都上英二・東喜美江

都上英二・東喜美江

売れに売れていたころの英二・喜美江(初代)

NHKの大会に出演

英二・喜美江(二代目)

十八番の曲弾き

英二・ヒットのツーショット

 人 物

 都上とがみ 英二えいじ
 ・本 名 股村 太三夫(旧・淵上)
 ・生没年 1914年12月1日~1979年11月14日
 ・出身地 福岡県 久留米市

 あずま 喜美江きみえ(初 代)
 ・本 名 股村 喜美江
 ・生没年 1926年1月6日~1962年10月14日
 ・出身地 北海道

 あずま 喜美江きみえ(二代目)
 →東和子・西〆子

 来 歴

 戦前・戦後「都上英二・東喜美江」で一世を風靡した漫才師。歳の差があるものの、実の夫婦である。

 英二は、あまり前歴を語らなかったので、詳細な足跡は不明であるが、それでも一応の前歴はLP『東京漫才のすべて』の中で語られている。以下はその引用。

トップ あの、英二さんは、大体いくつ位からこの商売に入ったんです?
英 二 はあ、漫才ですか。僕は……17くらいですね。大体。
トップ それ以前は何をおやりになさっていたんです?
英 二 それ以前は、まあ、この、堅気でね。呉服屋の番頭だとか、色々変えましたがね。雑貨屋に行ってみたりね。で、結局はじめ、その歌を志しましてね。僕は九州ですからね。
トップ 熊本ですね、確か。
英 二 久留米、久留米。
トップ 久留米ですか。はあ、なるほど。
英 二 で、結局、まあ歌い手になりたくて、国を飛び出して。ですから、まず大阪へ行って、大阪でウロウロしましてね。最初は節劇なんかに入ったり、昔でいう喜劇一座に入ったり、まあいろいろな一座に入ったりしまして、結局、そこで音楽の勉強が出来なくて、漫才の一座に入って、荒川芳丸という人の弟子にならんかと。名前は知ってましたし、顔も知ってましたけど、結局会わずじまいで僕はあの荒川の弟子ということに、はじめなったんですよ。

 と語っている。名前だけの師弟関係は当時の漫才界にはたくさんあり、後年東京で世話になった東喜代駒にも同じことが言える。

英二 ところが、その師匠は広島の方へ巡業の方へ行ってましてね、私は大阪の「小宝」という席がありまして。そこで、1か月か、2か月働いたでしょう。その時分は奇術をやってましてね。

 その小屋の近所には、アダチ竜光が出演していたという。奇術のネタは沢山持っていたが、奇術の方はうまくなかったそうで、「あたしは20くらい使わないと。ちょいちょい失敗して、ネタを落としてみたり、いろんな失敗しまして、結局君は奇術をやってもダメだから、漫才師になれと、小家主に言われて、芳丸さんの弟子になる……」と語っている。

 上記の対談では初舞台は小宝のように扱われているが、『芸能画報』(1959年1月号)には、

英二 ①股村太三夫②大正3年12月1日③福岡県④舞台演芸を志し、昭和5年大阪天王寺館にて漫才界に入る

 とあり、齟齬が生じている。漫才師転向後は、若松家マサノブとコンビを組むようになり、マサノブの師匠だった若松家正右衛門が、奈良のシントク席で一門会を行った際に漫才師として初舞台を踏む。当時の芸名は「リュウイチ」(詳細不明。荒川リュウイチか?)と名乗っていた――と『東京漫才のすべて』の中で語っている。リュウイチは、龍一というらしい。

 以来、コンビ結成とドロン(一座から無断で抜け出すこと)を繰り返し、「ドロンのリュウイチ」の綽名をつけられたほどであった。

 長い放浪の末、1933、4年頃に大阪で箱手みせに参加。大空ヒットに拾われる形でコンビを結成し、「大空クリーン」と名乗る。

 英二自身は『東京漫才のすべて』の中で、

 東京に帰ってきた時に今の大空ヒットってのが、いたわけだ。このヒットとコンビを組んで、大空ヒット、僕は大空クリーン、ってクリーンヒットという名前で。

 と語っているが、大空ヒットは「大阪でまだ私は漫才の相棒が見つからぬまま一人で舞台をやったりしていた時……」、大阪の箱末という太夫元が相方の募集情報を出してくれて、そこで英二と知り合った旨を書いている。

 箱末の経営する大阪の葵席に出ていたが、2ヶ月で廃業した為に、離散。ドサ回りの一座に拾われるが、この太夫元が二人を飼い殺しにする心底を見抜いて、ヒットと共に離脱し、上京。横浜で興行師の渡辺寛次に拾われ、東北民謡の正司一座を紹介される。

 この一座に居たのが東若丸・君子夫妻と東茶目子と名乗っていた――後年の東喜美江であった。

上京後、「大空ヒット・都上英二」のコンビでやっていたが、間もなく解散。コンビ解散の経緯には諸説あり、都上英二自身は『東京漫才のすべて』の対談の中で、

それでね、ヒットくんと一緒にね。静岡の入道館という小屋があった。静岡に。そこに中村千賀次という一座があった。その中村ちかじという一座に、僕はその正月興行で応援に行ったわけです。ところがそこに、正司ミツナガという人が太夫元で、座長が中村ちかじ。これはドジョウすくいの元祖ですがね。この方の一座に応援に行った所、この座はつまり早く言えば東北民謡の一座なんですよ。追掛だとか追分だとかじょんがら節とだとかそういうものの一座だった。そこにあの東茶目子という、一人高座で、あの当時十歳かなあ……その時分ですね、一人高座でもう看板でやっていた。あの、そこに、現在のかしまし、三人の娘の歌江がいた。で、そこで最初に行きまして、その座に行って、応援して一遍帰って、それから僕一人、その座に帰って、その正司歌江とコンビを組んだ。それで、アタシがその座をやめる時に、二番目の照枝に漫才を二人で仕込んで、そして僕はその座をやめて、そして今の茶目子がいる……「フウタヤ」といいましたかね、その一座に行きまして、そこで茶目にあって、コンビを組んだんです。

 と述べているが、相方の大空ヒット『漫才七転び八起き』の中では、

 この一座には子供がたくさんいた。太夫元の正司さんにも子供が三人いた。みんな女の子で一番上の子が数えの九歳、歌江といった。これらの娘達が、のちの「かしまし娘」となって大阪で売り出すのだ。その時はとても考えられなかった。私達は、お兄ちゃん、お兄ちゃんといってしたわれた。
半年が経った。早く東京へ出たいものだと、無駄使いをしないで金を貯め、洋服を買ったりして用意をしていた。そろそろいいだろうと東京行きの話を正司太夫元にしたら、今少し居てほしい、給金をふやす、八十円出すから。……そんな大金とても頂ける芸ではありません、それより東京へ出てもっと勉強したいんです、と粘りこみ、しぶしぶ太夫元も承知してくれて、いざ東京へ。
 花の東京、希望に燃えて(燃えていたのはどうやら私だけだったのだ)。ところがある日相棒がクリーンなんて名前はいやだと言い出した。もっと二枚目の名前にしてくれ、でなきゃ東京へは行かんとむずかる。そこで、これから都へのぼって売り出そうというのだから、「都上英二」。 都へ上って英はすぐれる、二は私の弟分だから、……クリーンこと「都上英二」は大そう気に入って、さていよいよ東京行きということになった。
 余談だが蝶々・雄二も、最初蝶々さんの発案で、蝶々・トンボと名前をつけたら、「いやや、 そんな。チョウチョ・トンボやなんて、もっと二枚目の名前がほしい」と雄二が駄々をこねた。 蝶々さんは学校もろくろく行ってないので、時折り「ネ工、この字なんという字」とよく聞いた という。で南都雄二とつけたという。が、これは育ての親、秋田実さんの考えたものではないかと私は思う。
 いずれにしても、都がついて終りが二である。何だかよく似たところがあって面白い。 しかし、せっかく上京した英二は、今までと違ってぜんぜん芸に身がはいらなくなる。そして ある日突然、書置きをして出ていってしまった。正司一座のことがどうしても忘れられないから、 コンビのことはあきらめてほしい、ということだ。
 私はせっかくのコンビだったのに、そして東京でも大変受けて売れはじめたのに、と納得がいかない。すぐ正司さんの一座を探して東北地方へ出かけ、英二に会って話をしたが、今半年待ってくれという。英二は歌江と漫才をやっていた。

 と記されている。また、玉川一郎は『よみうり演芸館』(『読売新聞夕刊』1960年2月22日号)の中で、

 ここで一座したのが、庄司という太夫元のメンバーで、そこには六つの時から高座にあがり、浪曲のまねや民謡もやり小さいからテーブルの上にチョコナンとすわって、天歳少女といわれた、今の東喜美江が十二歳で人気をあつめていた。
 この少女に英二が恋をしてしまったのである。
 二十いくつにもなる男が、十二歳の少女に恋をして、毎日毎日ラブ・レターを書いている。相手役のヒットが「あほらしゅうなってきた」のはムリはなく、青空ヒットは「青空」よりももっと広い大空に改名して、亭主が出征して相手役のなかった大和かほるとコンビになるし、青空クリンの英二は、都に上ってエラクならねば、この恋はかなわじと、都上に改名するにいたったのである…。

 と記しているが、これはゴシップ臭い。どれが本当なのか迷う所であるが、どちらにせよ、コンビよりも東喜美江との恋をとったのは事実のようである。その背景には東喜美江の母、君子の強い推薦などもあった模様か。

 ヒットとのコンビ解消後、再び正司一座に戻り、正司歌江とコンビを結成。正司歌江『女やモン!』に、

座員のなかに、都上英二、大空ヒットの青年漫才コンビがいてはりました。どちらも男前で、モダンなコンビでした。
ところがヒット兄ちゃんに恋人ができたかなんかで、いつの間にかドロンしはったんです。
昔はだれでも、よくドロンをきめこんだもんでした。
残された英二兄ちゃんは、相棒がいなくては漫才ができしません。
都上英二兄ちゃんといえば、本職の漫才そこのけのアイデアマンで、子供をあつめて金色夜叉の芝居をさせたり、月形半平太をやらせてみたりと、なかなかの名プロデューサーなんです。
その兄ちゃんが、ウチにこういわはりました。
「歌江ちゃん、僕と漫才やってみないか? 君の好きな歌も三味線も入れて――。僕とコンビを組んでみよう」
ウチがうなずくと、兄ちゃんはすぐ父さん母さんに相談して、もう翌日には英二(二十四歳)、歌江(七歳)のコンビ誕生です。
ネタはもちろん英二兄ちゃんが考えはったもので、これがまた、よううけました。
兄ちゃんはギター、ウチは三味線、和洋合奏で「春雨」なんかを弾くんです。ウチはこの時ギターもやりましたが、ここで両親がもめだしました
母さんはモダン好みで、
「ギター、ハーモニカ、アコーディオンは、これからますます流行するから、大いにやりなさい」
こう励ましてくれはるのに、
「芸人は第一に声がよくて、民謡、浪曲、三味線、太鼓が大事だ」
父さんはガンとしてゆずりません。
英二兄ちゃんの意見はこうでした。
「日本も、これからはだんだんモダンになる。ハイカラになっていくのやから、洋楽器と、とくに譜面の勉強をせんことにはいけない」
どちらの意見が正しかったかは、ご承知の通りです。やはり母さんと、英二兄ちゃんには先見の明がありました。

 というような経緯が綴られている。

 その都上英二を一目ぼれさせた東喜美江は、北海道の出身。父親は東若丸、母親は東君子という漫才師一家で、弟子の東和子は「はとこ」に当たる。関係を系図にするとかくのごとし。

 母――――→東君子―――→東喜美江 
(姉妹)  (従姉妹)
 母――――→ムメ――――→東和子   

 そんな環境から、幼い頃から厳しく芸事を仕込まれるところとなり、都上英二は『東京漫才のすべて』の対談の中で「厳しかったですねえ、その稽古もね。とにかくね、親父が尺八で頭を殴るくらいやかましかったんですよ」と回顧している程、厳しい修行生活を送る。

 今日ならば児童虐待になるだろうが、そんな努力が実を結び、幼くして芸達者な天才が生まれる事となる。

 初舞台は大阪小宝亭。奇しくも都上英二が若手の頃に働いていた小屋で初舞台という形となった。『芸能画報』(1959年1月号)によると、

 喜美江 ①股村喜美江②大正15年1月15日③北海道④昭和6年大阪小宝亭をスタートに漫才界に入り現在に至る

 との事であるが、これより前に巡業などで舞台に出ていた可能性は高い。

 両親が東喜代駒から名前をもらい、「東若丸・君子」と名乗っていた事から、喜美江も「東茶目子」と名乗るようになった。漫才の系図などを確認すると、喜代駒門下として記されている事がある。

 間もなくして、正司利光の一座に入団。この時、太夫元正司利光の長女として出会ったのが、後年かしまし娘で一世を風靡した正司歌江である。正司歌江『女やモン!』の中に、幼い頃の喜美江の記憶が出てくるので引用する。

 話はかわりますが、ずっと以前から父さんの一座にいて、ウチらといっしょに旅回りしていた股村の叔父さん夫妻に、茶目子という芸名の女の子がいてはりました。
 茶目子姉さんはウチより六つ年上ですけど、花江ちゃんの生まれたころから、なんや知らん間に手のつけられんほどの芸達者になってしまはったんです。
 声といい、歌の節回しといい、それに三味線の上手なこと、身体は小さいけど、ゴツウ迫力のある茶目子姉ちゃんでした。
 この姉ちゃんが、のちの東京漫才で全国に売れに売れた東喜美江姉ちゃんなのです。(現在の喜美江さんは二代目)
 興行師・太夫元である父さんは、娘のウチをさしおいて、茶目子姉ちゃんにものすごう力を入れ、一枚看板にして旅回りしなるようになりました。
 それまでウチが子供連中の看板なったのに……。えらい敵ができてしもたんです。好敵手といいたいけど、実は差がつきますぎています。今まで座員の子供グループ(九人ほど)でガキ大将になっていたウチは、茶目子姉ちゃんの売出しで鼻をへし折られ、いつの間にか大将の座を明け渡してしもた恰好なんです。
 年は六つ上やし、看板やし、顔よし声よしと三拍子そろって、人気はあがるばかり。あッという間に女親分が誕生してしまいました。
 舞台にあがっても、姉ちゃんとウチとでは拍手の音が違うんです。
「ようし、いつかあの姉ちゃんより、たくさん拍手をとってみせる!」
 負けずぎらいで、根性だけは人一倍あるつもりやけど、どうしつも抜くことができやしません。
 ウチの存在はうすくなるばかり。明けても暮れても茶目子、茶目子です。
 この姉ちゃんは十三歳から煙草を吸うたんですが、大人どもはもちろんだれも知りません。万一バレたら叱られること疑いなしやから、親にもゼッタイ内緒。カゲでスパスパ吸うてはるんです。

 長らく正司一座の花形として活躍をし、女親分として一座の子どもたちを統括。

 時には泥棒ごっこや丹下左膳ごっこなどの無茶をして、怒られた事もあったというが、歌江照枝の姉妹と交友を深めた。この時、一座の家庭教師役として入ってきたのが、美和サンプクであった。

 この頃、都上英二と懇意の仲になっているが、正司一座を脱退。旅を続けることとなった。

 後年、再会をした二人は、本格的に交際をはじめるようになり、英二と喜美江一家で上京。東喜代駒の門下に参じ、浅草の「交楽荘」というアパートへ入居。この交楽荘には、東ヤジロー・キタハチ大空ヒット波多野栄一などが入居する芸人アパートであった。

 1940年頃、コンビを結成し、端席や巡業などに出るようになる。

 1941年、二人は結婚し、英二は東喜美江の婿養子として「股村」と改名。この結婚の裏には、喜美江の母、君子の斡旋や後押しがあったという。なお、都上英二とはおしどり夫婦の仲を貫き、子煩悩の良き夫婦であったと聞く。また、喜美江は大の酒豪としても知られていた。

 夫婦コンビで寄席や東宝笑和会に出演するようになり、その実力が認められて、1941年6月中旬、東宝名人会に出演している。

 1941年冬、英二に召集令状が届き、幼い妻と若丸・君子を残して出兵。ビルマ、ラングーンなどを南方戦線を転戦し、死線を彷徨った。長らく戦地にいたはずであるが、1943年発足の大日本漫才協会には参加しており、名簿に名前が出ている。

 1946年8月、ヒゲぼうぼうの上等兵姿で復員。再びコンビを組み直し、舞台に出演するようになる。

 喜代駒や嘗ての伝手で桂文楽一門に入り、落語協会に所属。寄席の色物として、スタートをする。それから間もなく放送ブームの波に乗り、華やかな芸風で一世を風靡する事となる。

君と一緒に歌の旅 歌えば楽しユートピア 昨日も今日も朗らかに 陽気な歌の二人旅 ギターを弾こよ 三味弾こよ 弾けば一人で歌がでる

『バンジョーで唄えば』をもじったこのテーマソングは「英二・喜美江」を代表するフレーズとなり、多くの芸人や漫才師に強烈なインパクトと影響を与える事となった。NHKの専属というような厚遇を受け、ラジオに劇場に八面六臂の活躍をみせ、東京漫才をリード。

 三味線と歌声、都上英二のハーモニカとギターで合奏する華やかな芸風で一世を風靡した。美貌、美声、芸達者と三拍子揃った姿は多くの観客を魅了した。

 その技芸は辛口の松浦善三郎も高く評価し、『関東漫才切捨御免』(『アサヒ芸能新聞』1953年11月1週号)の中で

貴美江がお目出度でしばらく舞台を体んでいたが、今年の秋口から再びやり初めた。
「尾張名古屋は城でもち、貴美江英二は妻でもつ」など、蔭口をいわれた時代が、出る杭は打たれるのたとえ、なんの悪口と歯を食いしばって放送に舞台に精進して来た甲斐あって、今日の英二は立派な芸風を見せている。舞台のスタイルが大空ヒットに似ているかひと頃の英二は同じくらいギターを鳴らし、ハーモニカを吹いてか、ヒット程熱演の歴が見えなかった。反比例して美人の甘美江は小柄だが三味線を抱えてぐっと構えると俄然舞台が「大きい」 から、之はどうしても英二が損であった。軽い貴美江に軽い英二、コンビの本質はそれでよいのだが、そこはそれ、
「出る杭」というヤツで「貴美江でもっている」等と簡単に片付けられまうとして来たのを見事に反撥。最近は英二には英二なりの苦心のにじんだ風格が出てきた。此の調子で押し通せば現在の第一線級たる位の身分動かないであろう。

 と、激賞をしているほか、寄席・芸人マニアで知られた色川武大は『寄席放浪記』の中で、

「なんでも子供のころからの芸人で、そのころすでに彼女が高座で唄うと表の通行人にまる聞こえだったという。そのくらい音量があり、三味線が達者で、タンカが切れて、ギャグの勘もよかった。

 と激賞し、

 喜美江が急死した記事が新聞に出たとき、もう何年も会わなかった当時の友人が手紙をくれた。彼女は自分の青春の象徴であり、東京を代表するものだった、と記してあった。その男は大学を出て以後、遠い故郷に帰ったきりだった。

 と、記している。

 1952年11月27日封切りの映画「明日は月給日」に本人役で出演。当時の批評を見ると、寄席をのぞきに行った主人公たちが見る漫才――らしい。

 1953年1月、帝劇で行われた漫才大会に出演。松浦善三郎は『アサヒ芸能新聞』(1953年2月3週号)の中で「英二、喜美江は例によって喜美江で持つ舞台。喜美江の弾き語りでこの日はじめて手がなる(十五分)」と記している。

 1955年、漫才研究会の発足に携わり、常任幹事に就任。英二は、ヒット、洋容と共に三大幹部の一人で、何かあるとすぐ論争になる幹部として有名だったと聞く。

 1960年6月14日、英二はリーガル万吉より漫才研究会会長職を禅譲され、二代目会長に就任。『産経新聞夕刊』(1960年7月5日号)掲載の『漫才ばなし』に

ここで、リーガル万吉の会長辞任が承認され、あたらしく都上英二が新会長にえらばれたのである。ちなみに、副会長は従前通りコロムビア・トップ、理事長は大空ヒット、理事は松鶴家千代若、橘エンジロ、新山悦郎(えつろう)、リーガル天才、獅子てんや、木田鶴夫、内海桂子、天乃竜二、大江笙子、浅田家彰吾(しょうご)、晴乃ピーチク、大空平児の十二人。会計が春日章(あきら)会計監査がコロムビア・ライト。顧問は林家染団治、隆の家万竜がそれぞれ就任した。

 とある。会長就任後、その手腕を見事に発揮。松竹演芸場における漫才横丁の開設や、若手の起用、漫才大会の芸術祭参加など、多くの実績を打ち立てた。

 特に芸術祭参加の功績は大きく、千太・万吉を筆頭に、トップ・ライト、千代若・千代菊、千夜・一夜、今のナイツ、宮田陽・昇に至るまで数多くの受賞者を送り出した。

 漫才研究会の会長として、長らく東京漫才のスターとして、放送に舞台に八面六臂の活躍を続けてきたが、喜美江は病に倒れ、1962年10月の舞台をお名残に、36歳の若さで夭折した。

 死因は肝硬変。長年愛飲してきた酒が祟った形となった。以下は『読売新聞夕刊』(10月14日号)に掲載された訃報。

東喜美江(漫才師、本名股村喜美江さん)十四日午前三時十分肝硬変のため東大病院で死去。三十六。

 その早すぎる死は、都上英二をはじめ、多くの芸人や関係者に衝撃を与え、上向きになりつつあった東京漫才の人気に大きな傷を残すこととなった。

 正司歌江は喜美江が死んだ日に喜美江の幽霊を見たそうで、『歌江のくるくる心霊喫茶』の中で、

三年ぐらいたってからの事、夜中に、「ごめんください、ごめんください」という声で、ウチは下へおりて行ったんです。当時、犬を飼ってましたが、すごく吠えてました、”今頃、誰やろか?”思いながら、玄関に行ってみると、喜美江姉さんがそこに舞台衣装のまんま立ってるようなので、思わず「姉ちゃんどうしたの?」って聞いてしまったんです。そしたら、一言も言わずにスーッといなくなって、そんな時って、夢うつつなんですネ、寝てるか、起きてるか、わからないような状態で……。フッと気がついたら、ウチ、上で寝てるんですね。でも、犬だけは依然として吠えてました。それから、不安な気持のまんま、やすみましたが、翌日、東喜美江さんが亡くなった。との電報を受け取りました。

 と記している。但し、喜美江没後、「覇気を失った」「酒浸りになった」と有りもしない憶測やゴシップが書き立てられたが、その殆どは誇張やデマだった模様である。なお、英二は喜美江没後も漫才研究会の会長職漫才師の活動を続投している。

 1963年1月から、弟子の東ミヤ子(太平洋子)とコンビを結成。『演劇界』(1962年2月)掲載の『寄席演芸最近』の中で、

 万才の英二・喜美江でおなじみだった東喜美江がなくなったのは、さる十月の半ば、コンビであり、夫婦であっただけに都上英二の落胆はみるもあわれであったが、ようやく心気一転、弟子の東ミヤ子を新しい相棒に、初席の上野鈴本からカムバックした。
 ミヤ子は前名東陽子、三十貫近い超グラマーぶりが、まずコントラストの妙を印象ずける点は強い。喜美江が、関東のミス・ワカナといわれたほど達者だっただけに、芸の上の割り引きはどうしようもない。長い目で育ててやりたい新コンビである。

と、熱いエールを送られたが、3月で解散。柳家三亀松らの斡旋で三味線漫談の玉川スミとコンビを組む事となり、同年3月7日、精養軒で披露パーティーを開催し、11日から浅草松竹演芸場で再スタートを切ったが、トラブルのために1年足らずでコンビ解消。

 玉川スミは自著『ちょっと泣かせて下さい』の中で「都上英二の義妹が嫉妬深く、何かに付けて干渉してくるので怒った」と、都上英二との間にトラブルがあったと弁解しているが、関係者の話ではスミが事ある毎に都上英二を叱り飛ばすので、関係がこじれ、コンビを解散した、ともいう。漫才師には両方の言い分がある。

 1964年2月、東和子とコンビを結成。当初は「都上英二・東和児」といっていたが、1965年3月、東喜美江の3回忌を機に、和子に「二代目喜美江」を襲名させ、「都上英二・東喜美江」を復活させた。

 この時の経緯が『東京新聞夕刊』(1965年3月22日号)に掲載されている。

 漫才の都上英二の前の細君・東喜美江(昭和三十七年十月没)の名を、現在の細君で、故人のまたいとこにあたる和代がつぐことになりそうだ。
 英二・喜美江は「君と一緒に歌の旅……」という「バンジョーで歌えば」のかえ歌をテーマ音楽にした美男美女? コンビで、ことに喜美江の達者な三味線と美声は人気があったが、喜美江が三十七歳の働き盛りに脳出血で急死。残された英二は意気消沈して廃業まで考えていた。ところが長年同じ屋根の下に内でしとして住んでいた喜美江のまたいとこで西〆子の相棒の和子と結ばれ、結婚と同時に新コンビを結成。寄席に復帰したのが昨年二月。
 和子はその後知りあいの入谷の鬼子母神の住職の姓名判断で和児と改名。ところが英二・数児では男同士の漫才と間違われたりするものだからさらに和代と改名しているが、ことしは故・喜美江の三回忌でもあり、三十一日四時から人形町末広で漫才協団(コロムビア・トップ会長)の協力で「東喜美江をしのぶ会」を開くに当たり、きょうだい分の柳亭痴楽から「この機会に喜美江の二代目を和ちゃんにつがしたらどうだ」という意向打診があった。
 英二は「考えてもみなかったことだし、和代と喜美江とは芸風も違うし」と例によって引っ込み思案になりそうだったが、師匠すじの桂文楽、柳家三亀松が「いい話じゃないか。万事われわれにまかしておきな」と胸をたたき、三十一日の会で来客に襲名の相談を持ちかけるという演出が考えられている。
 漫才で二代目を名乗るのは関西ではミス・ワカナがあり、東京でら今のひとりトーキー都家かつ江が一時娘に亡父の福丸を名乗らせたことがあるくらいで珍しいことになりそうだ。

 また、上の告知通り、人形町末広で「しのぶ会」を行った。『東京新聞』では31日となっているが、『キネマ旬報』(5月中旬号)の寄席案内では30日となっている。寄席興行的には、31日を余一会という事から、31日が正しいと思う。出演者は以下の通り。

 ●英二・喜美江をしのぶ会 (人形町末広亭・3月30日・4 時半) コロムビアトップ・ライト、新山悦朗・艶子、東千代・ 菊千代若、内海桂子・好江、(以上漫才)。 桂文楽、林家三平、三遊亭歌奴(以上落語) ほかの出演で、漫才コンビ都上英二・ 東喜美江を偲ぶもの。

 東千代・千代若とは、「松鶴家千代若・千代菊」の誤字だろう。余りにも誤字が多すぎる。

 以降、味のある漫才として、寄席を中心に活躍。ハーモニカとギターの曲弾きを賑やかに聞かせていた。

 和子とコンビ結成後もしばらくは「君と一緒に……」のテーマ曲を使っていたが、晩年は

その日その日を笑いで送る おしゃべりコンビの二人連れ今日も元気に仲良く歌う それでは皆様お楽しみ

 というような物に変わっている。

 1964年7月、諸々の事情と若手の起用という理由から会長職を辞し、副会長のコロムビア・トップにその座を譲った。以降は漫才協団の相談役として、協会の運営や若手の成長を見守る立場へと回った。

 1976年、LP『東京漫才のすべて』の対談に招聘され、経歴を語った。

 1977年11月14日、池袋演芸場へ出演した直後、自宅で倒れ、急逝。最愛の東喜美江の下へと旅立った。

 源氏太郎氏によると、「英二さんが死ぬ直前――前日だったかに電話がかかってきて、最近ハーモニカを吹くのが辛いから、なにかいい案がないか、と尋ねられたので、低くて弾けるキーや対処法を教えた記憶があります。その後すぐに倒れたので、やはり心臓が悪かったのでしょうねえ」との事である。

 以下は『演劇年報1980年』に掲載された訃報。

都上英二

○漫才師
○とがみ・えいじ。本名・股村太三夫
○大正三年十二月一日、福岡県久留米市に生れる。妻・東喜美江とのコンビ で、英二のギター・ハーモニカ、喜美江の三味線による歌謡漫才を得意とした。代表的な演目に、「婦系図」「明治一代女」など。昭和三十七年、妻の死別の後、現在の二代目と結婚してコンビを組む。昭和五十四年十一月十四日、東京・足立区の自宅で急性心不全のため死去。六十四歳。

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