羽沢かんじ・志摩かほる

羽沢かんじ・志摩かほる

羽沢かんじ・志摩かほる(左)

 人 物

 羽沢はざわ かんじ
 ・本 名 高橋 一男
 ・生没年 ??~??
 ・出身地 静岡県

 志摩しま かほる
 ・本 名 高橋 真佐子
 ・生没年 ??~??
 ・出身地 静岡県

 来 歴

 羽沢かんじ・志摩かほるは高度経済成長期に活躍した夫婦漫才師。グループ21のメンバーとしてあしたひろし・順子や東京太・京二などとともに人気を競った。

 経歴は『漫才』(№16)に掲載されたプロフィールに詳しい。

 =二人とも静岡放送劇団出身=
志摩かほるは静岡短大を出て銀行に勤めていたが親の反対を押し切って放送劇団に加入。 公開録音のステージでナマの魅力に取り付かれ、笑いの道を求める羽沢かんじと意気投合 !!二人は漫才のステージを目指し西も東も解らない東京へ羽沢の家を売り払って飛び出して来た。暗中模索のうち、ようやく協団に入いって松竹演芸場のステージに立ったのが二人のスタートライン=昭和四十二年五月=
「東京では想像もつかないくらい田舎では漫才を軽蔑する風潮がまだまだ強いので、両親にはまだ内諸にしています」と云う志摩かほるのソバで、羽沢かんじは「冗談じゃないよ漫才は肌で味あう庶民の芸術、今にテレビへバリバリ出てみる親戚でもないのに親戚づらして手土産持って向うからやってくるよ」といきまく……とにもかくにも想像もつかないという田舎のヘンな固苦しさを振り払いながら勉強を続ける二人……この二人の底力からどんな漫才が生まれるか?ある人は云う「このコンビの漫才らしくない漫才から何かが生れたら強い!」と。

 なお、羽沢は戦前からの芸能関係者だったらしく、戦時中は永田キングの妹で永田チエ子率いる喜劇団にいたらしい。

『小説倶楽部』(1968年3月号)掲載の江崎惇『さらばラバウル』の中でこんな記載がある――

 静岡の歌舞伎座では、オペラ館の全員を引き受けることになり、文芸部や、楽団俳優が大挙して、静岡へ移住した。したがって永田チエ子の座長という制度はなくなり、劇団全体を看板にするようになった。
 関西からは三枚目の井出寬、テイチクレコードからは中村征子、ムーランルージュからは明日待子などが、かけつけた。今、東京の漫才で活躍している羽沢寛二などは、その時の研究生で、中村征子の使いで会計へ給料を貰いに行き、自分の十倍だったので驚いた、と言っている。

 研究生として下働きをしていたが、座員が徴用されるに従って自身も舞台に出るようになり、演劇にハマったという。

 戦時中は劇団員の先輩の戦死や女優の爆死など、大変苦労したという。さらに職場の静岡歌舞伎座も焼失し、戦後は各地を巡演して暮らしていたという。

 1948年頃、静岡歌舞伎座が廃業することになったため、関係者と退座。しばらくフリーで活動していた。

 1951年3月、NHK静岡放送局に招かれて「静岡放送劇団」に参加。同局の専属となる。静岡放送劇団は自前でラジオドラマや実演などを開催しており、その声優として活躍した。一種のローカルタレントだったという。

 羽沢は静岡放送局内で相応の地位を占め、放送演劇を指揮する立場になった。そしてしばらくして新人として入ってきたのが志摩かほるであった。

 元々は先輩後輩の関係だったがいい恋仲となり、結婚。かほるは高橋と姓が変わった。

 その後も二人は放送劇団に勤めていたが、ラジオブームの終焉や漫才演芸ブームを目の当たりにして「漫才で一旗揚げよう」と志した。

 1967年、羽沢は持ち家や家財道具のほとんどを売り払い夫婦で上京。漫才協会に入った。

 1967年5月11日、浅草松竹演芸場で初舞台を踏む。『松竹八十年史』を見ると――

(中席)デン助劇団『青葉の公園で』。じん弘と笑いの王様。坂野比呂人。都々逸坊扇歌。スリートーンズ。成美ひさし。カンタとハッピー。パンコメディー。竜夫・竜子。かんじ・かほる。サンデー・マンデー。青天・幸天。

 その後、漫才協会内の若手グループ「漫才グループ21」に参加した。

 ただし、会の中では相当な年長者だったらしく、真木淳氏やあした順子氏に昔それとなく聞いた話では「いい人だったという風には覚えているけど、如何せん羽沢さんが相当な年寄で扱いに困った」「印象や記憶にはあまりない」「ひろしさん(1922年生まれ)より年上な印象があった」というようなことであった。

 1970年2月14日、第14回NHK漫才コンクールに出場。受賞は逃している。

「婦唱夫随」羽沢かんじ・志摩かほる
東京の若い漫才の会に「漫才グループ21」というのがある。その中から干とせ・羊かん、みつる・ひろし・順子・ひろし、それにこのかんじ・かほるの四組が、きょうのこのステージに登場する。中でかんじ・かほるだけが、初出場。
 二人とも静岡放送劇団出身という変りダネ。富士山に因んだネタが多いのは、郷土愛による。恋人同士のネタが多いが、実は夫婦。
漫才をやりたくて、静岡の家を売って上京、浅草でステージに立ったのが四十二年五月。師匠を持たず一匹狼で、わが道をゆくというあたり、近ごろ珍らしいガッツの持ち主といえよう。”漫才らしくない漫才”に、新鮮さがある。

 1973年頃まで漫才協団に所属している様子が確認できるが、その後の消息は不明。噂も聞かない。

 

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