南道郎・国友昭二

南道郎・国友昭二

南道郎・国友昭二(右)

漫才大会に抜擢された二人

 人 物

 みなみ 道郎みちろう
 ・本 名 根岸 貞一
 ・生没年 1926年9月25日~2007年11月13日
 ・出身地 東京 品川

 国友くにとも 昭二しょうじ
 ・本 名 稲山 昭二
 ・生没年 1927年6月15日~没
 ・出身地 東京

 来 歴

 戦後、綺羅星のごとくに現れた人気漫才師の一組。学生漫才という新しいジャンルを作り、コロムビアトップ・ライトと壮絶な鎬を削り合い、喜劇や歌劇の出演、司会漫才の開拓など、数年のコンビにもかかわらず、後進の漫才師に大きな影響を与えることとなった。 

 南道郎は、舞台俳優、映画俳優としても有名である。なお、南道郎の経歴はご遺族の資料提供によって、判明した。ありがとうございます。

 

 ・南道郎の場合

 建築業を営む根岸貞作、はなの長男として生まれる。父親は頑固な職人で、腕はいいが、気が向かないと仕事をしなかったらしく、道郎は家族を養うために納豆売りのバイトをして生計を立てていたこともあった。

 中学卒業後、半年ばかり貯金局に勤務したものの、兵隊になる志を立てて、明治大学専門部興亜科に入学。迫りくる戦争情勢を学ぶこととなる。

 戦争も日に日に激しくなる1943年4月、満17の時に職業軍人を志願するも、親の反対に遭う。

 自伝『右向エー左ッ』によると、この時、南は父親に向かって、

「国家存亡のとき、国がのるかそるかの重大なときに、個人のことを考えてていいんですか。国家なくして何が個人です」(その時の私は明治大学専門部に興亜科というのがあり、宣撫班員を養成する部門に学んでいた)

 と言い放ったという。当然父親の反感を買い、大喧嘩となった。許可を出さぬ父親に愛想を尽かし家出を試みたが、母親の情けによって実印を入手し、志願する事に成功した。この時の事を南は自伝『右向エー左ッ』の中で、以下のように記している。

「お前そんなに軍人になりたいかい」
「なりたい」
「わたしは、お前が志願するのは賛成じゃないけど、止めようとも思わない。これは独り言だから聞かないでおくれ。――実印は仏壇の右の抽出しの奥にあるよ……」
 おふくろは、そう言って私の顔をじっと見た。 “有難う”私は起ち上って仏壇の抽出しに手を延ばしたら「待ちなさい」とさえぎられた。
「わたしの見ている前で判コを持ち出さないでおくれ。わたしは、お前が軍人になるのは反対なんだからね」
 と言い残して家から外へ出て行った。 おお軍国の母よ、これはうそじゃありませんよ。

 見事に実印を手に入れ、願書を提出した南は無事兵隊検査に合格。特別操縦見習士官を志願したが、所沢から豊岡、青森県八戸、更には航空士官学校館林分教場と転々とし、空襲や教育を潜り抜けて、陸軍特別操縦見習に任命される。

 1945年の終戦間際に満州白城子へ送られ、一二五部隊、翼源隊に所属。迫りくるソ連軍や中国軍と衝突する最終決戦の日まで備えていた――矢先に終戦。

 終戦の報を聞いた隊長は、ソ連が攻め込んでくることを予想し、早急に引き揚げを開始する。このお陰で、抑留をされずに済んだのは言うまでもない。内地へ帰還を果たし、復員。しかし、南の夢であった兵隊で誉を立てる事が消えたことにより、南はしばらくスランプにあったという。

 復員後、暫く鬱屈した日々を過ごしていたが、ツテがあって「第一新聞社」に入社。広告取りや編集の使い走りなど、様々な職種を経験した。

 1946年冬、マキノ正博監督の『のんきな父さん』の試写会と新聞創刊一周年を兼ねた愛読者大会を開催する事となったが、敗戦直後の停電や交通渋滞により、出演予定の司会者、松井翠声が来ないアクシデントがあった。

 この時、ピンチヒッターとして司会に立った事が周りに評価されたこと、また会社の中での諸事情により、会社を辞めて、司会者に転向。上記の自伝では以下のように記してある。

アトラクションに轟夕起子さん等の挨拶が予定されていた。ところがである。その当時は、今とは逆の交通地獄で車も電車もが気が向かないと走らない。来るべきはずの司会者、松井翠声さんが定刻にになってもこないんだナこれが。みんな、困ったナどうしようと、ウロウロ、チョロチョロと社長の顔色をうかがっている。例によって、オッチョッチョイの私は、
「そんならわたしがやりましょうか」と口をはさんだ。
「出来るか君に」と社長。
「大丈夫、まかしてください」私は、ポンと胸をたたいたね。
 無茶な話だが、ズブの素人の私が、大スターを紹介する司会役をやることになっちまった。
 社にしてみれば、湖れるものワラをも摑む心境だったろうが、よくもまあ掴む気になったものと、今思い返しても、われながらあきれるネ。ところがである。これが何んとかうまくいったんだナ、「うまいじゃないか、商売人になれるぜ」私はおだてられた。
 そんな時に僅かとはいえ、代金の未収や使い込みがあって社に居づらくなったことも原因して退社した。(かなり悪い事もしてたネ)。いい気になったのが運のつき……、いやつき始めかもしれない……。

 デビュー当時は「南太郎」(なんだろう)という芸名で活動していたが、新聞社時代に面識のあった邦枝完二より「南道郎」と名付けられる。その顛末は以下の通り。

  終戦時の混乱期である。目ぼしい芸能人は兵隊にとられてまだ復員していないし、復員していても栄養失調が快復していない。時、正に今。火事場泥棒じゃないが、チョットあわてたヨ。今は朝丘雪路さんのマネージャーをしているが、当時SKDで飛ぶ鳥も落とす勢の川路竜子さんのマネージャーをやってた、小山田さんという男だか女だか判んねェようなおばちゃん。この人が川路竜子のドリーム・グループ(後援会)の発会式に出る司会者を探しているというのをききつけて、乗り込んだ。
 報酬はいらない。交通費もいらない。食費も自弁する……。ただ、プログラムにスターと同じ大きさで写真と名前をのせてくれと言ったら、話はすぐ決った。
 南道郎という芸名はその時についた。新聞社務めのころ、可愛がってくれた作家の邦枝完二先生が名付け親である。
「芸名はネ」と先生は言った。「名刺を出したときに、すぐパッと目につき覚えられるもんじゃないといけないナ。どうだい『南太郎』でナンダロウと読ませるのは、チョット曲がオシロミないかな。『南道郎』なら当り前の名前にも読めるし、いいじゃないか」
「いいですね、有難うございました」
 その経緯を知っている淡谷のり子さんは、いまでも私を決して、ミナミさんとは呼んでくれない。
「どうしてる、ナンダロウ元気?」とくるネ。スターと一緒にのせて貰ったプログラムを持って私は芸能社をたずね、仕事にありついた。

  一時は司会の傍らで腹話術にも挑戦したが、こちらはすぐ辞めている。以来、国友とコンビを組むまで、司会者やコメディアンまがいの仕事で、巧みに芸能界を生き続けてきた。

 ・国友昭二の場合

 道郎に比べると、国友昭二の前歴には謎が多く、どんな幼少期を過ごしてきたのかは判らない。

 ただインテリだったのは確かで、戦後まもなく國學院大學に進学し、大学生になっているのは事実である。

 学業の傍ら、1947年にのど自慢大会に出演。同級生の斉藤和央とコンビを組み、見事に合格。この時の合格者には声帯模写の桜井長一郎も居た。合格した際の記事が『ラジオ新聞』(1948年8月)に掲載されている。

漫才 國友昭二 齋藤和央

二人とも國學院大學の學生、本来ならノリトでよあげているところだが、何の因果か漫才が大好きで、放送の「のど自慢テスト風景」に合格したとき、アナウンサーに「お二人とも學生さんのようですが漫才はアルバイトですね」ときかれ「いえ本職になるつもりです」とやつて聴取者をびつくりさせた

 それからしばらくして大学を中退し、本格的にデビューした模様。転向した時の記事が『読売新聞』(1947年12月19日号)に残っている。

学生漫才コンビ 朗かに舞台へ轉向

○学生アルバイトばやりの昨今一三日の日曜NHKの”素人のど自慢”に漫才コンビ出ていたが出演、みごとパスした某私大生な國友昭司(二一)斎藤和夫(二一)の両君、これをシオに学生服をサラリとぬいで一つ本職といきやしようと発心した一八日二人を訪れると陽気にトレイニングのさ中――

問 漫才コンビの動機は答 
暗い面でも何人組などというのが流行しとるようですが、僕らは逆に明るい方の二人組でゆこうてんで…
問 学業をホウテキしなくてもよかろうがね…
答 “学もし成らずんば”なんて力んでみても、アルバイトだけではこの世相どもなりません
問 どういうねらいでゆくのかね
答 社会諷刺一本、学界もヤミ、国家試験もヤミでとおるとあつてはまるつきり漫才的じゃありまへんか、オホン

 学生漫才として出発した後は、当時東宝に所属して人気があった落語家、柳家権太楼の世話になって権太楼主宰の同好会「土曜会」に入会。端席や地方を巡業したりして漫才の腕を磨いた。

 漫才になって間もなく、斎藤和夫が引退。これを機に、本格的な相手を探し求め、1948年、かつてインテリ漫才の親玉として鳴らした浪花マンマルと、コンビ結成。

 その結成前後の話が、『ラジオ新聞』(第63号)の中にある。

十四日夜の演藝(八時)は浪速マンマル、昭二の漫才と柳好の落語、マンマルは神戸商業出身のインテリ漫才としてシカクと組み、エンタツ、アチャコ、ラッキーセブンらとそのかみの漫才全盛時代をきずいたオールドタイマー、昭二は昨年暮のNHKのど自慢に学友斉藤和央君と登場、見事合格した際アナウンサーに「アルバイトですか」ときかれ「いや本職に……」といつた御仁、その後斎藤君とゝもに柳家権太楼主宰の土曜会に入って北海道の炭鉱慰問にいったり、早稲田の「ゆたか」などに出て勉強していたが、こんど念願かなつて本格的プロとなりマンマルと立体漫才の新コンビをつくったもの

 1年ほどマンマルと組んで、芸を磨いていたが、1949年に円満解散。

 同年5月、南道郎とコンビを組んで、「南道郎・国友昭二」を結成することとなる。

 

 ・コンビ結成前後

 1949年5月、コンビを結成した二人は、同月12日より、新宿セントラル劇場で初舞台を踏み、フレッシュな若手漫才師として売り出した。以下はその結成を報じた『アサヒ芸能新聞』(1949年5月17日号)の引用。

歌と踊りと?で
奇抜な慢才をやる心算

学生万才でフアンの目にとまつた二人は最初アメリカ映画「アラスカ珍道中」を見て”実にスバラシイ面白さだネ”なんとかして日本にもあゝいう味の芝居をつくりたいというところからあれやこれやと思案していたとき、たまたま一路、突破がはなればなれになつたのがチヤンスで、ようし俺達で演ろうという急遽旗挙げになつた、歌と踊りとあとはなにが飛び出すか?という、とにかく奇抜なところを狙つてお客のキモをつぶそうというのがこの二人の考え、サトウ・ハチロー先生からも”なか/\面白いものだ”と推せんされました、わたし達の考えでは舞台とお客さんの間に流れる溝をなくしたいんですね、ほんとうにとけあつて楽しんで貰うために……たとえば客席から出場したり、舞台から客の間を下りていつたり……そして将来は専属のバンドをバックに思い切つた万才を演る積りです」
この野心満々のジュニア二人は去る一二日新宿セントラル劇場で正式に発足することになつた

 以来、学生漫才コンビで大いに売り出す。正確に言うと、大学生の資格を両人とも喪失していたわけであるが、明るく何事にも縛られない態度は、戦後世代を代表する「アプレゲール」の代表として目され、学生扱いされていたようである。

 この若さとフレッシュさで、世の不満や本音を何でも言ってやろうという前向きな態度や学生漫才の活躍は、後進の芸人に大きな影響を与えることとなった。

 「ステッキなコンビ」を自称し、派手なカラースーツにステッキを身に着け、電車や橋の上で漫才をするなど多くの話題を振りまいた。

 玉川一郎『よみうり演芸館』(『読売新聞夕刊』1960年2月16日号)の中にその頃の逸話が詳しく書いてあり、その面影をしのぶことができる。

また、ご当人たちも、積極的に自分たちで宣伝にうちこんだもので、長野市に行った時など、善光寺に行くあの坂道の両側の店の前を一軒一軒、国友がカネをたたき、南が名刺を持ってまわり 「ステッキなコンビの国友昭二と南道郎でございます。よろしくおねがいします」
 とやり、新聞の三面に大きくあつかわれたり、数寄屋橋の石の手すりの上に二人でまたがって、逆説的に”売れない漫才”と書き立てられたりしたものである。
 朝夕の国電の中でも、ハデな演出ゲンカをやったりした。
 少し離れた座席から、南がいきなり、 大きな声で国友に呼びかける。
「おう、お前はだれだ、俺れの顔をジロジロながめやがって」
 人だかりがする。すると国友が立ち上がってこれに応ずるのである。
「おれか、おれは国友昭二だ」
「そうか、そんなら、おれのコンビじゃないか。おれは南道郎だ。えゝ、皆さん、私たちはステッキなコンビの国友昭二と南道郎でございます」 といって、着いた駅でスーッと降りてしまい、また次に来た電車に乗って行く。
「おう、お前はだれだおれの頭をジロジロながめやがて」
 人だかりがする。
「おれか、おれは国友だ」……

 1950年頃、『二世まかり通る』という演目を生み出し、当時GHQの陰で威張り腐っていた日系二世のカタコト日本語と文化の違いを巧みに取り入れたネタで、大当たりをとる。作者は、国友の後年の相方である榎本晴夫だというが、本当だろうか。

 このネタで、南がガラガラ声でインテリ然とした国友を煙に巻くスタイルを確立。「お茶漬けサラサラ、たけわんポリポリ」と、日系二世の片言を揶揄した他、「常識だよ」というギャグも多用するようになった。これもまた漫才師が生み出した流行語の先駆けといえる。

 この人気が認められ、東宝の専属という形で取り立てられ、「春のおどり」「秋のおどり」といった日劇カーニバルの幕間漫才や映画などに出演。

 同時期にコロムビアから売り出したコロムビアトップ・ライトと共に若手の双璧とされ、後進に大きな影響を与えることとなる。

 トップ・ライトが司会漫才で売ったのに対し、彼らは劇場型の漫才で走り続けたのが大きな特徴であろう。後年、多くの漫才師が日劇や歌舞伎座などの喜劇や大会に出られるようになったのは、この二人の活躍が、東宝や松竹に認められた、というところが大きい。これもまた、トップ・ライトと並ぶ功績として記憶されることであろう。松浦善三郎『関東漫才切捨御免』(一九五四年四月三週号)にも、

国友昭二・南道郎
さいきんメキメキ頭角をあらわしてきた立体。インテリジェンスを買われてジャーナリストに人気がある。若手をここまで伸ばすには 金子支配人の努力が力あったものとみねばなるまい。十年後の漫才がどうかわるかは予測できないが どんな形にうつろうとも、その時代の第一線で活躍できる素地のあるホープ中の最たるものと、いまからたのしみにしている。
昨年飛行館ホールでのAKの公開録音で、どちらかがトックリセーターを着て出演していたが、常識論からいえば客をばかにした話でステージマンの大いにつつしまねばならぬところ

  と評されている。

 1955年2月には漫才研究会設立に携わり、コロムビアトップ・ライトと共に青年部部長に就任している。

 斬新な話芸と演出で、東京漫才をリードし続け、漫才研究会の幹部になった処から、若手のリーダーとして期待をされたが、漫才研究会が成立したわずか三か月後、方向性の違いから5月にコンビ解消をしてしまった。以下は『右向エー左ッ!』に載った解散の事。案外さっくり記されている。

昭和三十年の三月、日劇春の踊りを最後にコンビを解消するまで、私達の漫才は大いに受けた。コムビ解敗の記事が新聞に出たトタン、全国から四千通に余る引止めの激励文が殺到した。嬉しかったが、発表した以上どうすることも出来ない。その後東宝の映画、舞台に出ていたがまたもや戦争が私を必要としたんだネ。『人間の条件』 である。

 上の記載では「三月解散」とあるが、南の勘違いだろう。詳しい報道は『週刊NHK新聞』(5月1日号)に掲載されている。

 昭二・道郎コンビを解消

  戦後派漫才として、スピードと新しい感覚で人気のあつた国友昭二、南道郎のコンビが日劇”春のおどり”の舞台を最後に解消した
道郎が映画、舞台のヴオードヴイリアンとして行こうというのに対して、昭二はあくまでも漫才で行こうという意見のくいちがいから、今後はそれぞれの道を進むこととなつた。
 道郎談「東宝との契約も個人個人のもので、仕事の上でもいろいろさしさわりがあるので、話しあいのうえ円満解消しました。昭二は相棒をみつけ、漫才をつづけ、私はヴオードヴイリアン役者としてやつて行きます。」

 ・国友昭二のその後

 南とコンビを解消後は、同年9月に東宝との契約が切れたのを機に、ビクターへ移籍。同年10月より、榎本晴夫とコンビを結成、『内外タイムス』(9月29日号)に、

 去る四月二十五日、永年の相棒南道郎と意見の相違から袂を分った漫才の国友昭二は、九月一ぱいで東宝と専属契約が切れるのを機会に、元コロムビアの楽団スイング・チェリーのバンドマスターをしていた榎本晴夫と新コンビを結成、十月五日初日の「秋のおどり」から新発足することになった。
榎本晴夫は本名を晴方(ハルマサ)といい、約二年前マーキュリーから発売された南・国友の漫才レコードの台本を書いたこともある。楽団時代は主としてドラムをたたいていたという変り種。

 と報じられた。以後8年間、「榎本晴夫・国友昭二」として活躍。青空うれし氏いわく、「結構面白かったよ」。

 そこへ司会仲間の志賀晶を入れて、「サラリーマントリオ」を結成。いわゆる、コントトリオの一組として、都会風な漫才を展開。サラリーマンの悲哀を描く芸風で、テレビラジオに進出。

 1966年頃、「サラリーマントリオ」を脱退、漫才界から一線を退いた。この残された二人が、「エノ・シガ」コンビを組むこととなる。

 以降は、橋幸夫の司会を中心に、ビクター専属の司会者として活躍。橋幸夫の記事に名前が出ていたりする。

 中堅の司会者として、堅実な活動を続けていたが、1970年代後半に芸能界から引退した模様で『文化人名録』などの名簿から名前が消えるようになる。

 引退後は名古屋へ引っ越し、天理教の幹部になったという。青空うれし氏曰く、

「国友さんは名古屋の天理教教会にいて、名古屋では相当有名な人だった。芸人仲間とは会わなかったけど、名古屋は仕事とかでよく行っていたから、国友さんが天理教の幹部になった、ってのはよく聞いたよ」

 との事である。

 ・南道郎のその後

 国友昭二とのコンビ解散後は、宣言通りに漫才界から退き、コメディアンに転向。

 引き続き、東宝専属として、日劇ミュージックホールなどの諸劇場に出演。コメディアンとしての腕をふるった他、同業のEHエリックと漫才風のコントを披露したこともあった。

 エリックの風貌や堪能な英語を生かし、道郎が英語をしゃべるエリックにめちゃくちゃな英語で応戦する、最終的にエリックが呆れて、日本語で喋りだす。その上にエリックから、

「12月25日はなんの日だい?」
「クリスマスじゃないか。」
「バカヤロー、大正天皇祭だ!」

 と逆ねじを食らう独特のコントで満場の爆笑を攫った。この芸風は『談志楽屋帳』などに詳しく書いてある。

 コメディアンとして活躍する傍ら、舞台俳優路線にも進むようになり、菊田一夫や東宝のお歴々を巡り、オーディションを受ける日々が続く。

 その努力が実り、1958年、芸術座の『人間の條件』に出演。権力を振りかざす鬼軍曹、憲兵渡合軍曹を熱演し、一躍悪役俳優の地位を築いた。

 この演技は演劇評論家も唸らせ、『演劇界』(1958年10月号)の今月のグラン・プリにも選ばれている。以下は利倉幸一の批評。

 南道郎は芸術座の『人間の條件』の憲兵渡合軍曹を推したものである。あるいは柄にはまったということが大きく作用して、演技以前のものからの成功かも知れないが、しかし、現代劇に於ける写実演技として稀に見る迫真性のあるものであった。憲兵軍曹の、この程度の位置、この程度のいやらしさが過不足なく描出されていた。

 1960年5月、新宿に寿司屋を開業し、役者業の傍ら板前としても活動することとなった。後年、北海道で南観光株式会社や飲食店なども経営する事となった。

 1963年1月から2月にかけて海上自衛隊に体験入隊。この頃から嘗ての軍隊経験を踏まえたうえで、国防や憂国などの論調が目立つ様になる。同時に映画俳優としての全盛を迎え、多くの軍隊物映画や喜劇映画などに出演している。

 一方、家庭では離婚、再婚、家庭争議など、多くの問題を抱えることとなった。

1964年には東南アジア諸国に旅立ち、太平洋戦争で無残な死を遂げた戦没者たちの追悼と祈念に廻った。

 1969年11月、参議院選挙へ出馬する為に芸能界引退を発表。民社党推薦で北海道一区から出演を果たした。冬の北海道の中をコートも着ずに駆け巡り、公約を訴えたが敢え無く落選。

 1972年12月開催の参議院選挙にも立候補し、奮闘を続けたものの、こちらも落選。

 2回の落選を経験してからは政治活動との距離を置き、芸能界へと復帰した。

 その後もドラマや映画などの脇役として出演を続け、悪役俳優の手本となるような演技を見せた。

 1980年9月には国立演芸場に出演し、旧友の玉川良一と共にコントを披露して、技倆をアピールしたが、この頃より舞台から遠ざかるようになり、結果として、最後のコメディアン活動となった。

 平成に入るとわずかに刑務所慰問程度にとどまり、引退同然になった。その背景には病気や家族関係など、身持ちの問題があった――そうで、ご遺族によると台詞覚えが悪くなり、今まで出した事がなかったNGを出してしまった事に見切りをつけて、引退したとの事である。

 その後は再婚した妻と家庭生活を営み、子供を授かったが、この頃から体調をひどく損なうようになり、家族及び行政と協議の末、離婚。円満な離婚だったため、妻や子は行き来していたという。

 その後は、ナーシングホーム市川に入所し、余生を送った。

 没年及び晩年の動向はご遺族の情報提供により判明した。ご協力ありがとう御座います。

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