コロムビアトップ・ライト
トップ(左)・ライト
トップ主導の真打制度。二代目真打・新山ノリロー・トリロー。
左から、リーガル秀才、トップ、トリロー、ノリロー、新山悦朗、天才
人物
人 物
コロムビア・トップ
・本 名 下村 泰
・生没年 1922年5月6日~2004年6月7日
・出身地 東京 台東区
コロムビア・ライト
・本 名 鳥屋 二郎
・生没年 1927年3月30日~2010年10月26日
・出身地 東京 青山
青空 ライト
・本 名 池田 喜作
・生没年 1920年代~1950年3月28日
・出身地 東京
来 歴
コロムビアトップ・ライトは戦後活躍した漫才師。司会漫才という新しいジャンルを創設し、青空一門の総帥として長らく活躍を続けた。トップは参議院議員としても有名。両人共に司会者としても売れた。
トップの前歴
トップの祖先は徳川家直参の旗本で代々続く江戸っ子で呉服屋を営んでいたが、父親は遊び人で、どうしようもない人であったという。
1923年、1歳の折に関東大震災に遭遇。母親に背負われて九死に一生を得る。父親は失踪してしまい、以来、母親と兄の手に育てられる。
震災後、碑衾村に転居し、間もなく平塚町に移った。
5歳の時に腐ったイカを食べて、食あたりし、病院に担ぎ込まれる。死線をさまよったが、こちらも命拾いをした。間もなく母親が急死した為、16歳年上の兄が親代わりとなった。
地元の品川区立平塚高等小学校卒業後、北辰電機へ入社。サラリーマンとして働く傍ら、夜学で北辰電機洗足青年学校に入学し、卒業まで通った。
会社員生活の傍らで浅草や寄席に出入りし、19歳の時に職場の素人劇団に飛び込んだ。
20歳の時に徴兵検査を受け、合格。現役兵として仙台第十二航空教育隊に配備される。
18歳の折に取得した自動車免許を生かして戦車隊を志願したものの、痔の気があるという理由で航空隊自動車整備に回されている。福島県郡山の東部111部隊に配備され、教育を受ける。
1943年2月、ビルマミンガラドンの飛行隊64戦隊に転移。その道中で魚雷に追っかけ回される羽目となったが、間一髪の所で船が港に辿り着き、命拾いをしている。
1944年正月、下士官教育隊に配備されシンガポールへと移動。第七五飛行場大隊に所属し、整備と警備を続けていた。
1945年8月、タイのウボンで終戦を迎える。同地に進駐してきたオーストラリア軍の捕虜となり、ナコンナヨックの収容所に入れられた。捕虜を虐めることなく、よくしていたおかげで、戦犯に指名される事なく、待遇改善してもらった――という逸話がある。
収容所で鉄道整備や肉体労働などを行う傍ら、毎週土曜日に行われる演芸会に出演。
当初は漫談風の芸をやっていたが、同僚の池田喜作と共に漫才をやるようになった。その掛け合いは話題をよび、収容所内で人気者となった。
この頃、現地人の娘と仲良くなってしまい、親に追っかけ回される珍事に遭遇している。弟子の青空うれしによると、「包帯を身体に巻き付けて傷痍兵の一団に紛れ込んで、何とか逃げおおせた、とか言っていた」。
1946年8月帰国命令が出た為、復員。復員後、千葉白浜に疎開していた兄の下に身を寄せる。
一時は飲食業を営むつもりでいたが、兄に猛反対される。当人によると、「ぶん殴られた」。
職もなく、家もなく、困っている所へ池田喜作と再会。漫才コンビを結成するに当たり、「青空トップ・ライト」という芸名を思いつき、「青空トップ」を名乗る。池田喜作はライトを名乗った。
初代ライトは、本名・池田喜作といい、兜町の染物屋の倅。富澤慶秀『「東京漫才」列伝』によると、叔父は株屋をやっており、株を当てては喜作を連れて、お座敷や花街に繰り込み、芸人たちをお座敷に呼んで遊ぶ粋人であったという。
軍隊時代の戦友であった石川正和の父親が藤村悟朗だった事もあり、藤村の弟子分のような形で漫才師に転向。藤村の口利きで大朝家五二郎を紹介され、漫才の仕事を得るようになった。
1946年10月、紀ノ国屋一座なる地方回りの劇団に入団し、千住新橋館で初舞台を踏んだ。
この時、座員たちがみんな楽屋から出ていってしまい、1時間近く漫才をやらされるアクシデントに遭遇したが、見事に切り抜け、逆に自信をつけた。
1949年1月、宮崎県に1月も居続ける羽目になった。焼き芋屋のバイトや売り込み、裏方などをして旅費を工面し、命からがら帰郷を果たした。この御難の時に知り合った女性の和恵と翌年結婚している。
1949年5月、池田喜作が梅毒性腸結核に倒れ、コンビ活動を停止する。この活動停止前後に解散した「突破一路」の片割れ、並木一路の相方として抜擢される話もあったが、このコンビは実現しなかった。
小島貞二は『昭和演芸秘史』の中で、新宿駅で待ち合わせする事となったが、片方は西口、もう片方は東口で待っていた為にご破産となった――という説を挙げているが真相は不明。但し、このコンビでインスタント漫才をやった事はある。
同年、九州巡業時に知り合った柳家亀二に白羽の矢を立てた。亀二に「青空ライト」を名乗らせ、再スタートを切る。
ライトの前歴
ライトは、赤坂で履物屋「上州屋」の次男坊。父親は高﨑から上京して、店を立ち上げ、十数人の従業員を使う立派な大店の主人に納まった苦労人であった。
商人になるべく、大倉商業学校に進学し、商学や経済学の勉強をしていたが、1942年に肺結核を患い、中退。
療養のために父の実家である群馬県高崎へ転居。サナトリウム「結核保養施設榛名荘」で療養をしている時に芸人を志し、施設内の宴会や演芸会などでは声帯模写や漫談などを披露して、病院仲間たちを喜ばせていたという。
一方、戦時中で病気になった事により、非国民扱いされるなど、暗い青春を過ごしていたそうで、『新評』(1977年6月号)掲載の木村勝美『人間模様・喜劇人たち』の中で、暗い青春や感情を吐露している。
敗戦後、小康を得たライトは一層芸人への思いを募らせ、地元の演芸会やオーディションに参加するようになる。
1947年7月、のど自慢大会に出演し、歌の部門で合格。さらに同年9月、声帯模写でのど自慢の鐘を鳴らし、群馬県代表に選出されている。
これに自信をつけたライトは、知り合いの経営する芸能社に事務員兼芸人として所属し、プロデビュー。
間もなく、三味線漫談の大御所、柳家三亀松に入門。「柳家亀二」と名乗り、本格的なプロデビューを果たした。当時は声帯模写と司会の二足草鞋を履いていた。
1949年、三門順子一座でトップと知り合う。九州巡業の御難を経て、帰京後、間もなく初代ライトが倒れたため、トップとコンビ結成。二代目青空ライトと名乗る。
青空トップ・ライト改めコロムビアトップ・ライト
当初、亀二(ライト)は、病に倒れた初代ライトの代わりに舞台に立っていたが、1950年3月28日午後1時半、池田喜作が夭折する。池田が死亡した同時刻、トップは松竹演芸場の舞台に立っており、幽霊を見た――と自著『恍惚のお遊び』の中で語っている。
この頃、家を建てた櫻川ぴん助を頼って、ライトと共に屋根裏生活を始める。1950年11月、結婚。ライトも前年に結婚していたため、屋根裏に二世帯が住むという不思議な生活を続けた。
夜の営みをするため、両人で相談して、毎日交代でやっていたという苦労話も残っている。やっている間、片方は外に出て、散歩や買い物などをして、気まずくならないように配慮をつづけた。
屋根裏生活時代にオンボロラジオから流れる国際放送をヒントに、『おとぼけ国際放送』を創作。トップの軽妙な語り口とライトのイカサマ外国人や楽器のモノマネが大受けし、一躍人気漫才師となる。
この頃からトップの批評性とライトのさわやかなツッコミが組み合わさった新しい漫才を展開した。
以下は松浦善三郎『関東漫才切捨御免』(『アサヒ芸能新聞』1954年4月3週号)内の『おとぼけ国際放送』の激賞。
コロムビアトップ・ライト
組合せが前後したが、忘れないうちに書いておく。死んだ十返舎亀造とイキはちがうが、あれと同じに表現力に富んだ話術をもっている。ラジオでおなじみ「青空」で長い間親しまれていたのが、昨年コロムビア・レコードの専属になって変えた。戦後レコード会社はレコードといえば流行歌ばかり、ラジオといえば落語と浪曲ばかりと、漫才が全然立ちおくれの体勢で流れてきたとき、コロムビアがむかしのように湯才を専属としたことは特筆すべきことだろう。またそのお目がねにかなってタイトル・ネームにコロムビアの名をつけるようになったトップ・ライトは、昭和に期の才界史にながくその名誉を刻むべきだし、いまも活躍するリーガル千太・万吉両氏のように、末ながく健全でその名をはずかしめないようにいのる。
専属第一回の吹込みレコード「国際放送」はこの台本および演出ともに今日の男性立体漫才の一品として推せんする。文部省芸術祭の大衆部門に漫才がくわえられた場合は、このコンビによる「国際放送」を推挙する。ちなみにあの台本の作者をしりたい。
1952年、コロムビアの専務、伊藤正憲の提案で「コロムビア」の名が許され、同時にコロムビアと専属契約を結ぶ。この契約を機に猛然と売り出すようになる。
リーガル千太・万吉を私淑し、正統的なしゃべくり漫才をベースに、古くからあった時事漫才のスタイルにメスを入れ、独特の視点から見た時評や批判でしゃべくり漫才の概念を覆した――司会漫才の形を完成させた事もこのコンビを語る上では無視できない。
歌謡ショーの邪魔にならず、自分たちの芸も引き立てるその見事な振る舞いは、自分の弟子に留まらず、多くの後輩や後進に影響を与えた。
1955年、漫才研究会発足に伴い、入会。コンビで、青年部部長の地位を得る。トップは、後年副会長に就任した。
1956年7月、日本放送「起きぬけ漫才」に抜擢され、3200回近いレコードを樹立。台本の執筆は主に小島貞二が担当。以来売れに売れてテレビ・ラジオ併せて20本超の仕事を持つ大スターとなった。
1959年、記者クラブ賞、読売新聞演芸賞、ラジオ・オリムピック賞受賞。
1960年、都上英二新会長発足に伴い、トップは、副会長に再任。ライトは、会計監査役に就任。以下は、その人事を記したもの。
ここで、リーガル万吉の会長辞任が承認され、あたらしく都上英二が新会長にえらばれたのである。ちなみに、副会長は従前通りコロムビア・トップ、理事長は大空ヒット、理事は松鶴家千代若、橘エンジロ、新山悦郎(えつろう)、リーガル天才、獅子てんや、木田鶴夫、内海桂子、天乃竜二、大江笙子、浅田家彰吾(しょうご)、晴乃ピーチク、大空平児の十二人。会計が春日章(あきら)会計監査がコロムビア・ライト。顧問は林家染団治、隆の家万竜がそれぞれ就任した。
『産経新聞夕刊』(1960年7月5日号) 小島貞二『漫才ばなし』
1963年、「漫才変遷史」の企画制作に対する功績で、芸術祭奨励賞受賞。この大会には、東喜代駒、林家染團治、荒川清丸、大津検花奴・菊川時之助などの古老を招聘した。
1964年、トップは、都上英二から会長職を禅譲され、第三代漫才研究会会長に就任。会長就任後間もなく、「研究をする時期は過ぎた」と宣言し、「漫才協団」と改称した。
1970年には大劇場での漫才大会を、1971年からは真打制度を適用するなど、名会長として辣腕を振るった。
1966年3月22日、『トップライトの起きぬけ漫才』が通算放送三千回を突破。
以降、司会漫才を中心に東京漫才の大幹部として売れに売れるが、関係が徐々に悪化するようになり、漫才の舞台も荒れるようになり始めた。
トップ・ライトの絶縁
1974年5月7日、トップは、参院選全国区に無所属で立候補する旨を発表、7月7日、第10回参議院議員通常選挙投票を経て、当選。参議院議員となる。
この立候補をめぐり、ライトと対立し、25年続いた名コンビを電撃解散させる。この解散は揉めに揉めて週刊誌のタネとなった。
トップ側は「説明していた」「前から計画していた」というのに対し、ライトは「何度も選挙には出ないと念を押して聞いたのに、参議院選挙がはじまってから出るという話を聞いた」「落選したらトップライトに戻りますと発言して腹が立った」と、完全に意見の対立がおこっている。
両人共に言い分がある所から関係が拗れ、これまでの鬱憤やコンビ仲が爆発する形となった。
トップは出馬をして当選。当初無所属であったが、1975年6月12日、二院クラブ入会。以来、引退するまで二院クラブ所属として活躍した。
議員としては、障害者福祉の改善や「あゆみの箱」運動など、市民的な活動をモットーとし、地味ながらも堅実な働きぶりを見せた。
国会議員時代の発言は、国会会議録検索システムなどで見る事が出来る。
1977年にはあゆみの箱の設立に関与し、森繁久彌、伴淳三郎、嘗ての相方、トップと共に奔走。森繁会長、伴理事長の体制の下で、身体障害者福祉チャリティーを行う。
1980年6月の参議院選挙では落選。この年の9月、テレビアニメ『おじゃまんが山田くん』の放映がスタート。主役の山田よしお役に抜擢され、声優としても活躍するようになる。頑固で短気ながらも家族に振り回され、妻に頭の上がらない庶民的な昭和の親父を好演した。
一方、トップの出馬に激怒したライトは漫才をやめ、司会漫談や声帯模写へと路線を変えていく。
コンビ解消前後からアコーディオン奏者を雇い、声帯模写や漫談などをキャバレーやラジオなどで披露していた他、自分の仕事やマネジメントを管理する会社も設立した。
1976年、落語芸術協会、東京演芸協会に所属し、 色物として出演するようになる。
その器用で如才のない人柄と芸は評価され、辛口で知られた新宿末広亭席亭、北村銀太郎も『聞書き・寄席末広亭』の中で、
今のコロムビア・ライトも悪くないけど、やつぱりまだまだ昔の人にくらべればね、なにしろ一人立ちしてから何年もたつてないんだから仕方がないよ。でも、ライトはよくやつてるよ。声色も出来るし、マナーはいいし、得がたい芸人になるかも知れないね。
と、評している。
こじれた関係と復活と
1982年5月6日、コロムビア・トップ還暦パーティーが小田急センチュリーハイアットホテルで開催され、トップライトが名目上の和解を果たす。
同年11月、浅草公会堂で開催された漫才協団主催の漫才大会の企画「なつかしの名コンビ」の一組として、「コロムビア・トップ・ライト」名義で出演。この時には東和子・西〆子、美田朝刊・夕刊、森信子・秀子が10数年ぶりに一夜限りの復活を果たした。
この企画は好意的に受け入れられ、NHKの中継も入った。この時の漫才、「応援歌」は今でもNHK発売のDVDなどで見る事ができる。この復活がキッカケとなって、1983年ころより、ライトとのコンビを再結成。
1983年、国立演芸場4月定席公演を皮切りに1987年頃まで、劇場やテレビなどで漫才を披露するようになった。
但し、名目上の和解であって、関係まで復活させたわけはなかったため、漫才中でも皮肉や毒舌をぶつけ合う、目を合わせない、などといった不仲の態度が目立った。
議員コロムビア・トップ
1983年12月、二院クラブの立候補者で当選確定していた野坂昭如が衆議院出馬に切り替えた為、繰り上げ当選。間もなく正式な議員として証書が贈られた。
1986年1月、宮尾たか志の死を受けて、司会者だけを集めた団体「日本司会芸能協会」の発足に携わり、名誉顧問に選出された。
1989年7月、第15回参議院議員通常選挙に当選。議員生活三期目に突入した。
1993年、30年勤め上げてきた漫才協団会長職を辞任し、リーガル天才へと禅譲。自身は名誉会長に就任した。
1994年1月、細川護煕内閣の野党切り崩し手段を大暴露。更に1994年4月5日、細川護煕と会食した際に辞意を零した事を暴露。この暴露がキッカケとなって、三日後、細川護煕内閣は倒れた――と、『朝日新聞』(4月6日号)が大々的に報じている。
1995年6月30日、青島幸男が二院クラブを辞任した事により、代表へ就任。同日、参議院議員通常選挙に立候補を表明。二院クラブ代表だった事から名簿一位を推薦されたが、「代表が一位では私党になる」という理由で、佐藤道夫に一位を譲った。その善意が裏目に出て、落選。一位の佐藤のみが当選を果たした。
同年、勲二等旭日重光章を受章。落選後は芸能界へ戻り、司会や「巷談」と評する話芸をベースに活躍。
1997年6月、胃癌に罹患し摘出手術を受けている。これ以降、癌との戦いに明け暮れる事となる。
1998年6月15日、二院クラブ第一位で出馬を表明し、再起を賭けたが惜しくも落選。同年7月政界を引退した。『読売新聞夕刊』(7月13日号)に対し、涙ながらに、
和服姿の下村さんは、唇を震わせながら「各党がテレビコマーシャルをし、湯水のように金を使っているのを見て、ついていけないと思った」と無念の表情。
時事漫談で名をはせた下村さんだが、「舞台は客の前で真剣勝負ができるが、国会活動は国民に知られなければ勝負のしようがない」と言い残して去った。
と、ある。これ以降は舞台出演と協会等の実務に携わる事となる。
2000年、妻の和恵と金婚式を迎えた。この頃から内海桂子とインスタント漫才を行うなどして、オールドファンを喜ばせた。
2003年4月、食道癌が発覚。33回に渡る放射線治療を受け、文化放送『吉田照美のやる気MANMAN』内で闘病生活を赤裸々に語り、注目を集めた。同年、7月29日、舌癌に罹患している事が判明。以来、闘病生活を続けながら、舞台に出演し続けた。
2004年5月15日、『朝日新聞』の取材を受け、夕刊に掲載される。この時のインタビューと写真が置き土産となった。
2004年6月7日死去。下村家・漫才協団合同で葬儀が執り行われた。喪主は長男の泰一がつとめ、葬儀委員長に青空球児が指名された。没後、正四位を追贈されている。
ライトの晩年
ライトは、芸人として寄席や劇場、名人会などに出演し、順調な活躍を魅せていたが、1991年、長年の不摂生と喫煙が祟り、喉頭ガンに罹患。声帯を摘出し、障害者三級となる。
退院後、公益法人「銀鈴会」中村正司より、食道発声を教わる。以降、食道発声特有のガラガラ声へと変わる。
1993年、食道発声五段を取得し、再び声を取り戻した。1994年、闘病経験をつづった『いきてりゃこそ』、日本医療企画より、『高等ガン漫談』を発表。闘病前後の逸話や経緯はこの本に詳しい。
その後は、体調と相談しながら、禁煙キャンペーンWHOの禁煙コマーシャル日本代表への出場。
喉摘者のための発声ビデオ作成基金キャンペーンへの参加、江戸川不動尊唐泉寺の住職、高田真快と「ガン・ファイターズ」を結成してインスタント漫才を披露するなど、闘病の講演や病気の啓蒙などの方面で活躍した。
然し、生涯トップと和解する事はなかった。
2010年10月26日、東京都大田区の自宅で倒れているのが発見され、死亡が確認された。
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