大津検花奴・菊川時之助

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大津検花奴・菊川時之助

(引用 國學院大學 招魂と慰霊の系譜に関する基礎的研究

  人物

大津検 花奴おおつけん はなやっこ
・本 名 角田 政子
・生没年 明治37年/1904年1月14日~昭和63年/1988年2月22日
・出身地 島根県松江市

菊川 時之助きくかわ ときのすけ  
・本 名 角田 喜之助(旧姓 箱井)
・生没年 明治37年/1903年1月1日~昭和63年/1988年2月27日
・出身地 東京都築地

  来歴

ご遺族の南条マキ氏より、貴重な証言をいただきました。
ご協力、ありがとうございます。

 大津検花奴というと、安来節のスターとしての側面が強く、いまこの人たちの名前を見る機会と言えば、安来節の研究書の方が圧倒的に多いので、初期の漫才師として括るのは些か疑問の残る所である。

 しかし、当時漫才と強く密着していた安来節に身を寄せていたこと、レコード吹込みを行ったこと、また漫才師としても相当の実力を持った人気コンビであったことなどを踏まえると、初期の漫才師として活躍した方なのではないだろうか。

 時代が前後する事があるが、ひとつの記録として見ていたければ幸いである。

 ・漫才以前

 お話によると、時之助は築地の大店の若旦那だったそうで、若いころから道楽好きというお決まりの形。一方の花奴は松江に生まれ、出雲の花街で、美貌と芸達者な芸妓として売ったという。

 花奴は渡辺お糸(年齢からいって初代であろう)に師事して、安来節を取得した。明治の終わりから昭和にかけて、安来節は空前絶後のブームを迎えており、現在のアイドルのような扱いを受けた歌い手も存在した。中でも渡辺お糸はその先駆けのような存在で、一地方の俗謡であった安来節を全国区に広めた功労者としても知られている。

 顔も声もよく、安来節もうまい花奴が人気を集めたのも無理はないだろう。なお、ほぼ似たような境遇の人に、これもまた安来節の大看板で、漫才師の大和家八千代がいる。

 その後、花奴は常盤座や帝京座の「安来節」の一員として舞台に出るようになり、その美貌と達者さから瞬く間に人気者になった。

 1922年8月18日付の朝日新聞の広告を見ると、その時点で花奴は看板だったと見えて、「安来節大会」のレギュラーとして活躍している。

 そんな二人が、どこで出会い、どういうきっかけで結ばれたのか、ご遺族も分からない様子であったが、話によると、「駆け落ち」の末の結婚だったという。

 結婚が先か安来節公演が先か、はっきりとしないが、推測の筋道を立てるとするなら、芸事の好きな若旦那の時之助が、浅草で人気を博していた花奴と親密になり、二人は周りの目や舞台、仕事などをなげうってまで、駆け落ちをしたと考えるのが、「自然」というものか。

 ・東京漫才の人気者

 この二人がいつ頃漫才に転向したのかは分からないが、1933年時点にはもう漫才をやっていた模様で、

昭和八年四月・五月
四月三十日〜 中座

エロス座・白鳥座・喜劇座合同競演

○「特別余興連は花奴と時之助、静代と文男、玉枝に成三郎、一春と団之助、おもちや、セメンダルに小松月、龍光、幸児と良知、小金と小三、久栄に橘弥小太郎等の陣立である。」(「京都日出新聞」5・2)

(「近代歌舞伎年表京都篇 第九巻」360頁)

 なる記録がある。しかも、この時点でそこそこの看板だったことを見ると、さらにその前から漫才をやっていたという事になろうか。また、上記の写真は1938年10月、靖国神社の慰霊祭の折に撮られたものである。写真や出演者を照らし合わせると、どうやらこの時には東京漫才の担い手の一組だった模様である。

 しかし、これ以上に詳しい事はよくわからない。大体、当時の漫才を詳細に伝える資料はなかなか見当たらない上に、もし、あったとしても「万歳十数組出演」などと一括りにされる傾向があるので、何処に誰が出ていたかは判別のしようがないのである。

 それでも人気があったのは事実だそうで、花奴の美貌と毒舌、時之助の見事な技芸は魅了するものがあったと見えて、波多野栄一も、

大津検花奴 時之助

安来節のスタァで美女で粗雑な言葉で男は太鼓を打ち曲もやる賑かな芸でよく売れた

(「寄席といろもの」より)

 と、回顧している。因みにこの一文が書かれた時には、まだ二人は健在であったことを付け加えておく。

 なお、その頃の出演の記録はいくつかあるが、余りにも断片的すぎるので、目下調査中としておこう。また、戦時中は慰問に出たり、漫才大会などに出ていたという事はチラホラと伺ったが、こちらも調査中である。

 また、人気者だった証明として、当時では珍しかったレコード吹込みをやっている。「蒐集奇談」を覗くと、

●大津検花奴・菊川時之助

 大津検花奴は安来節からの転向。オーゴンに「身の上ばなし・混線放送局」(A73)、トンボに「恋愛神聖・カフェー情話」(15589)がある。
なお、花奴の安来節時代の盤は、ニッポンノホン、トーキョーに10枚ほどある。

(「レコードコレクターズ」 平成7年6月号 91頁)

 なる一文がある。ちなみにこの一文の前には、東喜代駒、桂金吾・花園愛子、宝家大坊・小坊、朝日日出夫・日出丸と錚々たるメンバーがそろっている。

 ・世界を旅する夫婦漫才

 1945年の敗戦と共に廃業や転向をせざるを得なくなった漫才師が多い中、この二人は焼野原になった浅草を中心に活動を続けていた。

 その間、どんなことをして食い繋いでいたのか、ハッキリとしていない。推測であるが、米軍キャンプの慰問や進駐軍関係の仕事をやっていたのではないだろうか。もっともご遺族は「米軍キャンプは親よりも自分の方がよく行った」というような事を仰られていたが――

 しかし、戦後直後、二人は大きく飛躍したのは事実である。何と二人は日本をとび出し、ハワイを中心とした海外公演の旅に出ることとなった。しかもそれは、まだ戦争の残り香の漂う昭和20年代の後半から30年代の、渡航さえままならぬ時代の話である。

 二人と海外渡航という、普通に過ごしていたならばまず結びつかないであろう複雑怪奇なるルートがどう出来上がっていたのか、いまでこそ知る由もないが、とにかく、この二人の芸を高く評価してくれた外国人やパトロンがいたのは本当だそうで、どうやらそこが話をつけてきたようである。

 そして、夫婦二人は子供の養育費や生活費を稼ぐため、身を呈して異国の地へと旅立っていった――などと書けば、しがない旅芸人の哀しみの別れ、などという感じのストーリーが一本出来そうなものであるが、このコンビの出演先はハワイの高級クラブであり、豪華客船内のステージであり、と当時の日本人としては中々の待遇の良い職場であったという。

 そう考えると、この二人の出演先がいい所だと分かった途端に旅芸人らしい悲劇味が薄くなるのは、恵まれすぎているのか、ストーリーが悪いのか。それは私にもわからない。

 不慣れな異国の旅であり、言語の問題や当時まだ根強く残っていた黄禍論など、多くの障壁が、彼らの前途の前に立ちふさがったのは言うまでもないが、そこは芸人である。

 昔取った杵柄とかなんとやら、和風ナイズされた独特の曲芸と三味線音楽を応用させ、日本の芸、日本の芸人という誇りを捨てることなく、異国の文化とがっぷり四つを組んだ。

 結果として、その策略は正しかった。ハワイにやって来た時には「ハワイ報知」で大きく取り上げられ、多くの日系人の注目を浴びたのを発端に、アメリカの高級クラブ「クラブ銀座」と専属を結んだり、豪華客船内での余興に呼ばれたり、と忙しく奮闘を重ねる日々を過ごしていたという。

その頃の活躍を示したものとして、以下のような記事がある。

 漫才の時之助、花奴「クラブ銀座」に出演

“もみじ演藝團”の松尾和歌子(三味線)、若狭千歳、若狭直美(舞踊)、今夜空路渡米、ロサンゼルス、都ホテル地下の”銀座”に出演することとなつた。
また、菊川時之助、大津検花奴(漫才)はホノルル、カレッジ・ウォークの”クラブ銀座”に出演する豫定である。曲藝の柳家小志んとし松父子はあすのP・ウィルソン號で歸国する。

(「THE HAWAI HOCHI」1955年11月29日号 5頁)

 その直後、「クラブ銀座」で約半年ほど出演した模様であり、帰国する際の記事がやはり残っている。

 今夜ウイルソン號で六観光團渡日 寶塚や根路銘さん歸國

今十四日(土)夜十時出帆のAPL客船P・ウイルソン號で次の通り六つの観光團が櫻の春を目指して渡日する。(カッコ内は團長)
△渡邊観光團(渡辺巌喜)
△玉那覇観光團(玉那覇忠雄)
△ホノルル訪日團(河野義雄)
△松本観光團(松本國年)
△興梠観光團(興梠算人)
△宮里観光團(宮里昌平)
なお同船では『櫻祭り』に来た寶塚歌劇團や琉球舞踊の名手で今度日活へ入社する根路銘房子さんが歸國する。
また、クラブ銀座で出演大好評を博した漫藝の菊川時之助、大津検花奴夫妻は今夜のP・ウイルソン號で歸國するが、出發に際してハワイに一ヶ年滞在中受けた多大な愛顧に對し感謝している。

(「THE HAWAI HOCHI」1956年4月14日号 2頁)

 異国の地で大変なことも多かったであろうが、戦後、異国で専属契約を結んで芸を披露していたという記録は、海外渡航をした芸人たちを追う研究の上では、なかなか貴重なものではないのか。しかも、数年前までは敵国であったところにあるクラブの「専属」だったという点は、大津お萬の渡米やアヅマ・カブキなどと共に、もっと強く取り上げるべきではないだろうか。

 ・いつまでも二人で――

 海外渡航後も、二人は木馬館や浅草の寄席などで淡々たる舞台を見せていた。一応テレビ出演には間に合った一組であり、1964年11月にサンケイホールで開催された「東京漫才変遷史」にも出演を果たした。

 無事に還暦を迎えた二人は、これを機に舞台から足を洗い、悠々自適の老後生活へと移行した。その背景には子供たちの勧めがあったそうで、育ててくれた恩返をありがたく受け取ることになった、とでもいうべきか。

 その晩年は、全く悠々自適で穏やかな晩年だったそうで、子供たちの子供――即ち、自分たちの孫の面倒を見たり、好きなテレビを見たり、時には出かけたり、と一昔前の理想的な老夫婦の生活そのままだったそうである。

 なので、その晩年は殆ど資料がなく、語ることも何もない。芸道という視点で見れば、早くドロップアウトして、安泰を求めた人々と解釈できないこともないが、人間的な幸福で測るならば、売れない芸にすがり惨めに暮らした人々よりもよほど幸せではなかったのではないか。

 東喜代駒然り、桂金吾然り、玉子家源一然り、晩年、芸能界から一線を退いた人の方が幸せそうに見えるのは、ある意味で芸道の難しさと芸界の儚さを暗示しているのかもしれない。

 幸せな老後を過ごしたのち、二人は立て続けに冥土へと旅立った。聞く所によると、花奴が先に亡くなり、その五日後、時之助も妻の後を追いかけるという奇跡に近いようなものだったという。

 確かに最後まで仲のよかった夫婦の事、死ぬときも一緒と言わんばかりの愛が存在しているように見えるが、やはりご遺族の話だと「大変だったのよ、これが」。五日違いでは、葬儀もお別れもゆっくりしていられないであろう。やはり人の死とは何とも難しいものである事よ。

  芸風

 「豪華客船内で至芸を見せる」

 二人の漫才は曲芸と音曲を基盤にした所謂「万才」の名残をとどめるものであったそうで、芸尽くしで客を圧倒させるのが売りであった。

 花奴は出雲時代に鍛えた喉と三味線を聞かせ、時之助は曲芸や鳴物を得意としたというのだから、共に芸の虫である。

 しかし、時之助はこんな技芸をどこで覚えたのだろうか。その事は、ご遺族も存じ上げていなかった。アマチュアジャグラーというものを考えると、独学で覚えた可能性も否定できないが、誰かについていたのかもしれない。

 松浦善三郎は、このコンビを以下のように評している。

 大津検花奴 時之助

一月三週号で書いた荒川芳勝と同じく此のコンビも旅に出掛けない限り、ほとんど浅草のどこかの舞台でいつも賑やかな笑いを振りまいている。花奴の達者な三味線で時之助が腕におぼえの変った曲芸を見せるが之も対照的には「観せる漫才」。戦後一時ジャグラ漫才などゝ云われていたが、しいて区分すれば音曲の部ではあるまいか。お目当ては花奴の伴奏で障子やらツイタテやらを立て、時にはビールビルの曲芸も見せる。丸一の曲芸としては左程至難なものでは無い筈だろうが、なんとなく舞台が派手だから見栄えがする。最近はどうか知らないが、古びたブリキの茶筒などを鼓の気持ちで小わきに抱えて、花奴の三味線と合奏をやる事があるが変った着想に拍手がわく。
二人共洋服のスタイルが良く、連れ立って歩いている後姿は先ず渡米した一世が母国の盛場をそぞろ歩きしている感じで、とても才界人とは思えない位。それが舞台はシャベリから小マメな動きから、全くの江戸風で一種の人を食った小味があるのだから芸能人は面白いと痛感する。
深いつきあいは悪いが「大蒙にへつらわず小節も曲げず」の概ありと云つたらほめすぎだろうか?

(「アサヒ芸能新聞」1954年2月3週号 11頁)

 なお、茶筒の芸は時之助の創作ではなく、古くからある音曲のネタの一つであった。戦後はこのコンビ、それに大阪の本田恵一・玉木貞子が十八番として主にやっていた。

 鏡味健二郎氏に話を伺ったところ、「この人(時之助)は掛合が終わると、傘の曲芸をしたのを覚えている」と、仰っていた。

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