東和子・西〆子

東和子・西〆子

東和子・西〆子(左)

さえずり姉妹(右から、京美智子・〆子・西美佐子)

二代目 東喜美江・都上英二

人 物

 人 物

 あずま 和子かずこ 
 ・本 名 塚田 和(後に股村和)

 ・生没年 1928年1月25日~1985年8月23日
 ・出身地 北海道 函館市

 西にし 〆子しめこ 
 ・本 名 安藤 〆子(後に尾形〆子)

 ・生没年 1932年1月24日~1986年10月6日
 ・出身地 愛知県 名古屋

 来 歴

 戦後、「〆和コンビ」の愛称で慕われた女流漫才師。幼いころから舞台に立っていただけあってか、女流には珍しく、10年近くコンビが続いた。西〆子の親は松鶴家千代若・千代菊、東和子のはとこは東喜美江、と隠れたサラブレッドでもあった。

東和子の前歴

 東和子の出身は北海道。はとこは、東京漫才の大スターとして君臨した東喜美江。喜美江の関係は母方のはとこである(和子の母・ムメと喜美江・母キエが従妹同士。ひいては彼女たちの親同士が兄弟)。

 漫才師になる前は看護師をしており、

 和子が北国系美人の麗姿? を白衣に包んでの日赤看護婦経由……

 と真山恵介『寄席がき話』の中にある。

 ご遺族の証言によると、看護師時代は北海道で負傷兵や兵隊の手当を担当していたという。戦時下の人手不足のために、そういうことをやっていた、とみるべきだろうか。

 また、ご遺族によると、和子本人は助産師になりたかったそうで、戦後しばらくの間助産師試験の勉強を続けていたという。

 助産師の勉強をするためかどうか、詳細は不明であるが、戦後、まもなく母の従妹・股村キエ(東君子)を頼り、祖母(この人の兄弟が東君子の親だという)を連れて上京。

 しばらくの間、英二・喜美江の家に寄宿をして助産師試験の勉強をしていたが、思う所あって(ご遺族の説では、いつまでも居候のままでは気が済まなかったのではなかったか、との事である)、はとこの英二・喜美江の弟子となり、「東和子」という漫才師となる。

 1948年3月のカケブレに「和子・美津子」というコンビが出ているが、詳細不明。ご遺族も「判らない」とのご返答であった。この頃から漫才師の卵として舞台に出始めていた模様か。また『芸能画報』(1959年1月号)のプロフィールに、

和子 ①塚田和子②昭和3年1月25日③函館市④音楽で身を立てんと上京後昭和24年漫才界に進む

 とあり、「音楽で身を立てん」とあるが、これもよくわからない。どちらにせよ、音楽、親戚の立場上の思惑が合致して、漫才師になった模様である(英二喜美江は音楽漫才で人気があったのでそれも一翼を担ったのではないだろうか)。

 1949年6月、西〆子とコンビを結成し、「〆子・和子」となる。

西〆子の前歴

 〆子の両親は、松鶴家千代若・千代菊である。四人兄弟の長女で、後年二代目千代菊を襲名した絹子は妹。

 出身は両親の巡業先であった名古屋。劇場の近くで生まれたという。初めて対面をした千代若がその顔の面白さを見て、千代若が「シメタッ」と喜び、「〆子」という名前になった――という逸話が真山恵介『寄席がき話』に出ているが、詳細は不明。一種の笑い話として尾鰭がついている可能性が高い。

 幼い頃から、両親の巡業についていき、各地を転々とした。親が芸人とだけあって、早くから芸事を仕込まれ、これが後年の武器となった。長らく趣味は日本舞踊であったと聞く。

 1939年、小学校進学に伴い、家族で東京に移住。以来、首都圏から離れる事はなかった。

 1949年6月、東和子とコンビを結成。人気コンビ、英二・喜美江の妹分として引立てられ、忽ちに人気を博した。

〆和コンビの結成

 1949年6月、東和子とコンビを結成。7月説もあり、非常にややこしいことになっている。

 1950年1月、師匠の英二・喜美江の斡旋で、落語協会へ入会。貴重な若手漫才として注目される傍ら、桂文楽、古今亭志ん生などといった名人上手に揉まれて、芸を磨いた。

 ぽっちゃりであるが、わりかし整った童顔、美声を持つ和子に対し、痩身で父・千代若そっくりの三枚目的な顔と親譲りの味のあるボケを持つ西〆子の対比で人気を集めた。

 テーマ曲「おおスザンヌ」で舞台を開き、〆子が徹底的にぼけて、和子を振り回すスタイルを確立。

 その頃の芸風を、松浦善三郎が『関東漫才切捨御免』(『アサヒ芸能新聞』1954年1月5週号)の中で、紹介している。以下はその引用である。

 ◎東和子 西〆子

東和子は実録にある国定忠治ようなずんぐりとした小太りで貴美江・英二の妹分。西〆子は反対にスラリストで千代若・千代菊の娘。
二人ともうら若い乙女で次の世代の才界のホープ。夫々後見者が活躍して居るだけにお仕込は充分。前項の大江笙子に進言したと同じ事がこちらの両後見者にもいえる訳。
舞台は既に部内の定席で地方のお客様には放送で御なじみの筈。揃いのツウ・ピースでサッソウと登場し、ズンジャカ/\とギターの合奏で唄とギャグを連発して行く。ごくサラリとした都会的センスを持った女流漫才。
特に日本語の発言の確実さは才界の範とするに足る。クセの無い標準語で対話をして行く反面それ故に漫才的ニュアンスに乏しいという事も云えそうだが、そこまで求めるのはまだ早い話で、当分の間は今のシャベリ方でのよいだろう。
友人の某台本作家がトソ気嫌で「ねえ、此の名前、”あゝ不味い数の子に煮〆”と読んぢゃうね。意識して附けたものかそれとも偶然かなあ」と笑いながら冗談をとばした事があったが読む側のヒネクリだろう。がそれにしても面白く読んだものと感心した。但し当人たちが決してまずい数の子や煮〆めで無い事は重々本稿で証明して置く。

 1955年2月、漫才研究会設立に伴い入会。漫才大会や栗友亭に出演するようになったほか、貴重な女流漫才として、ラジオ・舞台の引っ張りだこになった。

 1957年3月2日に行われた第1回NHK漫才コンクールに出場。『美人運転手』なる演目を披露しているが、入賞を逃している。

 1962年11月、師匠分で親戚の東喜美江が死去。

 1964年1月、東和子が都上英二と結婚した為、コンビを解消。

コンビ解消と二代目喜美江襲名

 和子は、夫婦コンビを結成し、「東和児」と改名、同年2月に寄席に復帰した。引き続き落語協会に所属をして、寄席を中心に再スタートをした。

 同年10月、「和代」と改名。改名理由は「男に間違えられたから」との事である。

 1965年3月31日、「東喜美江をしのぶ会」を開催するに当たり、「二代目東喜美江」を襲名。この時の経緯が『東京新聞夕刊』(1965年3月22日号)に出ている。

  漫才の都上英二の前の細君・東喜美江(昭和三十七年十月没)の名を、現在の細君で、故人のまたいとこにあたる和代がつぐことになりそうだ。
英二・喜美江は「君と一緒に歌の旅……」という「バンジョーで歌えば」のかえ歌をテーマ音楽にした美男美女? コンビで、ことに喜美江の達者な三味線と美声は人気があったが、喜美江が三十七歳の働き盛りに脳出血で急死。残された英二は意気消沈して廃業まで考えていた。ところが長年同じ屋根の下に内でしとして住んでいた喜美江のまたいとこで西〆子の相棒の和子と結ばれ、結婚と同時に新コンビを結成。寄席に復帰したのが昨年二月。
和子はその後知りあいの入谷の鬼子母神の住職の姓名判断で和児と改名。ところが英二・数児では男同士の漫才と間違われたりするものだからさらに和代と改名しているが、ことしは故・喜美江の三回忌でもあり、三十一日四時から人形町末広で漫才協団(コロムビア・トップ会長)の協力で「東喜美江をしのぶ会」を開くに当たり、きょうだい分の柳亭痴楽から「この機会に喜美江の二代目を和ちゃんにつがしたらどうだ」という意向打診があった。
英二は「考えてもみなかったことだし、和代と喜美江とは芸風も違うし」と例によって引っ込み思案になりそうだったが、師匠すじの桂文楽、柳家三亀松が「いい話じゃないか。万事われわれにまかしておきな」と胸をたたき、三十一日の会で来客に襲名の相談を持ちかけるという演出が考えられている。
漫才で二代目を名乗るのは関西ではミス・ワカナがあり、東京でら今のひとりトーキー都家かつ江が一時娘に亡父の福丸を名乗らせたことがあるくらいで珍しいことになりそうだ。

 間もなく二代目東喜美江を襲名。落語協会系の寄席を中心に落語会や松竹演芸場などで活躍した。主に喜美江が喋り倒し、都上英二を煙に巻く女性上位の漫才を展開した。

 一方の〆子は、しばしの充電期間を経て、1965年3月、仲間の京美智子、父の弟子の西美佐子(この人は後年、東京二の妻となった東笑子)と共に「さえずり姉妹」を結成し、歌謡漫才グループとして再スタートを切る。華やかで達者な三人の芸風は、関西のかしまし娘と並び称された、と聞く。

 然し、十年来の相方、和子との解散には思う所があったようで、『新宿末廣亭うら、喫茶「楽屋」』の中で、楽屋の店主、石井光子が、

東和子・西〆子さんは、いわゆる「〆和」コンビね。和ちゃんが初代の喜美江さんが亡くなったあと、部上英二さんとくっついちゃって、二代目喜美江になったでしょ。そんとき、〆ちゃんに「ママ、相手方んなってよ」って言われたから、びっくりして「やだ、何言ってんのよ!」って言ったら、「誰でもいいのよ」「そういうこと言わないで」って言ったの覚えてる(笑)。

 と、語っている。

 1965年には『金曜寄席』(笑点の前身)の準レギュラーに抜擢され、大喜利の座布団運びをしていた。

 1967年春、芸能事務所に勤めていた尾形栄司と結婚。結婚をした為、「尾形〆子」と姓が変わっている。

 その前後でさえずり姉妹から脱退、家庭に入り、千葉県船橋で主婦生活を送っていた。ここが舞台に出続けた東和子と違う点であった。それでも親の千代若千代菊の関係から、一応芸能界との繋がりは残しておいた模様。

 喜美江こと和子は、夫婦漫才として長らく活躍。これまでのギターもエレキギターに変え、テーマソングも「その日その日を笑いで送るおしゃべりコンビな二人連れ、今日も元気に仲良く歌うそれでは皆様お楽しみ」というような物に変わった。

 然し、晩年は都上英二の体調不良などもあり、思うような舞台はできなかったようである。

 1979年11月、夫であり、相方の都上英二を喪い、「英二・喜美江」のコンビを解消。それからしばらくの間は喪に服していた模様である。

 喪が明けた1980年3月、相原ひと美とコンビを結成。『国立劇場演芸場』(1981年4月号)に

東喜美江・相原ひとみは、喜美江が亡き夫の都上英二ほか、ひとみが京美智子ほかと、共に別の相手とのキャリアが二度あって、三度目の正直?コンビ。結成が昨年の三月でちょうど一周年。

 とある。引き続き落語協会に所属し、1983年1月下席まで活動した。

再結成と夭折

 1983年2月、西〆子を誘い、「〆和コンビ」を再結成。再結成の背景には子供たちの独立があった――と和子氏の遺族から伺ったが、真相は不明。

 コンビ解消から実に19年の時が経っていた。古巣の落語協会に復帰し、同年2月上席より寄席に出演するようになった。

 かつての初々しさこそ色あせたものの、ブランクを感じさせない話芸と人生の年輪を感じさせるオトボケぶりを発揮。多くの演芸ファンを喜ばせた。

 その話芸は立川談志も感心させる程で、『立川談志遺言大全集14』の中で、

「東和子・西〆子」、これは会員だ。〆ちゃんは、「千代若・千代菊」さんの娘で、和ちゃんはどうなのか、やはり芸能界と関係があったのだろう。二人で組んで、ヘッタクソな漫才で、〆ちゃんは、あの通り顔がまずい……いや、ご免/\……。「まずい顔」というけど、それが芸人の顔であり、それ が魅力となったのだ。

そして和ちゃんは、まあ/\美人のほうで、その二人で演っていたが、そのうちによくなった。というのは〆ちゃんの魅力なのだ。そして、いったんやめてカムバックした時に、「こんな上手い漫才がいたのか」と言った人がいたと聞いたが、「当たり前だよ、〆和だもん」と言ったことがある。ネタは、三つ四つだったがウケた。

 と、記している。国立演芸場などにも出演を果たして、これから大輪の花を咲かせようという矢先の1985年、東和子は卵巣癌に罹患し、板橋区誠志会病院で死去。58歳の若さであった。

 相方を失った西〆子は一線を退いたが、一応落語協会に籍を残しておいたと見えて、1985年度の『日本演芸家名鑑』に顔写真が出ている。それから間もなくして体調を崩し、相方の後を追うように亡くなった事。

 東京漫才における貴重な女流漫才として、漫才人気の不振を振り払う気合と円熟を期待されながらも、両人ともに夭折した事は、悔やんでも悔やみきれない喪失であった。

 娘を先に失った松鶴家千代若・千代菊の嘆きは、凄まじいものだった――と関係者より伺った。子が親より先立つ残酷な結末は、東京漫才に大きな影を落とすことになる。

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