青空千夜・一夜

漫才師 ア行

青空千夜・一夜


青空千夜・一夜(右)

 

真打昇進披露図
(右から天才、ライト、一夜、千夜、トップ、秀才)

 

 

 人 物

 青空あおぞら 千夜せんや

 ・本 名 酒井 義人
 ・生没年 1930年6月28日~1991年6月20日
 ・出身地 福岡県 北九州市

 青空あおぞら 一夜いちや

 ・本 名 小板橋 喜八郎
 ・生没年 1932年9月17日~1996年4月23日
 ・出身地 長野県 戸倉温泉

 

 

 来 歴

 戦後活躍した漫才師。コワモテで大柄な一夜、小柄でカッパのような千夜の凸凹コンビで人気を集め、ラジオ・テレビ時代の寵児となった。また青空一門の大番頭としても活躍。多くの後輩や弟子の面倒を見た。

 

 ・千夜の経歴

 福岡県北九州市(真山惠介は「佐賀県伊万里市」としている)の生まれ。実家は炭鉱会社の重役だったらしいが、詳細は不明。

 少年時代は兵隊になりたかったそうであるが、兵隊学校に入る前に終戦。八幡高校卒業後(真山恵介は中卒としている)、炭鉱夫になったが、流行歌手に成らんと夢を見て、1949年に上京。

 大村能章や藤山一郎が講師を務めるキング歌謡学院に入学し、歌手の心得を学んだ。またその傍らで宮田当方の司会もやっていたという。

 同校に4年間在籍し、レッスンを続けたものの、一向に芽が出なかった。当人はこれを「容貌不適格」などと自嘲しているが、夢破れた事は大きな心の傷であったようである。

 夢破れて大いに悩んでいた所に、当時売り出しの青空トップ・ライトに出会い、1953年9月入門(1954年説もあるが、うれし氏との邂逅を考えると、こちらの方が正しいのではないだろうか)。

 1953年4月に入門した青空東児に次いで、二番目の弟子となる。

 入門当時は、付き人のような形で採用され、コロムビアトップ・ライトの鞄持ちや運転手をしていたそうである。Wikipediaには「千夜と組む前に別のコンビを組んでいた」とあるが、うれし氏などに尋ねると「そんなことはないと思うが。組んでいたとしても臨時的なもので正式なものじゃないだろうよ」との事である。

 1954年、弟弟子とコンビ結成。実質の一番弟子コンビとして扱われるようになったが、後年入ってくるうれし・たのしとは複雑な関係があったという。

 うれし氏曰く、「年齢やら青空一門への加入はあちら(千夜一夜)が早かったけど、芸界入りや当時の人気はこっち(うれし)の方があったから複雑な関係だった。俺は漫才界では先輩だし、トップ・ライトからも可愛がられていたから両方「うれしさん」と呼んでいた」。

 たのし氏曰く、「一夜さんは僕の方が年上で先輩だと思っていたのか、「たのしさん」。でも千夜さんは、自分が年上で漫才界の先輩だから「たのし君」って呼んでいましたねえ」。

 但し、1956年まで一夜が自衛隊との二足草鞋を履いていたため、相変わらず前座のようなことをやって、一夜が暇になると漫才師になるという忙しい生活を送っていたと聞く。

 

 ・一夜の経歴

 長野県埴科郡の生まれであるが、幼い頃に三重県四日市へ転居し、当地で育った。

 幼いころは兵隊になりたかったそうであるが、兵隊になる前に終戦。この兵隊好きの趣味は残った。

 四日市工業高校卒業後、紡績工場に勤めていたが、藤山一郎のような歌手を志し、自衛隊に志願。

 1954年、自衛隊音楽隊に入隊し、トロンボーンを吹く傍らで(たのし氏は「クラリネット」と言っていた。当時は人員が不足していたので兼用していた可能性が高い)、藤山一郎への弟子入り志願を続けていたが、ある時、自衛隊慰問に訪れたトップ・ライトの舞台に魅了され、入門。

 1954年(真山惠介は「昭和三十二年の四月」としている)に兄弟子の千夜とコンビを組む。

 1956年3月、満期除隊に伴い、正式に入門を果たし、改めて「青空千夜・一夜」を結成。入門が早かったにもかかわらず、1955年設立の漫才研究会に参加しなかったのは、そういう背景があった。

 

 ・コンビ結成と人気

 コンビ結成は遅かったものの、師匠について、司会や余興などで腕を磨き、独特の毒舌・時事漫才で人気を集めるようになる。

 1957年、師匠についていく形で、コロムビア専属にもなった。ここで司会漫才の腕を磨いたのは言うまでもない。多くの歌手たちとも交友を深めることとなった。

 コンビ結成後間もなく、NHK漫才コンクールに出場するようになる。

 1959年10月に行われた第6回NHK漫才コンクールでは三位と敢闘している。

 以下は『読売新聞・夕刊』(1960年2月20日号)掲載の玉川一郎『よみうり演芸館』からの引用。

⑨「我もし医師なりせば」

青空千夜・青空一夜

趣味は野球と音楽。その野球もどのくらいうまいのかときいたら、半年前より半年分くらいうまくなったんじゃないんですかと答えた。千夜君は足が長いので盗塁専門。

 1960年3月に行われた第7回NHK漫才コンクールを「野球狂時代」で優勝したのを皮切りに、民放ブームの波に乗って、漫才やテレビ・ラジオの司会を務めた。また、司会漫才としても活躍をした。

 巨漢かつ毒舌の一夜が、小柄の千夜をいびり倒すキャラクターを形成。その毒舌やネタの過激さは師匠のトップにも勝るほどのもので、「一茶かホイ」、「あの本この本」などはこのコンビの芸風をよく生かしたものであった。

 その話芸、人柄は立川談志にも愛され、『談志人生全集1 生意気ざかり』の『見どころ聞きどころの芸人たち』中で、

「千夜・一夜」の漫才を、浜松で久し振りに聴いた。さる会社の慰安会のステージで一緒になったのである。

“面白い、ごきげんに楽しかった”。彼らのように、売れて寄席へ出る暇もないと、“笑い”に対して、密度の高いものを求めてこない、観客に多く接していると、下手をすると、これに染まって、安直な笑いを 提供するようになってしまうのに……。千夜・一夜のステージには、その日まったくそれがなかった。芝居を茶化って飛び跳ねていた二人でなく、一夜の度胸と毒舌を、ほどよく、メガネの小さい千夜に浴びせ、これを受ける千夜、広範囲のジャンルから引き出した一夜のアドリブが、連続的に出るのも、“お互いの個性の発見”という結果を得たためだと思う。
 コンビを組んで十二年、岡晴夫に憧れて流しをやっていた「千夜」、のど自慢から藤山一郎門下、そして自衛隊というケースをたどった「一夜」、とにかく、二人ともバイタリティーがあるのは当然だが、特に一夜の話は面白い。毒舌で、態度が大きく、相手を煙に巻いているような彼の珍談、または普通の話も、抜群に楽しい。そこには「裸の芸と人間」が強烈に出ているからである。

 と評されている。

 また両人共に音楽出身という事を生かし、得意の美声で軍歌や流行歌などを披露することもあった。一夜は覆面太郎と名乗って密かにレコード吹込みをしたの――という逸話が、一部界隈ではちょっとした話題になっていたりするが、実際には青空一夜名義で普通に吹き込んでいたりする。

 一方、私生活では一夜の方が繊細で非常に人付き合いや機嫌を気にする質で、千夜は社交家で派手すきだったという。

 

 ・人気と第一号真打

 1966年、『サンテ十人抜きのど自慢』の司会者に就任。翌年には『歌謡ヒットアルバム』『ヒット・スコープ』の司会になるなど、メディアの寵児になった。

 1968年10月19日、NHKホールで行われた「明治百年記念芸術祭 NHK東西漫才大会」に出演。遠藤佳三『あの本この本』を披露。以下はその出演者と演題の写し。

 東西から大御所が集まる中で、『あの本この本』で大受けをとったことで、自信をつけたと同時に、遠藤佳三の当たり役になった。

 遠藤佳三『東京漫才うらばな史』にもその前後の事が詳しく出ているが、わたくし個人が遠藤氏から聞いた話では、

「この頃、明治100年の企画で多くの作家や芸人が稼ぎ時でして、私にお鉢が回ってきたのも他の作家が多忙だったから、という事情がありましてね。そこでNHKの能條さんから「明治に因んだ作品を書いてくれ」といわれたんです。何にしようか、と悩んでいる所へ、ふと福沢諭吉『学問ノススメ』が目についた。そこから大ぼら吹きの一夜が千夜をいびり、「お前、勉強しろ。こんな本を知らないのか」と日本文学の名作を頓珍漢な解釈で話す、というネタが浮かびましてね。そこからネタが広がりました。当初は千夜一夜さんはやる気ではなかったようですが、予想以上に受けたのを信頼してか……それ以来、ネタ書いてくれ、といってくれるようになりましたねえ」

 1969年10月18日、NHKホールで行われた「NHK東西漫才大会」(昭和44年度芸術祭大衆芸能部門第一部参加公演)で遠藤佳三作『マイホーム作戦』を披露。

 この話芸が高く評価されて、同年の芸術祭優秀賞を受賞した。遠藤佳三氏に直接聞いた話では「大変にうれしかった」。

 1971年7月2日、漫才協団に新設された第1回真打に抜擢。名実共に東京漫才の幹部となった。以下は7月2日、朝日生命ホールで行われた番組と、お祝いの言葉の引用。

司会 青空東児・高峰幸天

◎あれから一ケ年若手紹介コーナー

前回の大会より約一ケ年たちました。サテ?
どれ程成長したか?暖かい目で見てやって下さい。

◎ニュースター群ぞろ/\

演芸ブームは下火になったと人は云う。デモ再び大ブームが招来しますキット……その時期を早める人々が次の時代のニュースターです。

◎漫才協団・幹部御挨拶

◎傑作台本集

お客様は舞台を見てその出来、不出来は全て演者の力だと評価なさいますが、その原動力は第一に作者の書く本にある事も御認識下さいませ。漫才の将来は先ず良き脚本からとも云えましょう。

青空千夜一夜 幹部昇進真打披露

口上 青空千夜一夜 コロムビアトップ・ライト リーガル天才・秀才

◎陽気なゲストコーナー

 演出なしで飛び出すハプニング・ショウ。
御期待下さい。
(註・ゲストは黒木憲、久保浩、島倉千代子、杉良太郎、姿憲子、ちあきなおみ、バーブ佐竹、英亜里、舟木一夫、水原弘、三島敏夫、都はるみ、伴順三郎、森繁久彌、渥美清)

◎漫才ちゃんぽん・マーケット

東京の漫才は関東大震災以後独自のムードで大衆に迎えられ、育ってまいりました。
よろずの芸、萬歳・万才、漫才、何が飛び出すか?
サァーどれをお買い上げになりますか?

◎漫才パレード

お馴染コンビ登場です。新しい話でゆきますか?
それともおなじみの話がお好みでしょうか?

 

お祝いの言葉

(順不同)

防衛庁長官  中曽根康弘

 千夜一夜君、真打に薦挙され洵に喜ばしい。

 トップ・ライト師の愛弟子として、今日まで以上に、その責を感じておられるであろう。

 君達得意のペースで茶ノ間にステージに、笑をもたらす軽妙さは、師を継ぎ若手のホープと期待している。今後益々努力され、このコンビが琴瑟相和して痛快な漫才を演じてくれ ることを楽しみにしている。

 真打第一号おめでとう!

 

日本コロムビア株式会社顧問
日本音楽著作家組合副委員長 宮田東峰

 青空千夜一夜の両君が今回漫才協団の真打審議委員会からの推薦で、真打の第一号に選ばれ、幹部に昇進したことは本 当にお目出たく、心から祝福を贈りたいと思います。

 千夜君は戦後二年近く私の秘書として手伝って貰っていた 関係上、彼の人柄については知り過ぎるほど知っているつもりです。

 彼は真に誠実な男で、責任感の強い几帳面な反面ユーモアに富み人情に厚く、能筆家で、私のために献身的に尽してく れたことで、私は今でも感謝の気持を忘れてはいません。

 その彼が万才界に飛込んで一夜君と組み、今日の名声を得 たことは本当に嬉しい限りです。 一夜君も、自衛隊出身の規律正しい立派な人物で、あのハキハキした態度には大いに好感がもてます。音楽、特に歌謡 曲には抜群の才能を持っている彼、礼儀正しい男らしい男、私は一ファンとして一夜君にも絶大な好意を寄せています。

 今回、真打昇進第一号を獲得されたのを励みとして、名コンビ千夜一夜の両君が、一層充実した芸を磨いて、今後益々 活躍されることを祈り、期待したいと思います。 

 千夜君、一夜君、心からお目出度う!

 

演芸評論家 小島貞二

 すでに十五年のキャリアを持つ、千夜・一夜、に今さらの 声がないでもないが、このコンビが新制度の第一号に選ばれた事は、漫才と云うものが、落語・講談・浪曲などの、伝統芸術の仲間入りをしたことをものがたり、誠に意義深い。

(厳しいことは良いことだ。)

 それだけに今後二人の仕事振りは、フアンの注目が集まる であろう。もう一つの飛躍えの踏台として欲しい……。 

 おめでとう。

 

作詩家  銀座「姫」マダム  山口 洋子

 真打昇進おめでとう御座います。

 千一さんコンビとは、知りあって四年位と思いますが、大変古く十年来の知己のようでなりません。それと云うのも、漫才の中に普段、私達とお喋りしている時のことがネタとして沢山入り込んでいます。それを極く自然にアドリヴで演ずるので特に親近感と笑いを呼ぶのでしょう。

 日頃の生活に溶け合った大変ユニークな漫才として心から 期待しています。ます/\の御発展を……

 

 1978年、青空一歩が入門。

 1979年、長年の慰問や啓蒙運動への参加が認められ、交通栄誉章を授与されている

 1980年頃、青空一夜は内海好江と共に漫才協団副理事長に選出される。

 1981年、青空三歩が入門。兄弟子と組ませて、「一歩・三歩」を結成させた。

 1983年、弟子の一歩・三歩がNHK漫才コンクールで優勝している。

 

 ・若すぎた、死

 1980年代以降は、東京漫才の大幹部として、漫才大会やマスコミへの出演など、長らく堅実な活躍を続けてきたが、1989年秋、千夜が腸の不調を訴え、入院。

 結果、癌や腫瘍が見つかり、2年にわたる手術と治療を受けることとなる。幸い治療が成功して小康を得た。

 その後も体調と相談しながら舞台に上がっていたが、1991年の春に再び不調を訴え、検査をしたところ、肝臓がんに冒されている事が発覚。再び休業して治療に専念したものの、同年の5月に入るや、急速に病状が悪化、再起敵わず、61歳の若さであの世に旅立った。

 その月には初孫が生まれる予定であったため、その死は無念の最期としてメディアに取り上げられたほか、師匠のトップは葬儀で号泣をしたという。

 千夜の死後、ピン芸人として司会や漫談を行う傍ら、漫才協団の運営や後進の指導に携わった。特に理事長としての手腕は相当なものだったそうで、「名理事長として評判で、立派なものであった」(新山ノリロー氏談)との事であったが、間もなく体調を崩し、急性肺炎でこの世を去った。

 図らずも師匠トップは大番頭の三人、青空東児、千夜・一夜に先立たれるという不幸に見舞われた。

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