大津一万・万龍

大津一万・万龍

大津萬龍(右)・大朝家美代子

晩年の大津万龍

 人 物

 大津 一万おおつ いちまん
 ・本 名 ??
 ・生没年 ??~1960年代?
 
・出身地 ??

 大津 万龍おおつ まんりゅう 
 ・本 名 谷島千代子 
 ・生没年 1924年2月3日~1986年以降
 ・出身地 東京

 来 歴

 出身は、大津お萬一座であるというが、詳しいことはよく判っていない。お萬は演芸団の座長をしていたため、そこに入ってきた女芸人と男の芸人が一対となって、夫婦漫才になったとみるのが、妥当な解釈か。

 1930年代後半より、浅草の義太夫座、金龍座に「一万・万龍」名義で舞台に出ている様子が確認できる。この頃、どんなネタをやっていたのかまでは判らない。主に大津お萬について行動していた模様。

 戦後もお萬について渡米などをしたというが、その頃、仲を拗らせ、なぜか離婚をしてしまったという。松浦善三郎『関東漫才切捨御免』(『アサヒ芸能新聞』1953年12月3週号)の中に、

万龍は大津お万の流れ。一頃まで一万との夫婦コンビでいて一万の徹底したボケと万龍のガラ/\調で味のある舞台を見せていたものだが、万龍が大津お万一行とアメリカから帰ってしばらくして何故か夫婦別れをし、自然的に商売も別れてしまった。

 という記載がある。夫婦別れをした後、大津万龍は浅草駒千代、さらに花柳君栄と相方を変え、漫才を続けた。花柳とのコンビ時分の芸風が、アサヒ芸能新聞に出ているので、引用しよう。先ほどの続きであるわけであるが――

万年娘(こういう言葉が当てはまる)の万龍は性来の気の若さと強がりで、その後急速にはピッタリする相手も見つからず(それ程一万とのコンビは良かった)モタ/\しているように見られたが、間もなく今の君と一緒になって相変らず勇ましい声で唄いまくり、三味線がかわいそうに思われる位活発にひいて君栄の踊りに合の手を入れてい る。
浅草駒千代と一時組んで、 断髪美人の三味線コンビでお 色気十分にやっていた頃の舞台と比べると、今のコンビは君栄が踊りだけしかやらないために少々淋しい気がしないでもない。 君栄は近視が災いして万事
控え目なのは舞台が損。だが踊りは文句無しにイタゞケル。しっかりした台本に練り直して君栄がもう少しシャベル様になればこれはこれなりで 結構観られる漫才になろう。
「残んの香り」?でも花は花。大津万龍は未だしぼむ看板で もあるまい。それには折角君栄と組んでいる限り、君栄を更に指導しもっと活用して、 共々もう一花も二花も咲いた舞台を見せてもらいたい。

 とある。その君栄と別れた後は、またもや相方を転々とする羽目になった。

 1980年――60近くなって、東寿美とコンビを組んで、台所漫才をやるようになった。この頃の舞台の様子が、NHKのライブラリに残っている。

 1986年頃まで続けた模様だが、後に引退し消息不明となる。

 一方、一万は芸界から一線を退き、当時売り出した村田英雄事務所に入って、番頭のようなことしていたという。当時、面識のあった青空うれし氏曰く、「名物人間だった」。

 また、清水一朗氏より伺った話では「春風亭枝雀師匠がすんでいたアパートに一時いたとか、そんな話は枝雀夫妻から聞きましたが」。

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