ペコちゃん(太田スセリ・岡野ゆかり)

ペコちゃん(太田スセリ・岡野ゆかり)

 人 物

 太田おおた スセリ
 ・本 名 太田 寸世里
 ・生没年 1960年5月24日~ご健在
 ・出身地 東京

 岡野おかの ゆかり
 ・本 名 岡野 ゆかり
 ・生没年 1963年6月4日~ご健在?
 ・出身地 東京

 来 歴

 ペコちゃんはお笑いブーム末期に活躍した太田スセリと岡野ゆかりからなる女性漫才コンビである。巨体で毒舌の太田が、小柄な岡野をいびり倒す漫才で人気を博した。太田は「オオタスセリ」と改名し、歌手や女優としても活躍。「ストーカーと呼ばないで」の名曲(?)でも知られる。

 太田寸世里は今日も活躍しているだけに資料は相応にある。

 太田スセリとは変わった名前であるが、本名である。「スセリビメ」から名付けたというのだから、なかなか深い噺である。『あんなこんなそんなおんな 昔昔のその昔 第228回』の対談の中で――

 1960年東京生まれ。鎌倉に母ほか家族と住む。本名は同音を漢字で太田寸世里。記紀(古事記・日本書紀)に登場するスセリヒメにちなんで、父親がつけた。なんと、古代史で結ばれたサコチナには、出会うべくして出会った観があるではないか。
「記紀の漢字(須勢理、須世理)は女の子らしくないというので、これに変えたそうですけどね。子どものころ聞いた由来は、やさしくて、かしこくて、勇気のあるお姫様だからって。美しい、が入ってない(笑)。でも、大きくなってから聞いたんですけど、別の意味もあったんです。スセリヒメはオオクニヌシノミコトと駆け落ちするじゃないですか。父と母は駆け落ち結婚だったんですって。それにちなんだんですね」

 1976年、開校したばかりの神奈川県立七里ガ浜高等学校に進学。1期生として3年間過ごした。最初の1年間は神奈川県立鎌倉高等学校の校舎に通い、残りの2年は完成した現校舎に通う――という面白い経験をしている。

 東海大学文学部広報学科に進学し、「東海大学落語研究会」に入会。『あんなこんなそんなおんな 昔昔のその昔 第228回』によると――「中高時代、勉強とスポーツばかりなので変った事をやりたい」という簡単な理由で入ったそうだが、ここで落語の面白さに気が付き、入部。

 入部以来、寄席へ通うようになり「落語家になりたい」と考えるようになる。幸い、新宿末広亭にバイトの募集が掛っていたこともあり、これに応募。採用されて、スタッフとして働くようになる。

 スタッフとして働きながら、プロの実演を聞いている内に「アマチュアの落語を聞く義理もなくなって」、大学に通わなくなり、バイトに精を出すようになる。

 当人は落語家になりたかったそうであるが、女流落語家はほとんどおらず、周りからも反対されたたために諦め、劇団「円」に入団。大柄で特異な風貌から採用されて、舞台に上がるようになる。

 2年ほど女優をしていたが、お笑いの道断ちがたく、悩んでいたという。そこに東海大落語研究会の先輩で演芸作家の元木すみおに岡野ゆかりを紹介され、コンビ結成する事となった。

 相方の岡野ゆかりも東京出身。実家は派手好きな父・母で構成されていたそうで、「のど自慢大好きな父、カラオケ好きな母」という派手な一家だったらしい。スセリ同様、事情あって神奈川に引っ越し、同地で育っている。

 当時の雑誌によると、神奈川県立田奈高等学校へ入学。学生時代は器械体操に凝り、県大会団体で四位を受賞するほどであった。その関係から、写真やグラビアではリボンや身体の柔らかさを披露する事もあった。

 卒業後、高校に進学せずに「劇団フジ」に入団。女優として舞台に立つようになるが、1年で退団している。

 テレビのオーディションや新人番組に出ている内に大木すみおと出会ったらしく、太田スセリを紹介される。

 1983年1月、コンビ結成。「ペコちゃん」と名乗り、テレビ朝日の「ザ・テレビ演芸」の新人コーナーに出演。

 大柄なスセリが、小柄なゆかりを一方的に貶しまくる、ツービートを思わせるようなネタでたちまち注目を集めた。ゆかりに向って「大きなゴキブリが居ると思ったら、ゆかりが寝ていた」「あんたみたいなブスでチビでバカなんて」と貶しまくり、相方がムキになって怒る――というスタンスでウケた。

「ザ・テレビ演芸」で勝ち抜いたのを機に、「期待の新人」として目されるようになり、コンクール番組の常連やバラエティ番組の新人枠として徐々に注目を集める事となった。

 その人気は、太田プロの先輩・山田邦子と並べられるほどで、山田邦子と撮った写真が週刊誌で並んだほどであった。

 1985年2月、山田邦子率いる「パパイヤガールズ」に加入。

 4月、TBS『爆笑・一ッ気家族!』、テレビ東京『お昼だドン』、『全日本そっくりショー』の3本レギュラーを抱えた。

 さらに、「俺たちひょうきん族」「ひょうきん予備校」などにも定期的に出演し、お笑いブーム末期の期待として売り出した。

 1985年6月5日、ペコちゃんのコンビで、「だっこちゃん音頭」を発売。同時収録は「サミアどん音頭」。

 この頃、周りの推薦で漫才協団に入会。数年ほど在籍している。

 1986年2月22日、第34回NHK漫才コンクールに出場。てきさすコンビ、新山絵理・真理などと競い合ったが、選外で終った。ちなみにこれが最後のコンクールであり、永遠にコンクールに出る機会を失った。

 そのパンフレットが手元にあるので引用してみよう。

ペコちゃん
〈太田寸世里〉 大 昭35・5・24、東京生れ。
〈岡野ゆかり〉小 昭38・6・4、東京生れ。
コンビ歴は1年半。身長差30センチの凸凹コンビ。昭和58年1月、「ザ・テレビ演芸」(テレビ朝日)のスタッフに紹介されて、即、コンビとなり、即、同番組の新人コーナーに出場、3週勝ち抜いてチャンピオンに。だから師匠はなし。二人の感性をぶつけ合う体当り型。
趣味は寸世里がジグソーパズル、ゆかりがエレクトーンと新体操。性格は全く反対で仲が好く、目下の悩みは、テレビ局の台本に、名前でなく、大小と書かれること。初出場。

 その後も第一線で活躍を続けていたが、1988年、電撃解散。岡野ゆかりの寿引退が解散理由だったらしい。

 一方、人気絶頂で解散した事もあってか、ゴシップも書かれた。『創』(1988年7月号)の中に――

ペコちゃんは、大田スセリ、岡野ゆかりの劇団出身の二人が、凸凹コンビで五十九年に結成した。さすが劇団出身とあって、芸の基本ができており、将来大いに期待されていたコンビだった。ところが、小さな方の岡野が知らない間に”妊娠”。あわてた太田プロは相手の男性と、すぐさま入籍させたが、”妊娠”の身でドタバタコントはできないと、”解散”させた。太田プロでは「子供を産むまでの一時的解散ですよ」と言うが、関係者によると「そうとでも言わないとレギュラーとして使ってくれた、テレビ、ラジオ局のスタッフに恰好がつかないでしょう。解散ですよ」と言う。

 とある。ただしどこまで本当なのかわからない。

 何はともあれ、岡野は引退してしまい、スセリはピン芸人となった。その後も太田プロを基盤にタレント業をやっており、そこそこの人気を集めていた。

 この頃から、「一人コント」「一人芝居」の方向性を模索するようになり、テレビやラジオの仕事もセーブ。

 2000年、太田プロを離れ、フリーとなった。盛んに一人コントライブ独演会を始める。「未亡人」「メンヘラ」「お局様」など、女性視点ならではの女性像を一人で演じ、シュールな世界観と鋭い風刺や観察で、コメディアンとして認められるようになった。

 2005年、「オオタスセリ」として、弾き語りを始める。コントの中で唄っていた「ストーカーと呼ばないで」が、永六輔に認められ、永六輔のラジオで放映された所、プチブームを生んだ。この時、私家版しか作っていなかったため、発送作業に追われる羽目になった。

 話題が話題を呼んで、個人作業ではどうにもならなくなったこと、また永六輔が激賞したのを機に、ビクターエンタテインメントがこれに目をつけ、メジャーデビューを果たす事となった。

 2006年1月21日、ビクターよりCD「ストーカーと呼ばないで」発売。1万枚以上売り上げるヒットソングとなった。

 2007年、幻冬舎より「デカい女」を発表し、エッセイストとしてもデビューを果たした。

 以来、永六輔の庇護を受け、女流コメディアンとしての地位を確立。永六輔が彼女のリサイタルにゲスト出演したりもしている。

 2007年3月2日には「徹子の部屋」に特別出演。永六輔が「最近見つけた面白い芸人」とわざわざ枠を取らせたほどであった。この時、徹子と永の前でコントと「ストーカーと呼ばないで」を披露。

 この出演をきっかけに「オオタスセリ」と改名。以来、この芸名が続いている。

 改名後はメディア出演と距離を置き、独自の一人芝居やアーティスト活動に力を入れている。その独自の世界観やコント作品は「職人」と呼ばれるほどで、彼女の力量や演技力に惚れる芸人や文化人も多いという。

 2023年現在もシンガーソングコメディアンとして活躍中。

無断コピー・無断転載はおやめください。資料使用や転載する場合はご一報ください。

タイトルとURLをコピーしました