大道寺春之助・天津城逸朗

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大道寺春之助・天津城逸朗

右・逸朗 左・春之助

 人 物

大道寺 春之助

 ・本 名 木村 郁美?
 ・生没年 1908年~没
 ・出身地 関西?

天津城 逸朗

 ・本 名 天津城?
 ・生没年 1900年代~没
 ・出身地 埼玉?

 来 歴

 スポーツをテーマにした漫才を得意としたコンビである。現在、野球モノマネやお笑いプロレスなど、多くの芸人が行っているが、その先駆けというべき存在かも知れない。永田キングと双璧である。

 中でもボクシングをモデルにした「拳闘漫才」を得意としたのはこのコンビが最初ではないか。エンタツ・アチャコやダイマル・ラケットなど往年の爆笑王も得意とした芸を作ったコンビ、と考えてもおかしくない。

 その割に資料は少なく、よくわかっていないコンビである。判る範疇で書いていくので、ご了承願う。

 ・漫才以前

 『都新聞』に掲載された「漫才銘々傳」に詳しい経歴が出ているが、結構長いのでかいつまんで紹介することにする。

 春之助は曾我廼家小一郎(師匠無し)と名乗ったのを振り出しに、喜劇役者として全国を巡業していたが、樺太で御難に遭い、豊原市で活動弁士に転向。菊田美水と称し、地元の映画館で活躍していた。

 一九二三年、再起をかけて、帰京しようとするが震災で御破算。樺太で弁士を続けていた所、巡業に来た竹の家雀右衛門と出会い、意気投合。

 一座に飛び込んで全国を巡業する。後年、上京して「昭和喜劇団」なる一座を結成する傍ら、漫才にも挑戦し、砂川豊丸とコンビを組んだのがキッカケだったという。

 しかし、花月亭九里丸『笑魂系図』には「前名 木村郁夫 初め映画説明加藤柳美の門下より司会、漫談、俳優を経て漫才となる」とあり、経歴に齟齬が生じている。

 逸朗は曾我廼家五一郎一座で「曾我廼家小太郎」と名乗った喜劇役者で、渡米の経験もある進歩的な人物であった。

 ・スポーツ漫才の祖

 コンビ結成年は不明であるが、一九三三年の広告、一九三四年にはレコードを、一九三五年に行われた東京漫才の大会に出ている所を見ると、昭和ひと桁台にコンビを結成した模様か。

 時事漫才の他に、当時流行していた映画やスポーツを巧みに取り入れた「スポーツ漫才」を創始し、人気を得た。また、春之助は帝都漫才協会の副会長に就任し、戦前の東京漫才を支えた。

 岡田則夫氏が聞いた話によると、このコンビは「ボクシング漫才」を始めてやったコンビだそうで、多かれ少なかれ他のコンビにも影響を与えた、という。昭和の爆笑王、横山エンタツや中田ダイマル・ラケットも拳闘漫才をやっているが、どこかで着想を得たという可能性もある。

 戦時中にコンビ解消か。逸朗は妻の文恵とコンビを組み、春之助はコンビを転々としたのち、戦後、大江茂とコンビを組んで、凸凹ボップ・ホープとなる。

 一九五五年設立の漫才研究会にも関与をし、春之助は幹事に就任している。暫くしてコンビ解消をした春之助は木村郁夫に戻り、一九五七年には関西の漫才師、松原勝美とコンビを組んでやっている。

 一方の逸朗は戦後一時期までやっていたが、引退した。岡田則夫氏によると、埼玉県越谷で隠棲していたそうで、波多野栄一と共に彼の家を訪ねたことがあるとの事。

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