米蔵とJOAKに出演し「江戸趣味滑稽音曲 長短のカッポレ」を放送している。

 1928年8月31日、JOAKの「音曲の夕」に出演。「音曲」を披露している。

 1929年6月上席、宇多川町三光亭に出勤したのが最後の高座になった模様か。

 その後、胃がんのために養生を続けていたが薬石効なく息を引き取った。

 この訃報記事は『日刊ラヂオ新聞』(1929年7月18日号)に掲載されたものである。

 お馴染の音曲の名人瀧川鯉かん逝く美音で藝熱心の人氣者十五日朝宿痾の胃癌で

 落語会の人気者で音曲の名人と謳はれた、瀧川鯉かん事矢島金太郎(五八)は十五日午前七時年来の宿痾胃癌の爲めに逝去した
 瀧川鯉かんは八丁堀の錺(かざり)屋の息子で、小さい時から落語を好み、橘家圓喬の弟子となり一晩四銭位の給金で席走りをやつた程であつたが天性の美音と熱心さが遂に音曲界に名を馳せしめるやうになり、圓喬の許を去つて先々代の音曲の名人春風亭柳枝の門に入り、梅枝と名乗つて賣出した。
 今の入船亭米蔵が錦枝と言つた頃二人掛合で高座に出て非常な人氣を呼んだことがある。その後真打ちとなり江戸の名人音曲師としてその藝と名とお江戸氣質がピタリと合つたところをいつもよく表して、非常な人氣を博してゐたのである。ラヂオでも開始以来数十回の放送で既にお馴染の人である

 この訃報に接した AK演藝部主任 石井勝氏は語る
『先年長患ひをしてから、胃が悪くて困ると始終言つてゐたが、逝去の報を得て驚いてゐる、天性至つて呑氣な面白い方だつたが、又實直なところがあつて先月晦日の寄席の夕にも病床にゐながら『どんな事があつても出る』と言ひ張つて介抱人を困らした程でした、兎に角まだ死ぬ年でもないのに、あたら名人を失つて哀惜の情に堪えません』

 石碑の柱や 娑婆の屋根 珍な鯉かんの家 震災當時の逸話
 浅草榮久町に住んでゐた音曲の名人瀧川鯉かんさん、今でも耳に残つてゐる有名な逸話がある。
 それは大正九年(※原文ママ)の東京大震災の時、根が呑氣で一風變つた人で、落付き拂ひ澄ましてゐたが、焼けて来たのでよんどころなく家財道具を残らず裏の墓地の真ん中へ持ち出して置いて、悠々と邊りを見物しながら避難した。
 鎮火してから歸つてみると綺麗に家は焼き拂はれて一面の野原、墓地へ来てみると家財道具はそのままであるので『ヤレ/\、家は大家さんのもの、世帯道具は私のものだ』とばかり早速邊りの焼木杭や石碑を柱にして墓の塔婆を掻き集め家を作つて雨露を凌いでゐた
 墓は随分淋しいところと思つてゐたが、住めば都で仲々賑やかでようがすよハゝゝゝゝゝと例の快笑一聲
 斯うした名人音曲師も、佛の出入で墓場の賑はふお盆の十五日惜まれながら大往生を遂げた

 なお、一部文献では10月没、とあるのだがどこから取ったのだろうか。1929年の事をまとめた『昭和年史 昭和4年史』にも――

 音曲界の名手瀧川鯉かんは、胃癌のため、七月十六日浅草栄久町三の自宅にて死去した行年五十六。

 とある。

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