大空マナブ・中村ハマ子

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大空マナブ・中村ハマ子

 人 物

 大空おおぞら  マナブ

 ・本 名 志賀 学
 ・生没年 1915年3月14日~1987年11月22日

 ・出身地 大分県 久住町

 中村なかむら ハマ子

 ・本 名 志賀 ハマ子
 ・生没年 1920年~2016年5月

 ・出身地 神奈川県 横浜市

 来 歴

 戦前・戦後40年にわたって、大分・楽天地で活躍を続けていたという珍しいコンビ。戦前戦後の空襲や食糧難、マナブの故郷で疎開――という事情こそあったものの、元祖・ローカル漫才師の一組として数えていいかもしれない。

 また、今日、東洋館や国立演芸場で活躍している「大空なんだ・かんだ」の大空かんだ氏の両親でもある。もっともハマ子は後妻で、かんだ氏とは血縁関係がないのだが、両人ともに親子関係はよく、この項目は、氏への取材で明らかになったものである。

 マナブの出身は、大分。実家は竹屋をやっており、竹細工や竹ひごを作る職人だったという。先祖はそこそこの名士だったというが、かんだ氏もよく知らないとのことであった。実家では、主に母親(かんだ氏の祖母)が仕切っていたともいう。

 当人も職人の道に進み、ある程度の仕事を覚えたが、幼いころから芸事が好きで、芝居や演芸会ばかり見に行っていたという。

 1938年、長男・正紀誕生。これが後年の大空かんだである。生後間もなく両親の仲がこじれ、父親が上京してしまったため、彼はしばらくの間、祖母に育てられることとなる。

 1940年、同郷の先輩で面識のあった大空ヒットを頼って上京。大空一門に入り、大空マナブと名乗る。師匠について、吉本興業に入社。ヒットからギターとハーモニカを習って、これを十八番にした。

 後年、大空ヒットが吉本興業と喧嘩をして松竹に移籍したため、師弟で所属事務所が違うという事態に陥った。もっとも師弟関係は続いており、仲はよかった。

 1941年、朝日日の丸ショーで踊り子をやっていた中村ハマ子と結婚し、夫婦漫才を結成。

 お相手のハマ子は、旧姓・中村ハマ子(そのまま)。

 父親は郵便局の職員であったが、幼い頃、母に死に別れ、面倒を見切れなくなった父親によって、叔母に預けられる。

 叔母は横浜で興行社を営んでおり、芸能界に強い人であった。早くから日舞や音曲を仕込まれ、八歳で初舞台を踏む。以来、舞踊や三味線のけいこに励みながら、芸人の道を歩み始める。

 長年、叔母の芸能社の仕事を受けていたが、大きくなって上京。当時人気を博していた漫才師・朝日日の丸率いる「日の丸ショー」に入団し、踊り子として活動している所へ、大空マナブと知り合う。

 その出逢いの背景には、マナブの師匠のヒットと朝日日の丸が同じ松竹に居て仲が良かったことや、日の丸ショーの応援でマナブが出入りするようになった事があったという。

 1943年頃、大分にいた正紀を上京させている。ちなみに、仕事や巡業に出かける際は、東若丸・君子に預けていたという。この人の二人の娘が、東喜美江である。そのため、かんだ氏は幼いころから、喜美江と面識があったとか何とか。

 戦時中、空襲の激化や諸事情により、一家そろって、故郷の大分へと疎開。

 敗戦後、東京に戻ることなく、九州や地方巡業で生計を立てることが多くなった。九州の方が知り合いが多く、よしみの芸能社も多かったことがあるのではないか――と、かんだ氏の推測であるが、今となっては真相は闇の中である。

 ただ、九州の芸能界とのつながりが深かったのは事実で、大空ヒットを九州に呼んでいる他(ヒットも九州だが)、九州浪曲界の親玉と謳われた桃中軒如雲に、倅を弟子入りさせるなど、人脈もあった。

 1955年、規模拡大を進めていた遊園地・別府ラクテンチの専属となり、同劇場に出演。以来、30年近く劇場に出演し、ラクテンチの名物芸人として活躍した。相変わらずハーモニカを吹き鳴らす芸で人気を博していたという。また、専属の関係で温泉に入り放題で、温泉好きなマナブからすれば極楽であったという。

 そのため、その半生のほとんどを大分で過ごすこととなり、大分に居を構えた。ハマ子は、天津流の免許を持ち、自宅で舞踊の先生をやって、生計の手助けにしていたという。

 転居後、二人の間に子供たちが生まれ、みな立派に成長した。一人はテレビ局に入ったという。かんだとハマ子は義理の親子という関係にあったが、ハマ子は実子以上に彼をいつくしみ、芸人として売れるまで、あれこれと手助けをしてくれたそうで、かんだ氏もまた孝行に努めた。実の親子でも嫌な関係に陥る人物が多い中で、ここまで美しい関係を保てるのは、珍しいといえるであろう。

 晩年は息子の大空かんだを筆頭に子供たちも立派な大人になった事もあり、穏やかな日々であったという。息子たちが放送業界に強かった事もあってか、大空マナブはま子を取り上げたニュースや地方番組も作られた程であった。

 長らくラクテンチの夫婦漫才として、かくしゃくと活躍していたが、1987年、マナブが体調を崩し、間もなく死去。その臨終に、息子の大空かんだ氏は立ち会う事ができなかった。しかも、臨終の報を受けたのが、結婚式の司会をする直前のことで、この時ばかりは緊張と悲しみでどうしようもなかった――と伺った。

 夫の死後、ハマ子は漫才界から足を洗い、息子たちの世話になる隠居の身となったが、90過ぎても矍鑠していたそうで、逆に倅たちに小遣いを上げるような人だったという。かんだ氏によると、「2016年5月に亡くなりました」とのことである。

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