荒川芳夫・千枝子
人 物
荒川 芳夫
・本 名 小澤 伊三郎
・生没年 ??~戦後
・出身地 ??
荒川 千枝子
・本 名 小澤 サト
・生没年 ??~戦後
・出身地 ??
来 歴
浪曲漫才を得意とした夫婦漫才師。
前歴は不明。名前を見る所、上方漫才の荒川芳丸の門弟出身のようである。荒川小芳とは兄弟弟子という間柄になる。
荒川芳夫は東京漫才師としては古く、1920年代後半の『都新聞』の広告などに、芳夫という名で出演している。ただ、同名の人物もいたため(東雲芳夫など)、どこまでが芳夫なのかは判らない。
1920年代後半の顔ぶれに居る芳夫をこの荒川芳夫と仮定すると、千枝子と組む前は荒川利夫と組んでいた。兄弟弟子だった模様。
『都新聞』(1927年9月9日号)の広告に
▲壽座 万歳芳夫、利夫、金八、小花、花子、花輔加入
利夫とのコンビの後は、同じ関西出身で、後年東京漫才になった、玉子家源六、玉子家源一と組んでいた時期もあり、『都新聞』の広告にも、
▲牛込會館 一日より五日間
花輔、デブ子、喜代駒、駒千代、千代次、染春、源一、市太郎、源六、芳夫、利丸、小徳等の萬歳に小柳連も加入
(1928年9月1日号)
▲新富演藝場 六日より五日間正次郎、千代次、五九道、春之助、安子、とも江、芳夫、源一、染団次等の萬歳競演會
(1929年9月6日号)
とあるのが確認できる。他の漫才師同様に相方を定めず、組んでは解散を繰り返した模様である。その後、千枝子と結婚し、夫婦漫才を結成したようであるが、詳しいことは判らない。
1930年代中盤より、顔ぶれに出てくるようになる。浅草の劇場を中心に活躍した。
1945年、坂野比呂志を座長とする一座に参加して、満州慰問へ随行。
ものすごい余談であるが、この慰問の際に同行した古今亭志ん生と三遊亭圓生は、石渡という家に厄介になったらしく(それが渡満する前後関係は不明)、圓生はそこの家の子を可愛がった。この子が後年大きくなり、森章二という役者になった――と、森氏本人から伺った。
当地で邦人のために演芸会を開催し、感謝された胸が坂野比呂志『香具師の口上でしゃべろうか』の中にあるので、引用。
満州へ一緒に行くのは噺し家の、名人古今亭志ん生(このとき志ん生五十七歳)と、ネタは豊富随一の 三遊亭円生(志ん生より十歳下)、それからトーキー時代になってから新講談に転向した、活動写真の弁士、すなわち活弁の大先生で、志ん生にも円生にも一歩も譲らない国井紫香。それに漫才の荒川芳夫・千枝子夫妻、そして全部の束ね役が、団長坂野比呂志と小林美津子の漫才――こういった連中が、 心を新たに集まった。
「お懐かしゅうございます。十年前のあのときは、可愛がっていただいたのに、ご迷惑をおかけして。でもご安心ください。おかげでいまでは一人前になりました。今日この公会堂へ来るまえに、 吉野町の、忘れられない明治製菓にも寄ってまいりました。マスターも奥さまも、双手を挙げて歓迎 してくれました。涙が出て涙が出て、口がきけないほどでした。そしてこの公会堂。沢山の花輪が、生花が、ズッと並んで僕を待っててくれました。そのかたがたが、あすこにも、ここにも、向うにも、二階にも、はっきりと見えるんです。ありがとうございます。みなさまお元気でなによりです。今日を第1日として、現在の日本の、選りすぐった一流中の一流という最高のメンバーで、あえてどことは申しません、日本人のあるかぎり、全満州を命がけで慰問してまいります。その魁けの今日今宵、一流人の誇りにかけて、全員熱演いたします。なにとぞお楽に、お楽しみくださいませ。そしてあの日の凡ちゃんが、いま改めて坂野比呂志。あの日は追放に泣いた僕、生まれ変わって批い舞台をつとめます。どれもこれも総員日本の一流人。最初に荒川芳夫・千枝子の漫才からお送りしましょう。では、荒川芳夫・千枝子どうぞ」
それからは拍手につぐ拍手、笑いと感動が爆発して、終ったときには十一時を過ぎていた。
その満州で終戦に遭遇。ソ連軍の侵攻と地元民の暴動の中を逃げ惑った。シベリア抑留はされなかった模様である。
最終的には何とか奉天に辿り着いた模様で、『演藝新聞』(1946年8月20日号)に、
在満演藝人何れも健在
終戦前満州に在つた藝能人も少くないが彼らの消息がこのほど奉天から歸国した邦人によつて多少判明したそれによるとその後奉天に集った藝人は
浪曲の早川三平、万才の荒川夫妻、曲藝の鏡味時次、東寶俳優の中村彰……
とあるのが、確認できる。
戦後もしばらくは、松竹演芸場などに出演している様子が伺えるが、漫才研究会設立を境に、消息が辿れなくなる。どうしたのだろうか。
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