コメディ・ポコ・ア・ポコ
(上村敏子・小柳菅子)
右・上村 左・小柳
人 物
上村 敏子
・本 名 上村 敏子
・生没年 1946年3月16日~??
・出身地 奈良県 奈良市
小柳 菅子
・本 名 小柳 菅子
・生没年 1947年11月21日~??
・出身地 東京?
来 歴
コメディ・ポコ・ア・ポコ(上村敏子・小柳菅子)は、演芸ブーム時代に活躍した女流コントの二人組。多摩美術大学付属芸術学園で演劇を学び、新劇女優を目指していたが志変わってコントに転身。「女コント55号」と呼ばれるほどの人気を博したが、2年でコンビを解消した。
華々しく売り出しただけあって、経歴は当時の娯楽雑誌に結構多く出ていたりする。『週刊明星』(1969年11月9日号)の特集がよくまとまっているので、これを引用しよう。
本名は上村敏子・小柳菅子という2人。まのぬけた下町のかみさんなんかやるのが上村、子供や赤ちゃんをやるのが小柳。
この2人、去年多摩美術大学付属芸術学園を卒業。2人とも新劇志望でここで3年間勉強したが、去年の9月、コンビを組んで”女ふたりの会”コメディ・ポコ・ア・ポコとして発足。
子どものころからコントを書くのが好きだった2人は、自主公演のためにセッセとお金をため、今年8月に旗揚げ公演をした。
ゆくゆくは女コント55号?といったら、「いえ、新劇とコントの中間をめざしているんです」となかなかうるさい。上村は昭和21年3月16日生まれ、小柳は昭和22年11月21日生まれ。
補足をすると、上村の実家は奈良市で土産屋を経営していたという。二男五女の七人兄妹の末っ子で可愛がられた。
上村の母、上村文永は奈良で助産師をやっていたが義侠心あふれる性格だったそうで、家庭の貧しさも顧みずに近所を駆けずり回った名物助産師であった――と、『週刊読売』(1971年12月10日号)の記事にある。
なかなかのインテリだったらしく、奈良県女子大学附属高校を卒業。地元の銀行に就職したが、「女優になりたい」と志して、奈良を飛び出し上京したという。『週刊サンケイ』(1972年12月1日号)の記事に――
奈良女子大付属高卒の銀行勤めを経て上京、多摩美術大学学園で演劇を勉強した……
とあるのが確認できる。
一方、小柳の経歴は謎が多いが、こちらも末っ子だったという。児童雑誌『小学6年生』(1969年12月号)の中に――
上村さんは二男五女の七人きょうだいの末っ子。小柳さんは、三人きょうだいの末っ子と末っ子どおし。
とあるのが確認できる。高校卒業後、女優を目指して多摩美術大学学園に入学。ここで知り合った同期が上村であった。学年だけで言えば2年離れていたが、仲の良い友人となって一緒に行動するようになった。
1969年3月、上村の母・文永が肝硬変を悪化させ、死去。
母が亡くなる前後で学園を卒業。敵役や大臣役で人気のあった新劇俳優・小沢栄太郎に弟子入りを志願するも断られる。
「新劇が駄目ならお笑いだ」と二人はコツコツと金を貯めて、1969年8月14・15日、銀座東芝ホールで「女ふたりの会」で旗揚げ公演。
200人程度しか客が来なかったが偶然TBSテレビディレクターの目に止まり、「タレントとしてテレビに出ないか」とスカウトされる。
ディレクターの骨折りで、10月4日、TBSより『ポコ・ア・ポコのお笑いスタジオ』が開始。これが一躍人気番組となり、「女コント55号」と評されるまでになった。
身長150センチ足らずの小柳が赤ちゃんや子供に扮し、157センチながらも恰幅のある上村がママ役や女将役でズバズバ切り捨てていく凸凹コントで人気を集めた。
お笑い重視の低俗なコントが増える中で、新劇の写実主義を加味した真面目な演技や不条理演劇などに影響を受けたコントで、独特の人気を集めることになる。
また、「プロダクションに所属すると芸ができなくなるからフリーを貫く」「先に結婚したほうが売れ残りの方を5年間面倒を見る」「別れたら小柳は日本の女チャップリンを目指し、上村は台本作家になる」という約束や公約でも評判となった。
全盛期の人気は素晴らしく、テレビ番組をいくつも掛け持ちしたほか、『週刊平凡』『週刊読売』『週刊サンケイ』などの人気雑誌や、『読売新聞』『朝日新聞』などにも取り上げられるほどであった。
人気を維持し続け、「次世代の女芸人」と期待をされた。
1971年3月コンビ解消。小柳の寿引退が理由らしい。また、「子供向けのコントやお子様が出るコントばかりやらされるので嫌になった」ともいう。
一人残された上村は、田辺一鶴・夕鶴の新講談に影響を受けて、田辺一門のマネージャーとなった。『週刊読売』(1971年12月10日号)の記事「私はポルノ講談の台本書き」に――
ところで、この上村敏子さん、台本を書いているだけではない。
ことしの三月「ポコ・ア・ポコ」解散を機に、一鶴一門のマネジャー役までひきうけ、公演についていくことから興行主との交渉、売り込みからギャラの授受、みんな彼女がやるようになった。
とある。
その傍らで、「SM芝居」やセックス官能美を振りまくコントや講談を執筆した。
1970年代後半まで活躍している様子が確認できるが、上村も寿引退した模様か。