美田朝刊・夕刊

美田朝刊・夕刊

 朝刊・夕刊(右)

 

 人 物

美田みた 朝刊ちょうかん

 ・本 名 西沢 喜八郎
 ・生没年 1927年3月21日~没

 ・出身地 東京本郷

美田みた 夕刊ゆうかん

 ・本 名 清水 節雄
 ・生没年 1934年5月3日~1999年11月1日

 ・出身地 東京 江戸川

 

 来 歴

 戦後活躍した漫才コンビ。朝かん・夕かんと書く場合もあるが、ここでは朝刊・夕刊とまとめる。それにしても朝刊・夕刊とは恐れ入る名前である。「見た朝刊」――

 朝刊の出身は本郷富士前で、実家は厚生省技術養成所電機科という部署に勤めていたお役人であった、真山恵介『寄席がき話』の中にある。

 家業の関係もあったのか、早稲田工業電気科に入学し、家電工事資格の免許を取得して卒業。その直後、学徒出陣で召集を受け、中国へ飛ばされる。

 1945年8月、当地で終戦を迎え、侵攻してきたソ連軍の捕虜となり、シベリア抑留。厳寒の地で6年近く抑留され、悲惨な日々を過ごした。

 生前交友のあった青空うれし氏によると、「朝かんから直接聞いた話だと、シベリアで女将校に可愛がられたのはいいが、あちらの女はやたらに性欲が強くて、毎日毎日回されて搾り取られて死ぬかと思った、って言っていたけども。朝かんは真山さんが連れてきたんだよ。漫才師になりたいって人がいるから面倒を見てくれ、って言われたんだね」。

 これが漫画やエロゲーならば、ロマンのある話であるが、現実はテクノブレイク寸前だったそうで、朝刊は長らく女嫌いになっていたという噂さえあった。

 1953年頃、命からがら帰国し、日本の地を踏む。その後、神田駅前で喫茶店を営んだ、と真山恵介『わっはっは笑事典』にあるが、この辺りの詳細は不明。

 1954年、家中の反対を押し切って、三国道雄・宮島一歩に弟子入りした。『芸能画報』(1959年2月号)や『漫才協団 漫才グループ21 No.2』(1970年11月)に掲載された漫才系図ではこの言説を採用している。

 但し、これには異説があり、青空うれし氏曰く、「真山さんが連れてきたわけで、一歩さんなんかと関係ないんじゃないのかね。俺たちが半年くらい連れて歩いて面倒見ていたし。そこでシベリア抑留の話なんかも聞いたんでね。夕かんとも確か真山さんが引き合わせた筈だけども……」。

 1955年、夕刊と出会い、コンビを結成する。

 一方、夕刊の実家は軽金属会社を営んでおり、御曹司であったと『寄席がき話』にある。

 そんな環境もあってか、幼い頃から野球と演芸に親しみ、モノマネを得意としていた。幼いころは野球選手になりかった――と新山ノリロー氏などから伺ったが、伝聞のため不明。

 高校時代に芸人を志し、日本大学芸術学部に進学。学業の傍ら、日劇ミュージックホールのプロデューサーをしていた丸尾長顕に師事、演劇を学んだ。

 在学中の1954年、丸尾に認められてデビュー。

 1955年、丸尾の勧めで宮島一歩・三国道雄の弟子となり、美田朝刊とコンビを結成。「美田朝刊・夕刊」となる。芸名の由来は言わずもがな。

 若手コンビとしてスタートし、漫才大会や栗友亭などで腕を磨いた。結成後間もない漫才研究会に加入。発足当時は加入していなかった。

 1956年に始まったNHK漫才コンクールに出場するようになり、1959年秋、第6回の記録が何故か残っているので引用する。この時、第3位を受賞している。優勝は晴乃ピーチク・パーチク、2位は青空千夜・一夜であった。

⑥「鍵」美田朝かん・美田夕かん

夏から秋にかけて北海道に入りびたり、あんまり帰ってこないので、クマにやられたというデマがとんだくらいだが、アイヌのメノコを張りあったというのが真相だという説もある。

 1960年10月に開催された第八回NHK漫才コンクールで優勝。この時の準優勝は大和わかば・東まゆみ、三位はクリトモ一休・三休であった。

 以来、時事漫才を中心に演芸場やメディアに進出。ヌーボーとした朝刊が、二枚目然とした夕刊を振り回す凸凹コンビとして活躍。朝刊の顔はひょっとこのようなご面相で定評があり、出てくるだけで、客がゲラゲラ笑う漫才師向きのものであったと聞く。

 中堅としての地位を築いた矢先の1965年、コンビ解消。その背景には器用な夕かんが司会業やモノマネに力を入れるようになってしまい、漫才を続投したい朝かんとの間に生じた方向性の違いや夕刊自身の司会業進出など、様々な事情が絡んでいたようである。

 コンビ解散後、朝刊は師匠宮島一歩の忘れ形見である宮島一茶とコンビを組んで、1965年7月、「カンドウ・コンビ」なる名称で再スタートを切る。名前は「勘当」された者同士のコンビという意味を含んでいたようである。

 人気者とサラブレットのコンビとして期待されたものの、間もなくコンビ解消。一茶は宮田昇司とコンビを組みなおした。

 その後もしばらくは芸能界に残り、相方を取っ替え引っ替えしていたようであるが、間もなく廃業。浦和へと転居し、劇場売店の店員をしていた女性を妻に居を構えた。

 芸人廃業後は、芸人時代から馴染みのあったプロダクション、野中興行に入社して会社員になったという。

 この野中興行時代にコメディアンの美田健と出会っており、この前後の事は美田健とそのご家族から伺った。入社後は一介の社員として奮闘し、芸人の仕事の斡旋や割当など事務仕事を主にしていた。

 コチラの仕事の方が性に合ったのか、野中の名社員として活躍。後年、部長にまで昇進したらしく、一九八六年に収録された『第36回NHK漫才コンクール』における青空千夜一夜の解説VTRの中で、「現在朝かんさんは芸能社の部長さん」と、一夜が発言している。

平成に入る頃まで健在であった、と風の噂で聞くが、間もなく消息不明となる。

 一方、夕刊は漫才界から一線を退き、モノマネと司会業に転向。山崎事務所に所属をして、ピン芸人として再出発する。

 1966年、旧師の丸尾長顕に「拝啓介」と名前をもらい、改名。当時、人気を集めていた演芸番組ブームの波に乗り、ラジオやテレビ番組に出演している様子が伺える。

 後年は「はい啓介」という名義も使うようになり、声帯模写の看板で東宝名人会や落語会で活躍。いわゆる、コロッケや佐々木つとむのような爆笑王のタイプではなかったが、政治家、歌手、俳優、芸人の声色を得意とし、古川ロッパ以来の声帯模写の趣を残す人として喜ばれたようである。

 また漫才時代の話術も活かして司会も得意とし、演芸番組などにも出演した。瀬戸わんやが体調不良で倒れた際、代役として獅子てんやとコンビを組んだ事もあった。

 晩年は東京演芸協会に所属し、一定のポジションを築いたが、晩年、昔馴染みの初代青空月夫を通じて、山梨を訪れた際、シャンデリアにぶつかる事故に遭遇。以来、健忘症になった、とうれし氏及び月夫氏より伺った。

晩年まで活動を続けていたが、一九九九年、急性心筋梗塞のために亡くなった。訃報が『東京かわら版寄席演芸年鑑 二〇〇〇年度版』に掲載されていたので引用する。

▼はい啓介が死去

急性心筋梗塞のため死去した。一九三四年五月三日、東京都江戸川区の生まれ。丸尾長顕に認められて、俳優から漫才に転向。美田朝かん・夕かんで、NHK漫才コンクールにも優勝している。解散後、はい啓介と改名し、模写漫談家となる。六五歳。

 

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