井上耕・今井真理子

井上耕・今井真理子

井上耕・今井真理子

 人 物

  井上いのうえ こう
 ・本 名 井上 浅次
 ・生没年 ??~1981年以前
 ・出身地 関西?

 今井いまい 真理子まりこ
 ・本 名 石森 珠子(後、井上)
 ・生没年 ??~??
 ・出身地 ??

 来 歴

 戦後、「音楽列車」という看板をぶら下げて、松竹演芸場や巡業で稼いだ不思議なコンビである。漫才というよりかは、歌謡漫談、漫謡に近い芸風の持ち主だったそうな。

 広告などで名前を見かける割には、謎が多く、写真も一枚しか確認が取れていない。本名は澤田隆治氏に見せてもらった『関西演芸協会名簿1953年度』からやっと割り出した。

 したがってその前歴も謎が多い。僅かであるものの、真山恵介『寄席がき話』に出ているのが唯一なものか。

 もう一組。これも奥さんの凄いのがいる。もっともこれは漫才ではないが、その構成は会話のない漫才といっていい。
井上耕と今井真理子の”音楽列車”がそれである。ご主人の方は、宝塚劇場のボックスから映画音楽のマスター、さては六十五人の大ショーを引き連れてハワイ全土を押しまくった”スリースリースモークショー”の親方とあるから、その音楽経歴は十分。

 奥さんの真理子があの若さ(に見えるから仕方がない)で、もうご主人と十八年のコンビというから、意気も息もヨク合うわけ。
 せまい寄席の高座にデーンとすえたドラムをたたく真理子。寄席向に編曲された”民謡集”など、新しい今のお客にも古いお客にも大受けである。とにかくきれいである。 

 『寄席がき話』は、1958年8月から、1960年9月まで連載されたものであり、この時の「18年のコンビ」がいつ頃なのか、判然としないものの、「1942年」時点では、コンビを組んでいたのは確かなようである。

 ここでは真理子、と書いてあるが、1950年代の番組表では、井ノ本光子とある。多分同一人物で、改名か何かしたのであろう。

 戦前は大阪に居たようであるが、目下確認中。因み、1953年には大阪で活躍している。

 1956年6月1〜10日には、第31回東宝名人会に出演している。『内外タイムス』(5月31日号)によると、

小ゑん、井上耕・井ノ本光子、米丸、亀松、今輔、志ん生、円歌、一竜・万竜、小さん。

 とあることから、相当の人気はあったのだろう。また、松竹演芸場にもたびたび出ている。

 上記にもあるように、真理子がドラムをたたき、耕が歌やサックスを奏でる音楽尽くしのネタを展開。「民謡集」は、笑いと演奏をうまく混ぜたメドレー物であったという。いわゆる、あきれたぼういず以来の音楽と音楽でネタをつなぐ感じの芸であった、とみるべきだろうか。

 その存在は、演芸界では有名だったらしく、畑違いの立川談志も『立川談志遺言大全集14』の中で、こんなことを記している。

 「音楽列車」なんていうのがあった。「井上耕」、女性の名前は忘れた。舞台にドラムを置いて、井上さんはサックスを吹いていた。サックスで浪花節やお経なぞ演っていた。”これでも楽団を多勢使っていたんだ。だん/\減って二人になった”と。”それじゃあ、吝い屋じゃないか”って、楽屋で大笑いだった。

 談志らしい皮肉とエスプリに富んだ逸話であるものの、談志の記憶に留まるだけの実力と人気はあった、とみてもおかしくないだろう。

 昭和40年代頃に、芸能界から一線を退き、井上耕は興行師になったらしい。『極楽寺芸人芳名簿』の中の興行師の頁に、井上耕の名前が書かれている。1981年以前に没したのは確かであろう。

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