春日三球・照代

春日三球・照代

春日三球・照代(右)

放送演芸大賞受賞の一枚。三遊亭円生を囲んで(遠藤佳三氏提供

真打昇進時の口上(遠藤佳三氏提供)
右よりリーガル天才、リーガル千太、照代、三球、コロムビアトップ

栗友亭三人男(青空うれし氏提供)
三球・ケーシー高峰・うれし

 人 物

 春日かすが 三球さんきゅう
 ・本 名 近馬 一正
 ・生没年 1933年10月22日~2023年5月17日
 ・出身地 東京 日暮里

 春日かすが 照代てるよ 
 ・本 名 松尾 せつ子(後年、近馬)

 ・生没年 1935年12月8日~1987年4月1日
 ・出身地 大阪府 大阪

 来 歴

 春日三球・照代は戦後活躍した夫婦漫才。ほのぼのとした話術の中に鋭い社会風刺や観察を含んだネタを得意とした。中でも「地下鉄はどこから入るの?」という疑問をナンセンス風に処理した「地下鉄漫才」はすさまじい人気を博し、漫才ブームにも便乗して東京漫才の大スターとして君臨した。

 2023年6月18日、春日三球の訃報が掲載された。ついに来るべき日が来たと思った。享年89――だから年の上では不足はないが、往年の大スターの死だけあって、虚しいものはある。

 当方は彼と面識のあった青空うれし新山ノリロー両氏と仲良くしている(ノリロー氏は亡くなったが)が、「三球はもう会えないよ」と常々言われていた事もあって、ついに会いそびれてしまった。病気やリハビリもあったので、会えないのは仕方ないのかもしれないが、やはり一度はあっておきたかった気がする。

 訃報と共に往年の三球・照代の資料が多々出回っているが、間違いもあるのでここらで記載をしておくことにした。

 春日三球は元々「クリトモ一休・三休」の三休春日照代は姉妹漫才「春日淳子・照代」の照代――とは以前にも別項を記した。

 それぞれの経歴はそれぞれのページを参照にしてください。

 年齢的には三球の方が上であるが、芸歴は照代の方が上――というアベコベの夫婦であった。照代が一枚看板であった時、三球はまだ前座で年下の彼女たちにお茶を出していた――というのだから、看板には格があった。

 それでも一休・三休のコンビはメキメキと頭角を現し、ついに1962年度の漫才コンクールを優勝。東京漫才の大スターとしての地位を確約されたが、相方の一休は1962年5月3日、三河島事故に遭遇し、死んでしまう。

 相方を失った三球は、畦元直彦とのコンビを組み直し、「第一球・三球」として出直すが、往年のような活躍を取り戻すことができなかった。

 一方の照代は戦後直後からデビューというから古株も古株である。父母は古老の太刀村一雄・筆勇、叔父は春日ちえみ・章というサラブレッド。長らく姉と行動して人気を集めていたが、姉の淳子が結婚、引退したのを機に一人になってしまい、相方を転々としていた。

 三球と結婚する前は、当時、妹と別れた大江笙子とコンビを組み、「笙子・照代」として落語協会へ参入。しばらくの間、落語協会の寄席で働いていた。

 後年、二人が落語協会へ入会できたのは、この時の所属経験が大きかったりする(もっとも、リーガル千太・万吉が落語協会の人気者だった点もあるが)。

 相方を失い、思うような漫才もできない中で、二人は麻雀に力を入れるようになった。元々二人は麻雀が好きで、楽屋や旅先でも雀卓を囲うような事が度々あった。

 当時、都内に住んでいた二人の家は仲間たちの雀荘のような扱いを受けていたようで、仕事が終わったら自宅へ戻って雀卓を囲む――というような事をやっていた。その中で仲良くなったのがこの二人というわけである。

 1963年4月21日、結婚。当人たちの話では「麻雀をやりまくっていたらなし崩しに結婚した」という。一種のネタみたいであるが、これは事実らしい。その辺りの事情を『婦人公論』(1982年7月特大号)の中で語っていたので引用。

照代 だから、大恋愛とかいうんじゃないんですよ。将来の約束とか、そういうのも、なーんにも無かった。ほんとに何もない。徹夜で麻雀やって、「じゃあ、明日の朝、私がご飯炊いてあげるわよ」って。それが、マ、きっかけですよね。
三球 どうしても結婚しなきゃあとか、一緒になれなきゃ死んじゃうとかネ、そういうアレじゃないんですよ。不思議なアレですよ。で、周りのほうが心配して、私の兄貴がこの人のほうに話をして、コッチの家から荷物を持って来たんですね。珍しいですヨ、本人が届いた後から荷物が届いちゃった。――でもネ、そういうほうが長続きするのかもしれないですね。ここから何かが始まり、そっから付き合いが始まり、過程が反対だから。――コンビ組んだのは、一緒に暮し始めて、しばらく経ってからですね。あのォ、私の相棒の一休さんが三河島事故で死んじゃいまして。で、このひとはお姉さんがお嫁に行っちゃって。その頃はネ、この人が家に居て、私は歌の司会やってたりしてたからネ、コンビ組むつもりはなかったんですけど、この人がお腹大きくなって、で、流産しちゃったんですよ。それで、家に一人で居ても寂しいし、退屈だからって。
照代 周りがネ、「二人でやんなさいヨ」って。私も根っから好きだったんでしょうね。

『婦人生活』(1978年12月号)の「共働きの場合」では「結婚したのは、昭和三十八年四月二十三日」と語っている。

 漫才界随一の美人として評判の高かった春日照代とヌーボーの春日三球の結婚は「美女と野獣」と仲間から揶揄されるほどであった。

 一方、夫婦仲は良好で漫才界随一のおしどり夫婦として知られた。二人で一緒の弁当をもって、時折ピクニックに出かける――というのが楽しみであったというのだから、その仲の良さがうかがえる。二人とも人間的にまじめで、夫婦を尊敬しあっていたことから、浮名や浮気の噂も出る事はなかった。

 結婚後、三球は司会漫談や俳優で活動し、照代は主婦となった。まもなく第一子をみごもるが流産。結局二人の間に子供はできなかった。

 元々芸人育ちの照代は、主婦稼業に馴れず退屈を持て余すようになった事、三球一人の力では人気の限界もあった所から、復帰を考えるようになる。

 間もなく周囲から「夫婦漫才をやったら」と勧められたのを機にコンビを結成。

 このコンビ結成を聞いたリーガル千太・万吉は激昂し、「リーガル一門に女性は入れないと決めていたのに約束を破る気か!破門にする!」と、あわや名前を取り上げられかけた。しかし、持ち前の愛嬌と弁説で師匠をうまく説得し、最終的には黙認という形となった。

 1965年2月11日、浅草松竹演芸場の二月中席で正式デビューを果たした。当初は「クリトモ三球・春日照代」名義で活動していた。

 当時は照代がギター、三球がウクレレを持った音曲漫才で、「電車は続くよどこまでも」がテーマソングであった。

 照代が子供の頃から培ってきたギターをかき鳴らして、しゃべくりの合間に歌を歌っていた。ただ、三球はウクレレをほとんど弾けず、形ばかりであった――というのだからこれもいい加減である。

 デビュー当時はあまり受けず、照代がリードしまくる――というスタンスを取った。当時の漫才はヒジョーに地味で、照代の達者が数少ない売りであった。

 1967年11月、鈴本演芸場上席に初参加。以来、落語協会と縁を持つようになる。後年、正式に落語協会へ入会する。

 1968年1月中席、新宿末廣亭に出演した際、「春日三球・照代」と書かれた。橘右近にクレームを言いに行くと、「何を言うか、こっちの方がおさまりがよくていいだろう!」と諭され、半ばなし崩し的に改名する運びとなった。

 長い間、寄席の色物としてビミョーな位置をキープしていたが、如才ない性格と礼儀正しい夫婦仲から、三遊亭円生や立川談志に気に入られ、彼らの独演会や落語会に駆り出されるようになった。

 ここに来る厳しいお客にしごかれる形で徐々に漫才の腕もあげていき、色物の株もあげて行った。

 色物には基本的に厳しい態度を取り続けた圓生もこの二人には甘く、マクラで「今出て来たお二人は夫婦で……照代さんはこの世界でも非情な美人として知られており、羨ましい限りですなあ」と、照れ笑いをする程であった。

 さらに、円生は「あの二人をトリ前に出しなさい」と関係者に公言するほど溺愛しており、結果としてこれが後々の大きな糧となった。

 1970年代に入ると、楽器漫才のなりを潜めるようになり、最初にテーマ曲を歌って、後はしゃべくり――というスタイルを繰り出すようになった。このマクラとして演じられていたのが、いわゆる「地下鉄漫才」であり、「自動販売機」などであった。このネタを膨らます形で後年の当たりネタが構築されていったのは言うまでもない。

 寄席では「地下鉄!」「自販機!」という十八番がリクエストで飛び交うようになり、これを演じる事も多くなった。こうした繰り返しがネタの練り上げとなり、大きな下地となった。

「地下鉄はどこから入るのか?」というナンセンスな十八番を筆頭に――

「山手線は次から次へと来るのだから、頭からしっぽまで全部繋げたらどうですか」
「自動券売機、お金を払わずに自動でキップが出てきたらいい」
「自動券売機をパチンコみたいにして100円入れたら大阪までのキップも外れも出るようにしたら面白いのではないでしょうか」
「渋滞混雑の一番最初の車を見る方法が知りたい」
「農業高校で品種改良の勉強をした。種無しの枝豆を発明した」
「三角のスイカを作るために種子を三角関係にした」

「推理番組を見る前に新聞を見て、まず悪役をやりそうな俳優から犯人を推測する」

――などといった日常のナンセンスや疑問をうまく漫才に消化した。丁寧な口調から繰り出される強烈なナンセンス、そして照代の勘の優れたツッコミは爆笑に爆笑を呼んだ。

 1973年に松戸へ一軒家を立て、ここで長く暮らした。春日三球の母も引き取り、親子で仲良く暮らしていたという。

 この頃、しゃべくり漫才一本に転身し、堅実な人気を集めるようになった。当時の演芸ブーム、さらに漫才ブーム前夜のメディアに便乗する事に成功している。

 1974年、フジサンケイグループ放送演芸大賞・ホープ賞を受賞。

 1975年、フジサンケイグループ放送演芸大賞・漫才部門賞を受賞。

 1977年10月13日、朝日生命ホールにて「春日三球・照代幹部昇進真打披露」を実施。 コロムビア・トップリーガル天才・秀才以下幹部が集結した他、当時引退していたリーガル千太も特別出演し、口上に出席した。

 パンフレットには、秋田實、三遊亭圓生、玉川一郎、中村メイコ、馬場雅夫、鈴木肇が祝辞を寄せた。

 1978年5月、三遊亭円生が落語協会の運営や体制に不満をもって飛び出した「落語協会分裂騒動」の際、円生から誘われて三遊協会にも参加している。一説によると円生は真っ先にこのコンビにスカウトをかけたという。

 一方、落語協会は二人の残留を認めており、二つの協会で仕事を持った。そのため、三遊亭円生亡き後も特に罰則を蒙ることなく、復帰している。

 1978年には「小西六写真工業株式会社」のサクラカラーのCMに出演。何気ない夫婦の恰好をした二人が三球・照代の出るテレビを見ながら「どうしてテレビは映るのでしょうねえ?」とボケるネタでよくウケたという。

 1978年7月、新宿線開通に伴い「地下鉄搬入作業」の見学をしている。これもネタになった。

 さらにキャニオンから「地下鉄音頭」なる曲までリリースしている。赤塚不二夫原案で当初は乗物全般の唄にしたかったが、原案をレコード会社が難色を示し、高平哲郎が改作。地下鉄一本の唄に切り替え、ヒットを飛ばした。

 さらにこの年、「第六回放送演芸大賞」を受賞している。

 1979年よりはじまった『花王名人劇場』で、準レギュラーというようなポジションを得、国民的な人気を得た。

 その人気、実力は東京漫才きってのものとして知られ、爆笑王の名声をほしいままにした。「地下鉄はどこから入るのか?」というネタで爆笑をかっさらい、当時の子供雑誌や投書欄に「地下鉄はどうやって入れるのか?」と、ネタをそのまま模した質問が届くほどのブームぶりを見せた。

 1980年、マグネキングのCMに出演。お茶の間の人気者となった。

 1980年2月24日放送の『三球・照代のおかしなおかしな漫才同窓会』で、営団地下鉄総裁の山田明吉と対面している。

 こうした稼ぎも相まって、夫婦は東池袋に立派な邸宅を購入し、仲よく住む事となった。

 ヌーボーとした三球のボケとネタ、照代の安定したツッコミは東京漫才の手本として高く評価され、立川談志は「三球・照代はトリを取れる」「三球・照代がいなければ東京スタイルの漫才は廃絶していたかもしれない」と激賞する程であった。先述の円生以外にも円楽や志ん朝なども「安定して任せられる」と褒めている。

 文化人や音楽家からも評価が高く、大西信行、矢野誠一、小沢昭一、山本益博などといった面々も高い評価を与えているほか、演芸ファンで知られたフランク永井も彼らの大ファンであった。

『日本地下鉄協会報』(1985年3月号)に、フランク永井が『地下鉄漫才考』という激賞を掲載した程であった。少し長いが引用してみよう。

「地下鉄の電車は何処から入れるのか、それを考えると眠れなくなっちゃう…………」というフレーズで大いに売ったのが、ご存じ春日三球・照代のコンビです。
 このコンビは、今でこそ手ブラで舞台にあがりますが、以前は三球氏がウクレレを、照代さんがギターを持っての漫才で、面白いとかうまい芸とかいう印象は薄いものでした。
 お客は一向に笑わないし、なによりご当人達が受けないネタを演っていることを知っている様子で、なおのことシラジラとした高座になる。実はこの時期、私の住まいの近くに寄席があり、サンダル履きで気軽に行けることもあって、 よく出かけたものでしたから、このコンビの芸に接することが多かったのです。
 その目黒名人会寄席なるものが、経営不振で閉鎖されてしまい。同時に私の寄席通いもプッツリ。なにしろ当時の寄席といえば、もう東宝名人会 (これも今はない) と、新宿の末広、上野の鈴本ぐらいのもので、そうなると、よそいきの感じで、やれ服を着替えのネクタイはこれだのと大騒ぎになり、つい出無精になるんです。
 寄席の説明が長くなりましたが、そんなわけで、二年ほどの間があって或る日、テレビに出ている ご両人を見ておどろきました。 ギターもウクレレも持っていないのです。そんなことよりのっけから 抱腹絶倒のおもしろさなのです。 そのネタこそ前述の「地下鉄」だったのでありました。
 お笑い演芸大好き人間を自任する私にも、私なりの好みがありまして、漫才はシャベリだけで十分面白いものでなければならぬ。これが私のひそかなる漫才の定義であって、異論を吹っかけられても議論をする気はありません。なんといっても内なる好みの問題なのですから。
 いわゆるドツキ漫才とか、 ギターやアコーディオンを持った歌謡漫才(こんな呼び方があるのか?)のたぐいは肌に合わないんですね。
 大好きなシャベクリ漫才に変貌をとげた三球・照代コンビに感動した私は、テレビのこちら側から盛大な拍手をおくったことは云うまでもありません。
 演芸界には”化ける”という言葉があって、それまでの芸風がガラリと変って客にバカ受けする。 また芸の突然変異とでもいうような意味だそうですが、 まさに三球・照代のコンビは”化けた”と思えるのです。
 このコンビは「地下鉄」のほかに、新幹線をもっと速く走らせる法とか、 飛行機の騒音公害をなくすため電気で飛ばす法とか、最近は自動販売機のギャグなど、乗り物か機械などのネタが多いようですが、誰も手がけていないネタだけに、独特のスタイルを確立したといえるでしょう。
 それにしても、彼等をしてウクレレやギターを捨てさせた(としか思えぬ)一連のネタは、彼等の発想なのか、それとも台本作家がうしろにいるのだろうか、と考えはじめたら夜も眠れなくなっちゃいそうです。
 ご当人に訊ねたわけではないので、これは憶測にすぎないのだけれど、私には三球氏自身の作ではないかと思えるのです。別に台本作家がいるとしても構いません。彼はまるで自分のアイディアであるように演じてしまうのですから。あの不思議な説得力こそ芸なのでしょう。
 三球氏が台本を書いて演ずれば、これ自作自演。歌謡界にたとえればシンガー・ソングライターということになりますが、これは大変なことなのです。
 普通の例ですが、 レコード制作の段取りは、企画をたてテーマを決める。 作詞・作曲家の作品がまとまったところで曲がアレンジされ、 歌手が録音にかかる。これはもう実に大勢の人間の手を経てここに至るのです。
 ひとくちで云えばシンガー・ソングライターは、以上の手順を一人でやってのけるわけです。もっと乱暴な云い方をすると、 チョットやれる人ならここまでは出来ちゃうんです。
 最大の難関は、それがヒットするか、聴く側に売れるか、というところなんです。
 地下鉄、コンビの下積み時代を知っている私が、ちと野次馬根性に過ぎるけれど、そのへんのいきさつを詮索したがるのも無理ないと思いませんか。

 ちなみに談志によると、三球・照代をよく導いてくれたのは、「ロープくん」こと長縄満男の存在が大きいという。長縄満男は談志の元マネージャーなので、談志の自慢半分とはいえ、事実であろう。

 1987年3月も各テレビ局の仕事の他、浅草演芸ホールの仕事を請け負い、寄席に出勤をしていた。

 同年3月24日、新宿コメディシアターで人気番組『新伍のお待ちどうさま!』のゲストとして撮影に参加していた。

 その収録中の11時17分、に出演中、照代は突如昏倒し、イスから転げ落ちた。倒れる寸前には不気味なほどの汗が出ていたという。スタジオは騒然となり、すぐさま救急車に乗せられた。

 照代の病気はくも膜下出血であった。東京女子医大に運ばれて、緊急手術が行われた。この事件の一部始終は週刊誌に取り上げられ、倒れたばかりの照代が大見出しで映し出されるほどであった。

 手術後、集中治療室に移され、懸命な治療が行われてきたが、意識は回復しなかった。

 同年4月1日、くも膜下出血の為に静かに息を引き取った。妻の急逝に三球は泣き崩れたそうで、その憔悴ぶりは余りにもすさまじいものであったという。

 人気絶頂での死もあって、雑誌やテレビでは「春日照代さんの命を奪ったくも膜下出血」とはという医療コーナーまでできるほどであったという。

 照代の葬儀の席には数多くの著名人や芸人が列席した。そこに列席した澤田隆治氏が生前話していた噺――

「照代さんの葬儀に出た際に、遺族席におばあさんがいるんですわ。弔問客の中に、また品のいいおばさんがやってきて、そのおばあさんや家族の手を取って二人でさめざめ泣いている。近くにいた人に聞いたら、あのお婆さんは照代さんの実のお母さん、漫才やっていたっていうお母さんで(太刀村筆勇)、その傍にいたのが姉の春日淳子さん。そして、弔問に来たおばさんってのは、美奈登小雪――三波春夫の嫁さんだった北詰ゆきさんだったんです。あの場面は今でも覚えてます」

 しばらく喪に伏せていた三球であったが、「奥さんの分まで頑張ってほしい」と関係者やファンの声を受けて、

 1987年9月、子役出身の芳賀みちるとコンビを結成。みちるは三球よりも20歳近く年下で、その年の差コンビも評判となった。当人の経歴によると、NHK放送児童劇団、劇団こまどり、清川虹子の内弟子、声優を経て漫才師になった――という変わり種。

 同年9月、鈴本演芸場下席で「春日三球・芳賀みちる」として再スタート。このコンビ再結成にちなんで、友人の金馬、円菊、権太楼の幹部が「三球復帰記念口上」なる一幕を設けてくれたほどであった。

 明るいみちると鷹揚な三球の取り合わせがウケる――と思いきや、思うような人気は得られなかった。やはり往年の照代との比較も苦しかったようである。

 1988年3月、上野鈴本下席に出たのを最後にコンビを解消。わずか半年のコンビであった。

 ちなみにみちるは「アトピーみちるbar」「みちる亭」と名を変えて今も古典落語や舞踊の発表会を定期的に開催しているほか、アトピー治療の講演会などでも活動している。

 みちると別れた後は司会漫談や講演などを活躍。一方で寄席の高座には余り出なくなってしまった。

 1989年4月、「漫才をやらない以上、協会の籍は後進に明け渡したい」と表明。4月5日付で落語協会を退会している。5月上席のカケブレに「春日三球氏が四月五日付けをもちまして協会を退会いたしました。長い間ありがとうございました。」とコメントが寄せられている。

 同年5月、巣鴨にヘルスウェア専門店「春日三球の店・ひだまり」を設立。設立金は5000万円、従業員も雇った。その内の一人は亡き妻の親友であった大和わかばであった――と、うれし氏から伺った事がある。これは遺族も「春日三球さんの店にいました」と言っていたので間違いはないだろう。

 その傍らで、講演会や司会としても活躍したほか、古い友人である青空うれしとコンビを組んでテレビやラジオに出ていた事もある。

 うれし氏に聞いた話では「正式なコンビではないけど、三球とは古い仲だしね、面白半分でやっている内にコンビでやるようになった」との事。

 1995年には、三球の晩年の面倒を見ていた和子夫人と再婚。この前後で一休・三休、三球・照代時代の資料の整理を始めたそうで、その多くを国立演芸場へと送った。

 その後はうれしとのコンビ、それに講演会に勤しんだ。2011年前後までカクシャクと舞台に上がり、「お笑いと健康」などをテーマに論じ続けた。

 しかし、この頃一度倒れたそうで表舞台に出なくなってしまった。言語障害や致命的な病気ではなかったが、老齢も相まって活動が停滞した。

 2016年12月17日、BS朝日で放映されたナイツ司会の「お笑い演芸館」に出たのが最後の表舞台への出演だろうか。

 その後間もなく再び脳梗塞に倒れたそうで入院。リハビリ生活を送るようになった。うれし氏によると「2、3回倒れて、それで最終的に表に出て来なくなった」という事は伺った。

 最晩年の様子は『日刊スポーツ』(2023年6月18日)に出ていた。

 三球さんは6年前に脳梗塞を患い、その後は療養にあたっていた。脳梗塞の後遺症治療のために、血液をサラサラにする薬を飲んでいたことから、昨年8月に胃潰瘍の傷からの出血が止まらなくなり吐血、下血して入院。退院後は都内の自宅で、介護を受けながら週に3回入浴するなど平穏な生活を送っていたという。

 2023年5月17日、胃潰瘍の傷が悪化し、緊急搬送された。しかし、意識は戻らずそのまま急逝したという。同じく『日刊スポーツ』の和子夫人のコメントによると――

「前立腺肥大や胃潰瘍などの病気はありましたが、穏やかに日々を送っていました。自分のお酒の量もわきまえている人で、介護の方が入浴させてくれた後はビールの中缶を1本だけ、おいしそうに飲んでいました。先月17日に胃潰瘍の傷からの出血で吐血して自宅で倒れ、救急車を呼んで入院しましたが亡くなってしまいました。急なことでビックリしましたが、最後は幸せな日々だったと思います」

 との事である。

 葬儀は密葬で行われ、死後ひと月経った6月18日に公開された。ご冥福をお祈り申し上げる次第である。

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