坂東多見子・多見八

坂東多見子・多見八

坂東多見子・多見八

 人 物

 坂東ばんどう 多見子たみこ
 ・本 名 篠原 きよ
 ・生没年 1910年頃~1979年以降?
 ・出身地 ??

 坂東ばんどう 多見八たみはち
 ・本 名 ??
 ・生没年 ??~1966年以降
 ・出身地 ??

 来 歴

 戦前、戦後に活動した漫才師。夫婦のようであるが夫婦ではなく、師弟コンビだというのだからややこしい。かっぽれや舞踊を中心とした漫才を得意としたそうである。

 両人とも経歴は不明。ただ踊りが達者な所から、女道楽やかっぽれ連の出身だろうか。

 多見子の生年は、「陸恤庶發第五七號 船舶便乗ニ關スル件申請」(1940年1月27日)から割り出した。曰く、

一、往航 昭和十五年二月六日神戸出帆廣東行 
二、復航 同四月上旬廣東出帆神戸行

落 語     柳家権太楼  北村市兵衛 四一才 
浪 曲      東家三燕  松本源太郎 三八才
・三味線   鈴之家八千代  鈴本ハル子 三〇才
・俗曲と     坂東多見  篠原キヨ子 三〇才
・日本舞踊   西川扇枝女  中島渡子  二二才
西洋舞踊     黒田?子  山田ふみ子 二二才
アコーデオン獨奏 鳥元徳治  鳥元徳治  二五才
落語漫藝     柳家語樂 梅津松太郎  四〇才

 多見子の夫は歌舞伎の名門・尾上菊五郎劇団の関係者だったと聞く。『歌舞伎俳優名鑑改訂増補特装本』で古賀政男が「市川門之助」に寄せたエッセイの中に

私は、幼い時から歌舞伎が好きで、とくに明大時代の下宿先きが、もと東京劇場の照明係りの篠原という人の二階だったこともあって、当時、市川左団次の芝居は、必ずみていたし、先代松蔦さんのファンでもあった

 とある。この人の妻だったのだろうか。こちらも経歴がよく判らないが、長らく長唄三味線を習っていたそうで、三味線の腕はあったと聞く。師匠筋は杵屋十茂春で、兄弟弟子に内海好江がいた。

 1930年代後半より浅草の劇場へ出演するようになる。主にかっぽれと三味線を十八番とした、音曲漫才だった。戦時中は大日本漫才協会に所属。そのため、名簿から本名を割り出す事が出来た。

 しかし、この時点では多見八とコンビではない。誰とコンビだったのか、イマイチ判断がつきかねる状態である。

 戦後、多見八と正式にコンビを結成した模様か。

 多見子は板橋区蓮沼に居を構えたという。同居していたとも聞くが、詳しい事情は知らない。

 当時の芸風が、松浦善三郎『関東漫才切捨御免』(『アサヒ芸能新聞』1954年5月1週号)に詳しく出ているので引用。

阪東多見子・多見八

区分は舞踊漫才に入れるべきか多見子は多見八の師匠格なわけである。この子の夫は菊五郎劇団の俳優とか聞いている
踊りは大概の一般的なものは演る。両人とも三味線を持つし、気が向けば合奏で御ききに入れる。無難な漫才

 しばらく余興や巡業などで漫才を続けていた。1960年代に入ると、宮田洋容率いる「東京漫才協会」に所属している様子が当時の『東京新聞』から確認できる。

 後年カッポレ連に転向した模様。波多野栄一『寄席と色物』の中にも「三味線と踊り多見八は後にカッポレ連に転向」とある。

 詳しい事情は不明であるが、1966年公開のアダルト映画『やわ肌ざんげ』に、多見八は、「花本六助」役として出演。主演が布地由起江で、映画内の彼女の役名が「花本おはん」であることから、親父の役だろうか。

 多見子より先に没したのだろうか。謎が多く残る。「かっぽれ連」といってもいくつかあるので、その分別が困るのである。

 一方、多見子は芸人を続投。たたき上げた三味線と唄と踊りで高座にたち、音曲吹寄せやっていた。

 最晩年は松竹演芸場や木馬館に出演しており、1976年4月上席「音曲吹寄せ 坂東多見子」として出演した記録が『東京かわら版』(1976年4月号)の広告に残っている。

 1987年頃、笑組のゆたか氏が十茂春の家(この時には十茂春は亡くなっており、息子に師事していた)を出入りしていた頃には、「没していたか、引退していたか」という。

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