松平操・春風枝左松

松平操・春風枝左松

 

 

 

 

 人 物

松平まつだいら みさお

 ・本 名 前田 秀雄
 ・生没年 ?~昭和56年/1981年以前?
 ・出身地 

春風はるかぜ 枝左松しさまつ

 ・本 名 栗田 ?
 ・生没年 1900年代~昭和56年/1981年以前?
 ・出身地 

 

 

 来 歴

 戦前戦後活躍した夫婦漫才。松平操は、漫才の中にハーモニカを取り入れた先駆者の一人であり、大空ヒット、都上英二らと鎬を削った。枝左松は女道楽の出身で、何でもござれの芸達者な人であったという。

 松平操は中々に古い人で、『読売新聞』(1936年8月23日号)のラジオ欄に、

 松平は向島小学校卒業後、浅草橋際新見楽器店に奉公中、ハーモニカを勉強し、二十一歳の時に林家正蔵の睦会に所属して、寄席に出演するようになる。後年、安来節の大和家三姉妹一座に入団し、ハーモニカで追分節、浪花節、博多節を吹くことを研究した。現在は松竹、ビクター、三Kハーモニカ会社に所属

『読売新聞』(1936年8月23日号)

 とあるのが手ごろな資料か。

 1929年頃、漫才に転向。漫才師入り前後の事情は、『都新聞』(1931年4月)に掲載された『萬歳盛衰記』に詳しい。その中で、『相棒を探してこい』(14日号)、『封切映畫の萬歳化』(15日号)は松平操の事を扱っている。

これも萬歳界の變り種、松平操と梅若小主人の映畫萬歳について由来を 語らう、と言つてもまだ出来たてのホヤ/\だから簡単に片がつく、一昨年の暮のこと、帝京座に一風變つた青年がやって来た、ルパシカに子供のマントのやうな短いのを着込んで、一見貧乏畫家か文士の出来損ひのやうな男、 主任の外村氏が遇つたが、僕はハーモ ニカを吹くんだが、こちらで使ってくれないかと言ふ、寄席にも出てゐて自信があるといふ話だったが、とかくこんな身なりの男には理屈っぽいのが多いので、態よく断つた、その頃浅草劇場にインデアンでやはりハーモニカのうまいのが出てゐたがうまい割には人気を呼ばなかった、そのこともあったのでハーモニカだけでは困ると思ったのである、所が二十日ほどして又やって来た、どうでも使ってくれと言ふのだ、それでハーモニカだけでは 困るといふわけを話し、相棒を探して来て、それと萬歳のやうな形式を作ってやるなら物になるかも知れないと答えた、十日程して評された通り相棒を作って来た、先の男が松平操、相手役が梅若小主人で、小主人といふ名ははあとで出来たもの、當時は春輔の弟子で小春師といひ、映畫物語で寄席を廻ってゐた人

 とある。記事から逆算すると、漫才コンビを組んだのは、1929年の暮という事になろう。小春輔とコンビを組んだ操は、漫才をやる事となったが、うまく行かない。上記の『都新聞』にも、

かうして出来上ったのが映畫万歳、名付け親は前記外村氏である、所が慣れない事とて無理もないが、どうも調子がうまく合はない上にネタが如何にも貧弱である

 とある。何とか売り出してやろうという担当者の慈悲もあり、模索を続けている内に、映画説明の中村聲波と出会う。『都新聞』の連載の続き『封切映畫の萬歳化』には売り出しの経緯が触れられている。

こんなことでは直ぐ倦きられてしまふだらうと心配してある所へ、丁度よくやって来たのが帝國館の中村聲波である、見て貰つて、名もあなたの畑の映畫萬歳といふのだから何とか工夫して物にしてくれ給へと頼んだ所、聲波も快よく承知して、丁度正月のことだったが、その時帝國館で封切中の長二郎「吹雪峠」から早速臺本を拵へてくれた、その上聲波自身の吹込んだレコードの出来立てを貸してくれた、これで映畫萬歳は一躍生々として来た、いかにも清新な感じになって来た、これに力を得て、外の説明者達にも應援して貰ふ、殊にナンセンス物に妙を得てゐる石井春波などには随分と智慧を借た、かうして人気のある映畫が、封切されてまだ数日も経たない中に早速萬歳化されて帝京座の舞臺にかかる、断然人気が出て来た新しいものゝ、喜ばれる浅草である、どん/\新しい種を入れて 行ったのだから人気の出る筈だかくしてほんの前座に過ぎなかった映畫萬歳が、ちょっとの間にトリの萬歳に出世した、近頃での目ざましい進出である、今は大阪の三友倶楽部といふ所に出演中だが、いづれは又珍趣命を仕入れて踊って来るだらう

 以来、衛が漫才として浅草を中心に売り出すようになり、『都新聞』(1930年7月30日号)に掲載された萬歳大会の広告にも、

▲新歌舞伎座 七日より十三日まで變り種の諸藝人を網羅してナンセンス萬歳大會を毎夕五時に開演、出演者は

荒川清丸、玉奴、玉子家吉丸、久奴、松本三吉、政次、轟一蝶、二見家秀子、吉田明月、荒川芳坊、喜楽家静子、林家染團治、加藤瀧夫、瀧奴、東駒千代、喜代駒、大道寺春之助、砂川若丸、東明芳夫、堀込小源太、小幡小圓、清水小徳、八木日出男、大和家初江、大和家雪子、中村直之助、千代の家蝶丸、登美子、玉子家末廣、福丸、浪川奴風、松平操、梅若小主水、砂川雅春、大和家かほる、壽家岩てこ、富士蓉子、朝日日出丸、日出夫、一丸、金花丸、松尾六郎、和歌子、弟蝶、久次、力久、竹乃、亀八、三代孝、デブ子、花輔、正三郎、源一、菊廼家若雀、独唱白井順、混成舞踊石田擁、女坊主澤モリノ外支那曲藝一行等

 同年秋より、大和家三姉妹が興行を打つ帝京座に出入りするようになり、漫才の傍ら、ハーモニカ奏者としても日本演芸協会に所属し、寄席や劇場に出ている。

 1933年頃には、大和家すみ子という女性と組んでおり、『都新聞』(9月3日号)の広告に、「▲玉木座 万歳(操、すみ子、光子、貞義)」とある。すみ子は大和家かほるの妹、と二代目大和家八千代氏より伺った。

 その後は相方を転々としたようで、『都新聞』(1935年6月22日号)の「大人を喰ふ子供の漫才が續々と淺草興行街に發生」という記事の中に、

 谷節子と八重子、春ノ金茶久と天野操、梅の家一徳とおかめ、浪花家静子玉子家九州丸の他に、中村小力と小政、小松家喜代丸とロートル、竹の家團子と富士枝、松平操と富士タカオ、寶来家鶴子と楽太郎等々――

 とあるのが確認できる。同年末に春風枝左松と夫婦漫才を結成した。

 余談であるが、流行歌手の楠木繁夫も「松平操」名義で活躍していた事があるので、広告などに出ているとどちらがどちらなのか、悩ましい所ではある(しかも、デビュー時期が近い)。

 枝左松は、芸人の娘で、父親は曲独楽の松井小源水。十六世松井源水の弟子で、明治から大正にかけて寄席の色物として人気のあった人であるが、1914年1月に亡くなっている。

 当時の『読売新聞夕刊』(1914年1月10日号)に「源水の門弟にて曲独楽事松井小源水事栗田長次郎(五十四)は昨年中より京都に赴き同地笑福亭に出勤中なりしが7日病死せり」という訃報が掲載されている。ここから、大体の年齢と、枝左松の旧姓「栗田」を導き出せる。

 さらに、『都新聞』(1928年10月15日号)に詳しい経歴が出ているので。これを引用する。

音曲吹き寄せ
藝に巣立つて今日をなした
枝左松さんと三喜之助さん

音曲「吹き寄せ」の春風亭枝左松さんは有名な独楽廻し十六世松井源水の弟子の小源水の娘で、早くに父に死なれ、七ツの時から高座の人となって小源女といひ、独楽廻しや手踊りをして一人の母を養つてゐたが、のち枝左松と改め、三升家三喜之助と二人高座を踏むことゝなつて、三喜之助の常磐津で踊りを専門にしてゐた、往年ら安来節がはじめて東京へ入つた頃、これを東京化してひろめたのはこの枝左松さんである

 また、『日刊ラヂオ新聞』(1927年11月13日号)にも経歴が出ている。

 枝左松さんは、幼い頃、小源女といつていたいけない姿で、高座で独楽をまはしてゐました、かういへば、寄席通の方は、思ひ出されるでせう 独楽まはしの源水の弟子小源水を父に持ちましたが早く死別し七才の時から、母親を養つて来た孝行者、東京で安来節を唄つたのはこの人で、皆高崎の藝者が唄つてゐるのもこの人が傳へたものです、今の痴楽と、剣舞の浪子と、この人の三人高座なか/\に人気を呼んだものですが其後、三喜之助さんと二人高座で評判をとりました

 後年、独楽回しから女道楽に転向。1924年頃、一時引退。1925年頃、結婚。相手は身持ちの堅い商人だったそうで、『読売新聞』(1927年11月13日号)の放送欄に、

怜悧な枝左松は楽屋を小さい時から知つてるだけに仲間と浮名を立てずに暮して一昨年堅氣な商人へ嫁いで居るのだが、ちよつとしたきつかけでこんもの放送つてなつた譯である
三升家三喜之助と女道楽コンビを組み、美貌と達者な芸を売りで鳴らした古株の芸人である。

 三喜之助・枝左松のコンビは震災以前から人気があり、JOAKが出来て数年も経たずに出演を果たしている。

 1935年コンビ結成。枝左松の三味線や唄に合わせ、「野崎」、「追分」といった曲弾きや浪曲の節を操がハーモニカで真似て演奏するという珍芸で人気を集めた。

 1935年に行われた都新聞後援の漫才コンクールで、並み居る人気漫才師をおさえて準優勝を成し遂げた。以下はその時の結果発表を報じた記事である。

これに氣をよくした松竹演藝部では、これを金龍館(註・浅草にあった劇場。後年松竹演芸部の漫才専門席となる)を持つて行つて常打に演り、續いて八月下旬には再び松竹座で、今度は都新聞社公演の下に漫才コンクールを開いたがこれも勿論當つて、愈々漫才熱を煽つた、因みにこの時所定の審査員によつて選ばれた優勝者は、一等浪速シカク、同マンマル、二等春風枝左松、松平操、三等都路繁子、千代田松緑等である

『都新聞』(1935年12月24日号)

 また、当時としては珍しくレコード吹込みやラジオ出演も行っている。ハーモニカ漫才の先駆けとしても活躍した。その盤の一つに、「唄ずくし」というものがある。国会図書館および関係施設で視聴できるので、どうぞ。

松平操・春風枝左松「唄ずくし」

1936年03月、ビクターより発売

1937年、応召され上海戦線へと配備される。この時同じ隊に配備されたのが、太神楽の鏡味小鉄であった。『都新聞』(1939年10月19日)に復員した際の報告が出ているので引用する。

曲藝とハーモニカの両勇士還る
丸一小鉄と松平操

一昨年応召してより丸二年と一カ月上海隊から中支各地に轉戦してゐた曲藝の鏡味小鉄と漫談ハモニカの松平操は十六日無事帰還、昨十八日二人揃つて本社へ元気な顔を見せた
偶然にも二人は出征の日も同じ隊も同じで、普通の名士○○銃を執つね各地を攻略して廻つたが、その傍ら隊が警備、守護につくと早速演藝團に早替り、兵士の中からえらんだ十人程の素人演藝家で演藝班を二つ作り、両人はその班長曲藝やハモニカで隊から隊を慰問してあるいたといふ、慰問中も極藝の毬や土瓶、ハモニカを持つてあるいた譯で二人交々

 戦中戦後は「松平漫謡団」「松平操一行」など、バラエティに富んだ一座を結成して、全国巡業や慰問に出かけていた模様である。

 一方、漫才も継続し、昭和20年代後半~30年代頃まで、漫才大会や演芸場に出演している様子が、坂野比呂志「香具師の口上でしゃべろうか」などで確認する事ができるが、漫才研究会には加わらなかった模様である。

 

 

 うれし氏曰く、「大人しい、目立たない人だった」。その後の消息はよく分かっていない。ただ、極楽寺の名簿には出ているので、それ以前には没した模様である。

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