浅田家章吾・雪恵

浅田家章吾・雪恵

章吾・雪恵

  人 物

 浅田家 あさだや 章吾しょうご 
 ・本 名 森田 国雄

 ・生没年 1907年4月23日~1980年代?
 ・出身地 東京

 浅田家 あさだや 雪恵ゆきえ 
 ・本 名 伊藤 安代(後年、渡辺安代)

 ・生没年 1922年9月20日~2000年3月26日
 ・出身地 埼玉県

 来 歴

「浅田家彰吾」「浅田家省吾」という表記もあるが、ここでは「関東漫才斬捨御免」の記載に従った。

 章吾は元々、四代目春風亭柳枝(華柳)の門下で春風亭若枝、柳若と名乗った噺家であったそうだが、『芸能画報』(1954年2月号)を読むと、

大正7年大阪落語桂小南に入門

 とある。どちらが正しいのか断定できないが、小南に入門後、華柳門下へ移籍したと見るのが妥当か。

 1933年頃漫才に転向し、1935年には早くも「朝田家章吾・淳子」として、東京漫才の人気者の一組に数えられている。

 戦時中は早くから召集され、長いブランクがあったという。

 相方の雪恵は幼少の頃から浅草の舞台に立っており、後に漫才に転向し、少年漫才「砂川捨坊・荒川八千代」として浅草の人気者だった。戦時中は「朝日家鶴千代」と名乗っていた。

 戦後、復員してきた章吾が、鶴千代を誘ってコンビ結成。当初は「浅田家章吾・朝日家鶴千代」という名前であったが、後年統一して「浅田家章吾・幸枝」となった。

 二人がコンビを結成した時期は確定できないが1952年頃には落語芸術協会に所属をして、定席に出ている事が確認できる。

 三味線を用いた音曲や踊りを主とし、「三人上戸」や「長短かっぽれ」などを得意としていた。『関東漫才斬捨御免』に、

此の人の「長短」――踊りのカッポレをひねってわらいにしたもの――はまとまっている。しかし最近は余り出さずもっぱら「三人上戸」を踊っている。一般には「長短」の方が面白く爆笑も来るのだが時間の関係か。

 また、立川談志もその芸について触れており、『立川談志遺言大全集14』に、

「浅田家章吾・雪江」。落語家上がりでしょう。一度、落語『景清』を聴いたことがある。結構なものでした。しっかりした口調で、落語家口調の漫才で「三上戸」というのを演っていた。「何をくよくよ川端柳」を唄いながら、泣きながら唄い踊るのと、怒りと笑いと、三つ演ってましたっけ。

 とある。踊る漫才としてそこそこ人気があった模様。

 元々は「浅田家章吾・幸枝」といっていたが、1953年10月に「浅田家雪枝」と改名している。さらに「雪恵」と改名している。

 戦前の「関東漫才協会」をはじめ、漫才研究会設立にも関与。東京漫才の幹部としても活躍したが、1960年頃、雪恵が芸術協会の会長であった春風亭柳橋と再婚した事もあって、コンビ解消。

 色物と芸術協会の会長が結婚する事は相当の反発があったそうで、これがコンビ解散の一因にもなったと聞くが、真偽の程までは判らない。その頃の事情は、『新宿末廣亭うら喫茶楽屋』に詳しいので引用する。

 思いだした。漫才の省吾・幸江さん。幸江さんっていうのが帯を胸高に締めたおばさんでさ、「なんでこんな色気のない人が漫才やってんのかな?」と思ってた。それを省吾さんが躍起に なって三味線をやっと覚えさせて、「やれやれ、やっと一人前になって一本になった」と思ったら、幸江さんに柳橋会長の手がついちゃって、柳橋先生の後妻さんになっちゃった。もちろん、幸江さんもけっこうな年よ。会長の趣味が悪いんじゃなくて、たまたま先妻さんが亡くなったすぐあとで、タイミングよね。みんながよく言ってた。「どうして両協会会長とも、漫才 の片われいじっちゃうんだろうね。もうちょっとロクなもんがいるだろうに」って。
 かわいそうに省吾さんはすぐに寄席を辞めちゃった。それ以降、ピンで出たという話も聞いてはいませんね。相方をつくったっていうのを聞いたような聞かないような……。
 その当時、うちにいた表方の五十嵐が、暮れに必ず鮭とお供えを大幹部のとこだけ持って行く役目だったんですよ。あの頃、荒巻鮭は高価だから河岸から取り寄せて、うちに何十本って来てましたよ。うちのおやじはそれをやってました。
 その荒巻鮭と、左楽の祖父の時代から決まりだった谷中の岡埜さんのお供えを持って、表方 が手分けをして大幹部のとこへ運んでたわけね。それで、五十嵐が柳橋会長のとこへ行ったら、 「あらあ、ご苦労さん」って幸江さんが出て来たって。それでヒョッと足元見たらコールテンの赤い足袋履いてたんだって。「もう許せない」って、五十嵐がよく言ってましたよ。
 「困るよね、こないだまで呼び捨てにしていたのが、いきなり会長のおかみさんになっちゃって、どう呼んでいいかわからない。あいつが出て来るの、俺は嫌だから、二度と行きたくないから、あそこの家だけは前座連れてって、前座に入れさせるんだ。嫌だよなァ、芸人がおかみさんで出て来た、それにご苦労さん!ってポチもらうの嫌だよ」って、よく言ってたわよ。

 その後、章吾は昌美、糸路(後に鶴千代と改名。本名・森田ツル)とコンビを組みなおした。鶴千代は章吾の嫁か。

 ただ、雪恵はもうしばらく漫才を続投しており、単なる寿引退ではない模様か。因みに1963年頃には、森信子と、その後は林家染壽と組んでいたりする。

 章吾はその後も芸術協会に所属し、寄席に出演していたが、徐々に出番が浅くなったこともあり、1967年頃、芸術協会を退会した。源氏太郎氏によると、晩年は條アサ子とコンビを組んでいたそうで、キャバレーなどを回っていたとの事である。

 彰吾の没年は不詳であるが、1981年付の『芸能人物故者芳名簿』には名前が出ていないので、その頃はまだ健在だったか。

 一方、雪恵は長らく柳橋の菩提を弔い、晩年まで矍鑠としていたという。義理とはいえ、子供にも恵まれたのでそこそこの後家生活を過ごせた模様である。没後は柳橋と同じく光が丘の「仲台寺」に納められた。

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