クリトモ一休・三休と第一球

クリトモ一休・三休と第一球

クリトモ一休・三休(左)

クリトモ一休    クリトモ三休

第一球・三球(左)

人 物

 人 物

 クリトモ 一休いっきゅう
 ・本 名 内堀 欽司
 ・生没年 1928年11月13日~1962年5月3日
 ・出身地 東京 新宿

 クリトモ 三休さんきゅう
 ・本 名 近馬 一正
 ・生没年 1933年10月22日~2023年5月17日
 ・出身地 東京 日暮里

 だい 一球いっきゅう
 ・本 名 畦元 直彦
 ・生没年 1932年1月1日~ご健在?
 ・出身地 満州 旅順

 来 歴

 クリトモ一休・三休と第一球は戦後活躍した漫才師。リーガル千太・万吉門下の俊英としてスタートし、漫才コンクール受賞までこぎつけたが、「リーガル」の名を貰う前に、一休は三河島事故で急死を遂げた。第一球はその後の相方で、今日のハウゼ畦元。三休は地下鉄漫才で一世を風靡した春日三球である。

一休の来歴

 一休の出身は新宿二丁目。生家は皮問屋をやっていた――と『寄席がき話』の中にある。青空うれし氏の話では、「幼いころ、疎開かなんか知らないけど、千葉かどこかの海辺にいたって言ってた」。

 日本大学経済学部の卒業生で、天理教の教師という漫才界きっての変わり種で、『芸能画報』(1959年2月号)に、

 一休 ①内堀欽司②昭和3年11月13日③東京④日大経営科卒後天理教本部修養科を出た後33年漫才師となる。 

 とある。牛込大教会の教誨長に就任して、天理教の教えを説く日々を過ごしていたが、結核を患い、世田谷の千歳烏山にあったサナトリウムに入院。

 療養生活を送っている最中、慰問にやって来た青空うれし(当時、隼飛郎)と面識を得、漫才師になる術を尋ねてきたという。

 当のうれし氏曰く、「今でも覚えてるよ。3月3日、ひな祭りの演芸大会に呼ばれた時に会ったんだな。その時、賞状をもらったんだよ。その時、漫才師になるにはどうすればいいか、どんなものか、って色々尋ねられたんだ。それからしばらくして漫才師として訪ねてきた」。

 間もなく結核が寛解した為、退院。後遺症か何かで、背中が少し曲がっていたそうである。ノリロー氏いわく、「こう近眼用の眼鏡をかけてて、無口で、大人しくて漫才やるってタイプじゃなかったね。背中が少し曲がっていることだけは、すごく印象に残っているけど……」。

 1958年、漫才師になるべく、リーガル万吉の元を訪れた。当初は門前払いを受けたが、その熱意にほだされ、弟子入りを許される。

三休の来歴

 三球の出身は日暮里。生家は元々船大工の家柄で、祖父の代まで舘山で船大工を営んでいた。後年、船大工が廃れた為、東京に出て大工の棟梁になっている。母親は理容室を営んでいた。

 幼い頃から日暮里で育ち、戦時下では大空襲を経験している。上野高校を卒業した後、製薬会社に就職。

 営業マンとしてリンゲル液を売っていたが、すぐに嫌気が差し、照明器具会社へ転職。しかし、ここも待遇が悪い上に料金の滞納が続出した為に退職している。

 母親と栗友亭の席亭夫人が知人だった事から栗友亭に出入りするようになり、前座や司会をやり始める。

 この司会は、珍談・失敗談が多く、東喜代駒の漫談つかまえて「長々とご退屈様でした」といって中村玉千代にどやされたり、出演者の名前を間違って叱られるなど、逸話を聞いた。

 1958年、リーガル万吉に弟子入り。本人が『東京漫才列伝』で語った話によると、秀才型の一休のおまけとして弟子入りが許されたという。これもまた自嘲か。

 同年4月、兄弟弟子同士でコンビを組み、「クリトモ一休・三休」と名乗る。クリトモの名は初舞台を踏んだ寄席「栗友亭」から着想を得たもの。以来、栗友亭を中心に漫才の修行を続けることとなる。ほぼ同期に、新山ノリロー・トリローがいる。

 ノリロー氏曰く、「まあいっちゃ悪いけど、これがライバルか、って思ったよね。三休は地味だし、一休さんはもっと地味だよ。なんと風格のないコンビか、って思っていたら、漫才コンクール優勝しちゃって、なにくそっていう形で、奮起することとなった。その前後からライバルって陰で言われるようになったけどねえ。その後、一休さんが死んじゃって、ああ惜しいと思ったが、これで俺らの天下だ、なんて思ったりしたよ。それが三休の方があんな売り出すんだから、世の中はわからないものだねえ」。

 師匠譲りの上品で、瑞々しく歯切れのよい話術を身につけ、若手のホープとして注目を浴びる事となった。今日でもLP『東京漫才のすべて』で、『僕の引っ越し』を聞くことができる。

 1960年10月開催の第8回NHK漫才コンクールに出場し、三位。翌1961年3月の第9回NHK漫才コンクールでも三位。

 1962年3月、第10回NHK漫才コンクールで優勝。この時、特別賞を授賞したのは三球と結ばれることとなる春日淳子・照代であった。この優勝で、一躍実力派として認められ、師匠からも近々「リーガル」の名を許される話も出た。

 仕事も収入も増え、東京漫才の一角を担う若手として活躍し始めた矢先、三河島事故に巻き込まれ、急逝。

 事故死する前後の話は『朝日新聞』(1983年1月12日号)掲載の『漫才師たち わだちの詩』に詳しい。以下はその引用。

  その夜、二人は横浜の舞台を終え、三河島駅まで帰ってきた。駅の近くに住んでいた三球は「うちに寄ってけよ」と引き止めた。一休は松戸の自宅に直行するといって、珍しく断った。三球が下車して間もなく、事故は駅構内で起きた。三球は走り回る救急車のサイレンで知った。パチンコ屋で球をはじきながら、てっきり後続電車と思っていた。
 知らせで三球、金子がそれぞれ荒川区荒川三丁目の浄正寺に駆けつけた。一休は白い棺に入っていた。紺の背広が血で茶色になっていた。身につけた手帳には、仕事のスケジュールがびっしり書き込んであった。二ヶ月前、NHK漫才コンクールで優勝。これからという時だった。

葬儀の折に師匠のリーガル万吉が「リーガル一休」の名を許す、と弔辞で読み、弔問客を感動させた。戒名は「久遠院法悟日欽信士」。

第一球・三球

 相方の死を受け入れられぬまま、漫談や司会などを行っていたが、大空平路の斡旋で、畦元直彦とコンビを結成、再スタートを切った。

 はじめは一休・三休であったが、後年、「第一球・三球」と改名する。

 青空うれし氏いわく「当人から聞いた話じゃ球場で仕事があって、行ったら『第三球』になってた、って」。然し、畦元氏は「芸名は玉川一郎が考案して名付けてくれた」といっていた。諸説ある。

 相方の第一球は、今も深谷にご健在。

 本人から聞いた経歴では――父は獣医部将校というエリート。当時日本統治下にあった満州旅順関東町病院で出生。

 生まれて間もなく父の転勤で東京へ引っ越し、同地で育つ。幼い頃、二・二六事件の動乱や東郷平八郎の国葬を目の当たりにするなど、目まぐるしい日々を過ごした。

 6歳の折に、四谷第六学校に入学。入学後、キングレコードが展開していた合唱団、長谷山ひな菊会に入会、芸能活動をはじめる。キングレコードから児童合唱のレコードを吹き込んだ事もあった。

 また、この頃からピアノを独学で勉強するようになる。小学校高学年の時に太平洋戦争が勃発し、合唱どころでなくなった為、芸能活動は一時ストップ。

 親の都合で、当時軍人の子女を主に受け入れていた旧制山水中学(桐朋学園の前身)に入学。軍国教育下の青春を過ごしたが、間もなく親の転勤で京都に引越しした為、自身も京都一中へと引越した。

 1945年、終戦を迎え、獣医部将校だった父は失職。様々な家庭の事情から祖父のいる鹿児島県南さつま市へと転居。鹿児島に戻った背景にはいろいろな事情が絡んでいたという。

 同地の加世田中学に進学するが、学制改革によって高校卒業という形が取られたそうで、「旧制中学卒業扱いとして学校から卒業するか、高校進学という形で編入するか、という変則的な選択をさせられましたね」。

 卒業後、立教大学社会学部に合格し、上京。この頃からラジオ番組に出演したり、舞台芸術学院に入学して演劇のイロハを学んだ。

 1953年、新宿セントラル劇場に入団し、ストリップの幕間のコントや軽演劇に出演。同座には売れる前の脱線トリオ(八波むと志、南利明、由利徹)や須賀三郎こと大空平路などがいた。この平路とは、長年にわたる交友関係を築き、当人いわく、「いろいろな意味で大恩人です」。

 拠点であった新宿セントラルが火事に見舞われた事により、転向を余儀なくされた。友人の縁故を頼って浅草の喜劇、曾我廼家五一郎一座に入り、「曾我廼家蝶太」と名乗る。ここで、数年ばかり芝居をしていたが、五一郎劇団の縮小と放送業界への進出に伴い、退座。

 その後、暫くニッポン放送のラジオ番組『アッちゃん』(田中秀幸主演)や文化放送『フクちゃん』(中尾隆聖主演)などに出演。声優としても活躍したが、事情あって、東京を離れる。

 縁故を頼って、栃木県西那須にある劇団「らくりん座」に所属し、学校まわりの日々を送ることとなった。

 間もなく、セントラル時代の知人、須賀三郎――大空平路の紹介で、相方を失ったばかりのクリトモ三休と出逢う。二人共に意気投合する所があり、1962年末よりクリトモ三休とコンビを組み、「第一球・三球」と名乗る。

『朝日新聞夕刊』(1963年3月11日号)に『再出発する漫才二組』という記事があり、その中で一球・三球について触れたものがあるので引用する。

 一休さんがなくなったあと「一休さんを継ぎたい」という人がたくさん来たそうだが、だれも気に入らない。そんなとき、たまたまズブの素人で一目で彼のおめがねにかなった男が登場した。年こそ一つ上の三十一歳だが、新劇にいたこともあるし、音楽の才もある、なによりもへんに漫才くさいところがないのがいい――というわけで、昨年末からコンビを組んだ。
1月は大友柳太朗一座と東北へ10日間、司会や漫談をやった。二人の名付け親の玉川一郎さんが台本を書き、この2月も上野・本牧亭の練習場で、新作「110番」をやって好評だった。この新コンビのこれからは明るい。

 以降、一休とはまた違った奇抜な味わいのある漫才で注目を集める。

 1964年3月、第12回NHK漫才コンクールにも出場し、『発明発見物語』というネタで次点を射止めている。畦元氏曰く、「自信作でした」。

 第一球こと、畦元氏に伺った所、「三球さんには申し訳ない話ですが、コンビ組んでいた当初はなんでこんなに面白くないのだろうか、と思いましたね。失礼ながら売れるなんて思いませんでした。それが後年あんな立派な漫才師になるのですから驚いたものです」。

 コンビ仲も悪くはなかったそうであるが、張り合いがなくなりつつあり、有耶無耶のうちにコンビを解消することとなった。

春日三球・照代の結成まで

 1964年頃、「一球・三球」のコンビを解消。一球は、「大井海彦・山彦」としてコンビを組んだり、先輩の大空平路とコンビを組みなおした。これは別項で取り上げます。

 さらに大空平路とのコンビ解消後は、アコーデオン漫談家に転身。私淑するアコーディオン奏者・アルフレッドハウゼと本名の「畦元」から「ハウゼ畦元」と改名し、平成まで活躍を続けることとなる。

 一方三球は、特に誰と組むわけでもなく、地方回りの司会や演劇の舞台出演などで細々と活動を続け、生計を立てていた。

 1963年5月15日、麻雀仲間であった春日照代と結婚。コンビ解消と結婚を機に、俄に夫婦漫才結成をする流れとなった。

 1965年2月11日、なりゆきながらも春日照代とコンビを組んだ。

 この結成を聞いた師匠のリーガル千太・万吉は激怒し(リーガル一門では男女コンビを認めなかった為)、三球を破門にするか否やという騒動にまで発展しかけたが、持ち前の機転と性格で有耶無耶にしてしまったというのだから、すごい。

 以降、春日三球・照代として売り出すわけだが、これは別項を立てる事にする。こちらを参照にしてください。

 その三球も、2023年5月17日、持病の胃潰瘍の出血が元で急逝した――と6月18日付でニュースが入った。

 うれし氏によると「もう2、3回近く脳梗塞やって入退院していた」との事であるが、最後は殆ど高座に出る事なく、後妻さんや介護士に囲まれて療養生活を送っていた――という。享年89歳。

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