小宮凡人・凡児

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小宮凡人・凡児

小宮 凡人

 人 物

 小宮こみや 凡人ぼんじん

 ・本 名 ??
 ・生没年 ??~1960年代?
 ・出身地 ??

 小宮こみや 凡児ぼんじ

 ・本 名 ??
 ・生没年 ??~??
 ・出身地 ??

 

 来 歴

 凡人は漫才よりも喜劇人として人気があったそうで、色川武大の小説や戦前の回顧録などに出てきたりする。以下は色川武大の作品に出てくる一節。

 『新喜劇』に掲載された経歴によると、

同志座を振出しに新國劇を経て新喜劇界に入つて四年、其の間にオペラ館のヤパンモカルから萬成座のグランテツカアルに走り、今又ヤパンモカルに復活して盛名を得てゐるは、君の絶ゆまざる努力であろう。

(『新喜劇』昭和10年10月号)

 と、ある。長らく浅草喜劇や松竹系の劇場に参加していたが、1942年、吉本興業へと移籍し、「青春喜劇団」を結成。花月劇場に出演した。

 その頃の『都新聞』に以下のような記載があるので引用。

新劇團誕生時代にまた一つ誕生、既報笑の王国を脱け出た小宮凡人と酒井俊とが中心で結ばれた劇団”青春喜劇隊”がそれで恰も清水金一との契約を成さずに、之に代る軽演劇團を求めてゐた吉本興業との間に話が纏まり、この十一日初日で花月劇場に旗揚げする事になつたものである

『都新聞』1942年7月9日号

 この報道の一か月後、都新聞は東京新聞と合併する。奇しくも小宮凡人のスタートは、都新聞最後の目玉記事になってしまったというわけ。

 この頃の人気はすごく、小宮凡人一座という名前も持っていた。やはり売れていたのであろう。

 一方、相方の凡児に関してはよく判っていない。波多野栄一によると、浅草オペラ館を根城に漫才もやっていたそうで、『寄席といろもの』の中にも、

小宮凡人 小宮凡児

凡人はオペラ館で一緒に芝居をでた仲間。その後は不明

 という記載がある程度で、それ以上の事は不明。凡人の同僚だった可能性が高い。

 喜劇の活躍に比べると劣る所があり、大きな活躍こそしていないものの、漫才としてはそこそこ長く続いたと見えて、戦時中から1940年代後半まで動乱の時代を見事に切り抜けている。

 そのおかげかどうかは知らないが、戦後の『週刊読売』や『古川ロッパ日記・戦後編』などで二人の名前を確認する事ができる。

 残された漫才の速記を見る限りでは、凡児がボケで凡人がツッコミ、都会的でエスプリを含ませたネタを得意としていたようである。

 1950、1年ごろ、コンビでの活動を停止。凡人は直井オサムといった時分の晴乃ピーチクとコンビを組んでいた事もある。これが大体1952年頃の話である。

 漫才から一線を退いた後は(1955年頃)、流行歌手であった岡晴夫一座に入り込み、漫談らしいものをやっていたという。

 その頃に凡人と会った事のある、青空うれし氏によると、「くっだらねえ漫談をやっていたよ。見た目は昔の学生やら裁判官みたいな恰好してね(註・アカデミックドレス)、本を手にして舞台に上がるんだが、何も気の利いた事も言わなければ、時事ネタやクスグリも入れない。そんな芸だから岡さんも煙たがっていてねえ……、思えば変な芸人だった」。

 うれし氏をはじめとする若手が岡晴夫の一座に入ってきた事により、最終的には追い出されてしまったという。晩年の動向はよく判っていないが、1960年代までは健在が確認できる。

 1960年にはなぜか素人劇団の関係者として、新聞に名前が載った。

しろうと劇団の処女公演 むさしの演劇ゼミナール

 新国劇や浅草の「笑いの王国」などで三十年と舞台を踏んで来たベテランの小宮凡人やSKDの朝雲ゆたか、月笛てる恵らが「もう一度最初から勉強し直したい」とはせ参じた。

『読売都民版』(1960年11月2日号)

 この記事から逆算すると、1930年頃のデビュー、となると、生年は1900年代後半と見るのが妥当な所か。

 また、1961年に公開された『お奉行さまと娘たち』という喜劇映画に出演、「青風斉屯勝」という役で登場しており、その健在が確認できる。が、それ以降の消息は完全に不明。

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