美和サンプク・メチャコ

美和サンプク・メチャコ

在りし日のサンプク・メチャ子(清水一朗氏旧蔵)

 人 物

 美和みわ サンプク
 ・本 名 三輪 福
 ・生没年 1909年(11年説有り)4月26日~1980年代
 ・出身地 愛知県 名古屋市

 美和みわ メチャコ
 ・本 名 三輪 初子
 ・生没年 1926年8月3日(20日?)~2014年3月29日
 ・出身地 大阪府

 来 歴 

 寄席漫才で人気があったコンビであるが、資料の食い違いが多く、はっきりとしない所が多い。

 その最たる例が、本名で当時の文人や芸人、マスコミの住所やプロフィールを記した『文化人名録』では「福・初子」とあり、一方、落語協会・落語芸術協会が中心となって出す芸人の名簿『重宝帳』では「白露・愛子」とある。

  ただし、生前に交遊のあった清水一朗氏によると、「楽屋では白露さんと呼んでおりましたが」との事である。

 後年、サンプクは絵を描くようになったので、筆名の可能性もある。また、出典などに、年齢にも微妙な違いがあるので、困る以外の何物でもないコンビである。

 追記・メチャ子の甥にあたるお方より「三輪福・初子で手紙を送っていた」「メチャ子おばさんは初子である」とご教示いただいた。

 サンプクは名古屋師範学校出身で、教員資格を有していたという漫才界きっての変わり種。学校での教員生活を経て、正司一座(かしまし娘の両親が主宰していた演芸団)の家庭教師として雇われたのがキッカケで、漫才への興味を覚える。

 当時、一座にはかしまし娘の三人のほか、都上英二、大空ヒット、東喜美江(茶目子)、喜美江の両親である、東若丸・君子などが在籍していた。

 かしまし娘の歌江・照枝などの教師をしていたそうであるが、その授業ぶりは不真面目だったそうで、歌江は後年、自著『女やもん』の中で、

……父さんの一座で家庭教師を雇うことになりました。
 座員たちの子供、約十人の教育担当者というわけです。さすがにキチンとした月給制でした。
 ところが、せっかくきてくれはった「三輪先生」を、だれも先生とよばへん。「おじちゃん」、「おじちゃん」ですわ。
 また、この家庭教師が変わった人で、文字も数字もさっぱり教えてくれません。
 ひまさえあれば「名月赤城山」とか「国定忠治」とか、芝居の筋書きの講釈で、勉強らしいもんといえば、歴史の話ぐらいですねん。
 とにかく勉強のきらいな、ケッタイな家庭教師でした。

 と、回顧している。こんな有様なのだから芸人になるのも当然といった所か。

 戦時中に一座を抜けた後、大阪に行き、芸人に転向。そこで漫才の修業を行っていたという。

 メチャ子は大阪生まれ。実家は元々地主だったそうであるが、父親の病気やなんやらでメチャ子が生まれた頃には没落していたという。

 幼い頃から父の病気などで苦労をし、学校もそこそこに就職。大阪区役所の教務課に勤めていたという、こちらも変わり種。

 後年、サンプクと結婚をして、夫婦漫才に転向。

 名古屋で初舞台を踏む。1952年頃に上京。桂小文治や林家染團治を私淑し、その内輪へと入った。小文治の世話もあり、1953年2月付で芸術協会に入会し、寄席の色物として活動が許された。

 そのころの事情が、松浦善三郎『関東漫才切捨御免』(『アサヒ芸能新聞』1953年12月4週号)に出ている。

 関西から東下りをして一年になるかならない割にのびて来た。染団治の近くに居を定めてこの大先輩に私淑している。舞台は賑やかである。
 映画俳優?横山エンタツとよく似た三福が(メーキャップでなく運命的にそう なっている) ヴァイオリンを弾き「サーカスの娘」という感じのメチャコがギターを鳴らして歌とコントの連続、息つく間も与えず店をひろげたあげく、三福の日本製英語ソングまで全然すき間がない。この英語ソングはなんとか想をこらして各層の観客にわかるよう一工夫あるべきで、現在ではこの歌のためかえってラストの盛り上りが消されている。
 歌謡ナンセンス漫才とでも区分することになろう。関東にファンか少いので目下アチコチの舞台を勤めていてその熱演は賞すべきだが、折角ヴァリエーションに富んだネタなのに本人達が終始一本調子なのは惜しい。

 ヴァイオリンを持ったサンプクが、女のような奇声を上げる奇声漫才を得意とし、ギターを持ったメチャ子がツッコミを入れる珍妙なネタで有名であった。

 そのヴァイオリンの下手さ加減といい、真面目過ぎる人柄ゆえにひきおこったエピソードには事欠かさない。

 1960年頃より西新井の自宅を改装して、「さんぷく」という小料理屋の経営を始める。その頃から寄席の活動をセーブするようになり、1970年6月限りで、芸術協会を退会。

 店の経営に集中する傍ら、サンプクは水墨画の販売や自宅の二階で落語会を行っていた。画家としての才能は有り、結構人気があったという。

 また、サンプクは西新井町の町内会や商店街をまとめ、町の結束と発展に寄与をした。1978年頃、老齢を理由に自宅を売却し、枚方市へと転居。これは元・サンプクと土地の契約をしていた地主さんから伺った話である。

 その後、間もなくして、サンプクが亡くなった――というが、1979年4月に甥の結婚式には出ているので、この頃健在だったようである。

 サンプク亡き後、メチャ子は特養を頼って老後を送った。

 信憑性は微妙であるが、身内と思しき人が書き込んだ掲示板の内容を見ると、

メチャコは2014年3月29日に大阪で亡くなりました。享年92才でした。
漫才をやめた後は足立区西新井で小料理屋を営み、サンプクは画家になりました。
その後、大阪に移り住みサンプクは今から30数年前に他界し、その後、メチャコは一人で暮らしておりました。
晩年は特養で暮らしながら旅行などて余生を過ごしました。
本人は漫才をしていたことをあまり人に話しませんでしたが、覚えてくれている人がいただけで喜んでいると思います。
ありがとうございました。

(出典 http://rakugo.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=13045201

 と、ある。キチンと連絡の取れる甥に伺った所、「亡くなった日はこれであっていると思います」との事であった。

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