丸一小松(太神楽)

丸一小松(太神楽)

丸一小松小勝(右)

 人 物

 丸一まるいち 小松こまつ
 ・本 名 永松 松五郎
 ・生没年 1897年12月10日〜没
 ・出身地 東京?

 来 歴

 丸一小松は戦前活躍した太神楽曲芸師。丸一小仙の弟子で、丸一随一の三味線弾きという形で一門を支えた。若い頃は一座を持っていたこともあるが、後には小仙・時次郎一門の良き番頭となった。

 経歴は不明。ただ、他の太神楽曲芸師と同じように幼い頃に丸一の弟子となり、色々と仕込まれた模様。

 1915年にはすでに一枚看板となっており、『芸人名簿』にも「菅之家松遊 永松松五郎 明三〇、十二、一〇」とあるのが確認できる。幼い頃、どうして「丸一」を名乗らなかったのかは不明。

 それから間もなく丸一に入り、「丸一小松」と名乗る。鏡味小仙一座が当時寄席に近づき始めていたこともあり、寄席へ出るようになる。

 1917年7月には小仙に連れられて大阪へ行っている。『上方落語史料集成』に――

◇三友派の出演者 七月一日より南地紅梅亭外組合各席へ従前の上に東京より燕枝、米蔵、鯉かん、丸一社中の小仙、小松、小金、橋本川柳は引続き出演。

とある。間もなく起こった東京落語界を揺るがす演芸会社を発端とする分裂騒動では演芸会社側についた。以来、小仙・小金・小松のトリオで出勤。若い曲芸師としての曲芸、かけ合いの相手役などをやった。

 1919年6月より再び大阪へ出勤。『大阪朝日新聞』(5月31日号)に――

◇三友派出演者 一日より南地紅梅亭他の三友派組合各席の出演者は従前の外に東京より曲芸丸一社中鏡味小仙、小松小金の一座、女道楽春の家浪子、清子、花子、富子、春子の一座及び三遊亭円子も出勤する。猶同派は三十一日午前十時より総勢二百五十名の春季園遊会を住吉公園に於て催し、当日同派の市内各席は臨時休業す。

 この興行は長く続き、秋口まで神戸・大阪と回った。

 1922年3月頃、小仙から独立し「丸一福丸・小松」を結成。同年6月にはさっそく大阪へ上り、披露をしている。

 1925年9月には林家彦六(当時三遊亭圓楽)率いる「落語革新派」の色物として参入。『都新聞』(9月5日号)に――

浅草公園橘館は十日迄にて同派へ更に千葉琴月、丸一小松、弄玉斎紅龍、同紅光等加入

とある。しかし、この派は長く続かず、再び小仙の下へと戻った。

 後に丸一栄三郎とコンビを結成し、「栄三郎・小松」。これで数年ほど出勤。

 昭和に入って「丸一小勝・小松」を結成。さらに師匠のラジオ放送などにも同行し、人気を集めた。当時の資料を読むと、鏡味一門随一の三味線上手で、獅子舞や曲芸を盛り立てる名人であったという。

 1930年代に入ると小勝と別れ、再び小仙一座に復帰。小金亡き後は亀造と共に小仙の後見に回った。

 1934年2月には陸軍の依頼で小仙たちと共に中国戦線を慰問に出ている。「関東軍副官ヨリ陸軍省高級副官へ問合セノ件 陸満普第二二四號」(1934年2月16日)に――

一、渡満者 
大神楽十一世家元 丸一小仙事 鏡味六三 明治二九年五月二〇日生
 右 弟子    丸一小松事 永松松五郎 明治三〇年一二月一〇日生
 右 同     丸一亀造事 石橋諦治 明治三四年一二月一一日生
 小仙出方   三遊亭圓福事 矢島光造 明治二二年七月一二日生
二、行動豫定 
二月二十四日神戸出帆二十七日大連上陸、即時新京着貴司令部ニ出頭、爾後貴司令部ノ指示ニ従ヒ第一線部隊慰問日數往復共約一ケ月

 敗戦後は主に鏡味一座の出方として活躍。巡業や進駐軍慰問などの後見や道化役をやっていたという。

 1951年には鏡味小仙・松旭斎天菊一向に同伴して、ハワイを巡業。小仙、小松、小金、次郎、松旭斎天菊、登代子、昇、菊江、それに剣劇寸劇の大河内敏雄が一座であった。

 その後も健在だったというが、高座から離れていき、没したという。

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