大道寺春之助・天津城逸朗

大道寺春之助・天津城逸朗

右・逸朗 左・春之助

人物

  人 物

 大道寺だいどうじ 春之助はるのすけ

 ・本 名 岸田 金蔵
 ・生没年 1897年~没
 ・出身地 関西?

 天津城あまつき 逸朗いつろう

 ・本 名 影山 太郎
 ・生没年 1900年代~没
 ・出身地 埼玉?

 来 歴

 スポーツをテーマにした漫才を得意としたコンビである。現在、野球モノマネやお笑いプロレスなど、多くの芸人が行っているが、その先駆けというべき存在かも知れない。永田キングと双璧である。

 中でもボクシングをモデルにした「拳闘漫才」を得意としたのはこのコンビが最初ではないか。エンタツ・アチャコやダイマル・ラケットなど往年の爆笑王も得意とした芸を作ったコンビ、と考えてもおかしくない。

 その割に資料は少なく、よくわかっていないコンビである。判る範疇で書いていくので、ご了承願う。

漫才以前

 春之助の生年は『陸恤庶發第一、一九七號 船舶便乗ニ關スル件申請』(1939年11月21日)より割り出した。

 『都新聞』に掲載された「漫才銘々傳」に詳しい経歴が出ているが、結構長いのでかいつまんで紹介することにする。

 春之助は曾我廼家小一郎(師匠無し)と名乗ったのを振り出しに、喜劇役者として全国を巡業していたが、樺太で御難に遭い、豊原市で活動弁士に転向。菊田美水と称し、地元の映画館で活躍していた。

 1923年、再起をかけて、帰京しようとするが震災で御破算。樺太で弁士を続けていた所、巡業に来た竹の家雀右衛門と出会い、意気投合。

 一座に飛び込んで全国を巡業する。後年、上京して「昭和喜劇団」なる一座を結成する傍ら、漫才にも挑戦し、砂川豊丸とコンビを組んだのがキッカケだったという。

 しかし、花月亭九里丸『笑魂系図』には「前名 木村郁夫 初め映画説明加藤柳美の門下より司会、漫談、俳優を経て漫才となる」とあり、経歴に齟齬が生じている。

 逸朗は曾我廼家五一郎一座で「曾我廼家小太郎」と名乗った喜劇役者で、渡米の経験もある進歩的な人物であった。

スポーツ漫才の祖

 コンビ結成年は1930年頃。1930年の『都新聞』(10月20日号)に、

▲新興演藝大會 廿日より遊楽館妻之助、惠之助一座の「剣劇レヴユー捕物帳集」和孝、和六、梅昇、張玉、玉七、歌孝等浅草吉原幇間連の「住吉踊」「ゴリラ踊」松木みどり、大倉光子の「舞踊」日出丸、日出夫、春之助、逸郎、大正坊主、砂川花子、歌狂樂、大津お万、立美二郎出演

 とあるのが確認できる。

 時事漫才の他に、当時流行していた映画やスポーツを巧みに取り入れた「スポーツ漫才」を創始し、人気を得た。

 1931年には既に一枚看板でやっていたらしく、『都新聞』(1931年4月11日号)に、

帝京座で野球萬歳を演つてゐる大道寺春之助と天津城逸郎、野球シーズンに入ったので益々馬力をかけてゐるのがお目にとまったと見え、日本発聲映画の「物言はぬ花」の中の野球放送の場面でアナウンサーとして吹き込むことを頼まれ、大馬力で放送したといふが、これですっかり自信を得て、真似ではつまらんから本物をやらう、さしづめ今の早慶戦は是非我々でと、野心満々たるものがあるとか

 岡田則夫氏が聞いた話によると、このコンビは「ボクシング漫才」を始めてやったコンビだそうで、多かれ少なかれ他のコンビにも影響を与えた、という。昭和の爆笑王、横山エンタツや中田ダイマル・ラケットも拳闘漫才をやっているが、どこかで着想を得たという可能性もある。

 スポーツ漫才はすぐさま人気を集めたそうで、1931年夏には吉本に呼ばれ、花月などに出演している。『上方落語史料集成』を見ると、

八月十日より
△南地花月 鶴二、小雀、升三、勇・清・クレバ、千橘、直造、春団治、エンタツ・アチャコ、逸郎・春之助、筒井徳治郎。余興「人生双六」(小円馬・千橘・花治・染治・延若・染子・金の助・栄枝・枝雀・光鶴その他女連)、「銅像」(エンタツ・アチャコ・金の助・蔵之助・小円馬・延若・春団治・千橘)、「大阪行進曲」(小円馬・延若・枝雀・鶴蔵・花治・静子・栄枝・弓子)、「片袖」(金の助・福団治・円枝・春団治・小春団治・延若)

 とあり、9月も出演を続投。

九月一日より △新京極富貴 円馬、延若、円枝、三馬、助六、三八、正光、直造、アチヤコ・エンタツ(兵隊漫才)、六三郎・紫郎、(スポーツ小万歳)、逸郎、春之助、筒井徳二郎(欧米漫談)。

九月十九日より △南地花月 小雀、升三、扇遊、円馬、逸郎・春之助、千橘、春子・正春、円枝、九里丸、西村楽天、枝鶴、エンタツ・アチャコ、小春団治、直造、春団治。

 とある。

 また、スポーツ漫才を開拓すると同時に、相手を叩いたり殴ったりしない、動きと話芸だけで笑いを取ろうとする近代的な漫才も模索していたようで、『漫才銘々傳』(都新聞・1935年8月17日号)の中にも、

このコンビで取上げていい話にかういふのがある、早い頃、小笠原長幹伯の催しに呼ばれて例のやうにやってみたら、舞臺近い所にゐた来客の坊ちやんが、 「あの人はどうして、もう一人をあんなにポンポン叩くんでせう」と呟いた、二人が頭を叩かぬ漫才をやるやうになつたのはこれ以来だ

 また、1934年頃から数枚レコードを出している。確認できるものをあげると――

 1934年7月、タイヘイより「お國訛り」(4636)。

 1934年8月、タイヘイより「蛙の研究」(4695)。

 1934年10月、ビクターより「旅の御難」(10203)、タイヘイより「酔ってみたいネ」(4819)。

 1934年11月、タイヘイより「夢の散財」(4879)。

 1934年12月、ビクターより「写真結婚」(10217)、タイヘイより「僕の結婚」(4879)。

 1935年1月、タイヘイより「お国訛り」(4908)。

 1935年2月、タイヘイより「兵隊の魚屋」(4959)。

 1935年6月、タイヘイより「家庭争議」(15039)。

 1935年7月、タイヘイより「謎のエチオピア」(黒15081)。

 1935年8月、タイヘイより「ヨタ競べ」(15126)。

 1935年9月、タイヘイより「六大学卒業」(15156)。

 1935年10月、タイヘイより「僕の雄弁」(15176)。

 1935年12月、タイヘイより「銀ブラ流線型」(15193)。

 1936年1月、タイヘイより「あの道この道」(15248)。

 結構な枚数である。また、ラジオにも進出し、1934年7月12日、『なんせんす万歳 夏の遊びは苦しいです』でラジオ初出演。

 1935年、帝都漫才組合発足に関与し、大道寺春之助は幹部になっている。

 1938年にコンビ解消。『都新聞』(1938年10月6日号)に掲載された『呑氣な商賣に悩み在り漫才に夫婦別れ續出 笑いの世界に笑へぬ悲劇』の中に、

これも前三組(註・日出丸日出夫、マンマルシカク、一丸源一)と共に帝都漫才組合の理事でインテリ向きだつた大道寺春之助と天津城逸郎がこれをやり、先づ大道寺が美津谷八重子といふ今度は女の相手を得てやり出せば、天津城の方は、細君等と共に三人漫才で行かうとしてゐる、このほか餘り名の知れない所をあげれば可なりありさうだが、名の賣れたコンビだけあげても以上のやう四組もあるのである

 と、ある。

 逸朗は妻の文恵とコンビを組み、春之助はコンビを転々としたのち、戦後、大江茂とコンビを組んで、凸凹ボップ・ホープとなる。 

 1940年、春之助は帝都漫才協会の副会長に就任し、戦前の東京漫才を支えた。

 1955年設立の漫才研究会にも関与をし、春之助は幹事に就任している。暫くしてコンビ解消をした春之助は木村郁夫に戻り、一九五七年には関西の漫才師、松原勝美とコンビを組んでやっている。

 一方の逸朗は戦後一時期までやっていたが、引退した。岡田則夫氏によると、埼玉県越谷で隠棲していたそうで、波多野栄一と共に彼の家を訪ねたことがあるとの事。

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