リーガル天才・秀才

リーガル天才・秀才

リーガル天才・秀才(右)

リーガル天才・秀才(右)

リーガル襲名式
右から徳川夢声、都上英二、秀才、天才、千太、万吉

人 物

 人 物

 リーガル 天才てんさい
 ・本 名 曾我 忠一
 ・生没年 1924年2月26日~2004年12月22日
 ・出身地 東京

 リーガル 秀才しゅうさい
 ・本 名 高橋 章
 ・生没年 1926年10月29日~2008年10月10日
 ・出身地 東京 滝野川

 来 歴

 巧みなユーモアと、独特な視点から切り込んだ時事漫才をぶら下げて、昭和から平成にかけて第一線での活躍をつづけた「天才・秀才」コンビである。

 リーガルの亭号を継ぐだけあり、その話術は軽妙洒脱。また面倒見の良い性格から、「高峰一門」を形成。多くの東京漫才師を育成した。

天才の前歴

 実家は薬剤師・薬屋だったという。幼い頃から早熟していたそうで、芸人になるべく家出を試みて親に連れ戻されたり、無断で放浪しては職業を転々とするなど、多感な青春を過ごした。

 子供向けの教育本『秀才コース・凡才コース』の中で語ったところによると、

「牛乳配達、ペンキ屋、代々木練兵場を飛行場になおす突貫工事(戦争初期のころでした)の土方(私は飯場の炊事夫としてやとわれた)バクチうちの親方のところで若い衆(イレズミをほってやるといわれいそぎとび出す)料理かっぽう店の下ばたらき、キリスト教会出版部の給仕や職工(徴用のがれのため。このときの記録がもとで、軍隊は自動車技術兵として入隊するはめになる)バーテン見習等々。」

 色川武大顔負けの放浪と遍歴である。

 工学院工業学校卒業後、上記のような浮草生活を経て、芸人を志す。

 1943年、浅草の喜劇団「笑の王国」に入団し、喜劇役者・横山泥海男に師事。同年、浅草常磐座で初舞台を踏んだ。

 初舞台後間もなく戦況が悪化。ホームであった「笑の王国」の活動も制限され、劇場も閉鎖されるようになる。

 それから間もなくして徴兵令が届き、「自動車技術兵」として応召される。工兵の一人として、部隊で働いている所、役者の経歴が上に知られるところとなり、幸いにも(?)演芸慰問団へと回されることとなった。

 1945年春、満州芸術協会に招かれる形で、軍事慰問劇団を結成し、ハルピンを巡業。同地で古今亭志ん生や三遊亭圓生などとも接触があったらしい。

 奉天へ移動した直後に終戦を迎え、座員と共に満州に取り残される。頼みの綱であった満州芸術協会は解散し、甘粕正彦は自決。抑留におびえながら、平安座という劇場を拠点に在留日本人を相手に芝居していた。

 幸い、シベリア抑留になることなく、1947年、引揚船に乗り込み、帰国。

 1948年、劇団「山びこ」を立ち上げ、関東や東北一円を巡業。この頃、後の相方となる秀才と出会っている。数年ばかり各地を回ったが一向にうだつが上がらなかった為、役者を廃業し、有線放送会社を設立する。

 富沢慶秀『「東京漫才」列伝』によると、

役者をやめ、西荻窪で有線放送会社を経営して大成功していた天才を訪ねた。西荻窪商店街を一手に傘下に収めて、街頭宣伝という当時の人気商売にまさしく天才ぶりを発揮していた。

 とある。

 この頃、岡澤阿字子と出会い結婚。阿宇子の父親は那珂良二というSF作家である。余談も余談であるが、阿字子は、同人誌『天狗』で、小説を書いていたことがある。蛙の子は蛙というべきか。

 1952年、かつての座員であった高橋章と再会。相談の末にコンビを組み、漫才師に転向。「坂東天才」と名乗り、試験的に舞台や寄席へ出演するようになった――というのが定説である。

 しかし、秀才とコンビを結成する前に、大空はるか(大空曇天か?)と漫才コンビを組んでいた事があったそうで、真山恵介『寄席がき話』の中に、

大空ヒット門のはるかと離れて現在の秀才とコンビになったのが昭和二十八年。

 とあり、「大正テレビ寄席の芸人たち」などの書籍でも、この説がとられている。この時期の事は情報が入り乱れており、どこまでが正しいのか判別がつかない。

秀才の前歴

 父親は都庁の役人を勤めており、非常に厳格な家庭で育った。父親は、良くも悪くも仕事一徹の人で、芸人など絶対に許さないタイプの人間だったそうで、そんな父を秀才は、畏怖交じりに見つめていたという。

 そんな厳格な家庭に生まれたにもかかわらず、幼い頃から映画や演芸が好きで、親に内緒で寄席や映画館に通い詰める日々を送る。

 芸人になる夢も覚えたものの、それを打ち明ける事ができるはずもなく、また出世を望む親の命には逆らえず、都立王子工業高校へと進学。

 好きでもない工学を学んでいる途中で、戦争が勃発。工員という形で学徒動員と職業訓練校に通う日々を過ごす。

 1945年4月13日、東京大空襲に罹災。危機は逃れたものの、学校も職場も焼かれ、行く当てがなくなってしまった。それから間もなくして終戦、訓練校も辞める。

 当人は『秀才コース・凡才コース うちの子の未来』の中で、戦争に勝っていたら好きでもない工学をやって、ロケットを作っているかも知れない、と語っている。

 1945年8月15日、敗戦に伴い、学徒動員生活から解放される。

 あれだけ厳格であった親も敗戦のショックはあったらしく、子供たちに「これからは好きなことをやっていい」と宣言。言質を取った秀才は、小学校の同級生と共に千秋実主宰の『劇団薔薇』へ入団した。

 この千秋実の劇団で、役者のイロハを覚え、舞台に出演するようになる。

 1947年、曾我忠一の主宰する『劇団やまびこ』に誘われて、入団。千秋実の劇団時代から曾我とは面識があったという。

「劇団やまびこ」では、曾我の相手役として、『瞼の母』などチャンバラ劇に出演。関東一円の田舎を回ったが、鳴かず飛ばずの御難に遭い、一座解散。

 曾我忠一と一旦別れて、帰京。当時再開しはじめていた東宝映画の仕出しとして入社し、『きけわだつみのこえ』や『また逢う日まで』などの映画のエキストラとして参加したものの、大役につく事はなかった。

 売れない役者として不貞腐れたような生活を送っているところへ、知り合いのキャバレー支配人に誘われ、会計担当者として就職。

 暴力団や愚連隊、訳ありの客を相手にする集金係に回されるが、劇団時代に鍛えた胆力が物を言ったのか、見事に集金をこなして注目される。

 その実力が他でも聞こえるようになったと見えて、他のキャバレーの集金係として、引き抜かれる。そこでは相当の高給と待遇を得ていたそうで、このまま楽に暮らせるものであった――という。

 金も地位も得たが、漠然としたサラリーマン生活に虚しさと限界を感じ2年で退職、一線を退いた。

 1952年頃、人伝でかつての同僚であった曾我忠一の存在を知り、西荻窪の家を訪ねる。今後の相談や夢を語り合った末に、「曾我天才・坂東秀才」のコンビを結成する事となった。

若手漫才師として

「曾我天才・坂東秀才」としてデビューした後は、余興や演芸会などでネタや漫才の行き方などを模索する日々を送った。

 1953年1月、帝国劇場で行われた関東漫才大会を見物。この時、漫才の持つ迫力と人気、トリに出たリーガル千太・万吉の話芸に感銘を受け、本格的なスタートを切った。

 以来、リーガル千太・万吉を私淑する形で話術を磨き、認められる為の努力を重ねるようになる。

 1955年、漫才研究会発足に伴い、入会。初期メンバーとして名を連ねる。

 1956年3月、都上英二・東喜美江の推薦を得て憧れのリーガル千太・万吉門下へ移籍。「リーガル天才・秀才」と改名。『読売新聞夕刊』(1956年3月28日)に

△漫才の曽我天才・坂東秀才は都上英二・東喜美江の推薦によりリーガル千太・万吉の門下となり、リーガル天才・秀才と改名した。

 とある。

 リーガル千太・万吉の戒めに従って、司会漫才にも巡業にも参加をせず、東京の舞台だけで勝負をする地道な活動を続けて実力を磨いた。

 1956年、第1回NHK漫才コンクールに出場。『西部へ行く』を披露して第3位。

 1958年春、第3回NHK漫才コンクールで優勝。コンクール優勝を機に、大きく飛躍し、高度経済成長にまつわる公害問題や社会問題などを中心とした時事漫才を展開。『東宝バラエティー』『大江戸紳士録』『お昼の演芸』などのレギュラーを持ち、全国的な知名度を得た。

 売り出し当時は『ピンぼけ○○』と冠したネタを披露するのが特長的であった。

 もっちゃりとして悠長に喋る天才と、おっとりとして少し早口に喋る秀才の対比や千太・万吉譲りの話術は高く評価され、トップ・ライトとはまた違う時事漫才の領域を開拓した。

 特にサラリーマンや女性風俗を狙ったネタや話術は天下一品で、艶のある語り口は高い評価を受けるところとなった。

 また、漫才界きっての理論家としても知られ、漫才をビジネスと割り切るために、家族を交流させない、相方の関係に干渉しない、思い描く漫才に向かって努力をする、時事ネタを得るために新聞を隅から隅まで読み通り、発声練習や舞台稽古も怠らないなど、独特の美学を持っていた。

 一方、その理論的な考えが、時に反感や誤解を招くこともあったそうで、漫才研究会で大阪殴り込みをかけた際、大阪の客に総スカンを受けたのは、この二人の理知的な発言や皮肉が、大阪の客の機嫌を損ねたという伝説さえある。

 然し、そんな努力家な人柄は東京漫才界に欠かせない逸材であり、早くから幹部候補生に就任。

売れっ子漫才師

 1960年6月14日、都上英二会長就任に伴い、天才は理事に就任。『産経新聞夕刊』(1960年7月5日号)掲載の『漫才ばなし』に

ここで、リーガル万吉の会長辞任が承認され、あたらしく都上英二が新会長にえらばれたのである。ちなみに、副会長は従前通りコロムビア・トップ、理事長は大空ヒット、理事は松鶴家千代若、橘エンジロ、新山悦郎(えつろう)、リーガル天才、獅子てんや、木田鶴夫、内海桂子、天乃竜二、大江笙子、浅田家彰吾(しょうご)、晴乃ピーチク、大空平児の十二人。会計が春日章(あきら)会計監査がコロムビア・ライト。顧問は林家染団治、隆の家万竜がそれぞれ就任した。

 以降、秀才も追う形で理事入りを果たし、東京漫才の幹部になったのは言うまでもない。更にコロムビアトップ会長就任後、天才は理事長へと就任している。

 1967年4月22日、秀才は自動車事故をおこし、右足を骨折。全治3ヶ月の重傷を負った。

 1970年秋、放送業界の杜撰で芸人軽視のやり方に憤慨した二人は、テレビラジオでは本業の漫才を演じないと宣言。テレビ時代の中での反抗として賛否両論が繰り広げられた。

 以下はその宣言を報じた『読売新聞夕刊』(1970年10月15日号)の記事。

漫才コンビ歴十七年のリーガル天才・秀才が、テレビやラジオでは本業の漫才をやらないと宣言した。文書には「昨今の風潮は特に演芸界にあっては芸の不在、しろうと歓迎、専門家の間ですら芸の理解者が減少する一方、この現状にては到底融通のきかぬ私共にはついてゆく神経も気力もなくなりました」とある。
天才自身に聞くと「二、三分で漫才をやれ、内容を低次元に落とせなど、局側の注文に合わせていたら自分もこわれるし、芸もなくなる。師匠の千太・万吉の芸の継承という責任もあるので、漫才は舞台のみでやる」ということだ。

 以来、東宝名人会や松竹演芸場などの舞台や劇場のみで活躍

 但し、宣言こそしたものの、きちんとした待遇をする演芸番組や所定の時間をきちんと設ける番組(NHKの演芸番組)、舞台中継などといった番組には出演している様子が伺える。完全な出演拒否というわけではなかった。この辺りも柔軟な思考の故の決断といえるだろうか。

 1974年頃、天才は日本演芸家連合副会長に就任。長年の夢であった国立演芸場建設運動の音頭取りの一人となり、会長の木村若衛や理事・三遊亭金馬等と共に文化庁や政治家、関係者を説得に回った。

 その地道な活躍が実を結び、1979年3月、国立演芸場開設。功労者の一組として、国立演芸場こけら落とし公演、3月24日夜の部に出演した。以来、国立演芸場は貴重な拠点として、新作発表会や定期的な出演に応じた。

 1977年、天才は漫才協団の副会長に就任。コロムビアトップ政権の右腕として、東京漫才の運営に尽力した。

 1980年、上演拒否宣言を撤回。再びテレビやラジオへ出演するようになる。

 1982年10月16日、師匠リーガル千太・万吉の追善公演を中野サンプラザで開催。ケーシー高峰を筆頭に、高峰晴々・朗々、高峰青天・幸天、高峰草児・青児、高峰敬天・愛天、高峰和才・洋才など、「高峰一門」が出演。

 この弟子たちは、大きな活躍をつづけ、東京漫才の全盛期に一躍買ったのは言うまでもない。

 1988年12月、同年行われた「第二回天秀会――二人芸コンビコンビ――」の話芸が評価され、第43回芸術祭奨励賞授賞。

 1989年、天才は行き過ぎたテレビの演出や制作に対しての批判と意見を求める「放送問題対策委員会」を設立、長らくテレビ業界に対して、待遇の改善や疑問を投げかけた。秀才も陰ながら協力し、相方の運動をよく理解した。

栄光とその死

 1991年11月、国立演芸場設立やこれまでの活動が認められ、天才に紫綬褒章が贈られる。

 これと前後して贈られた松鶴家千代若内海桂子の受勲もまとめて記念して、1992年11月には「紫綬褒章受章コンビ御三家揃踏み」という漫才大会が開かれたほどである。

 1993年、コロムビア・トップの後を受けて、天才は4代目漫才協団会長に就任。低迷する東京漫才をよくまとめ、若手漫才の確保や育成に尽力を注いだ。

 1997年、天才は春の叙勲で勲四等宝冠章を受章。名実ともに東京漫才の頂点に上り詰めた。

 漫才コンビ歴40年も突破し、大御所としての活躍も見込まれた矢先、パーキンソン病に罹患していることが発覚。歳をとるにつれ、手足が震える、声が出ないといった、発作や症状に苦しめられるようになる。

 リハビリ生活を送る傍ら、できるだけ舞台出演を続けていたが、病気や老齢で行動が制限されるようになり、名誉職からの撤退を決意。

 1998年、漫才協団会長の座を内海桂子に譲り、日本演芸家連合の活動も一線を退いた。

 相方のサポートや体調にあったネタを活用しながら、コンビ活動を続けていたが、2000年9月15日、埼玉県上福岡で行われた敬老会の舞台で転倒。当初はギャグかと思い、秀才も客も大受けであったが、天才が「起こしてくれ」と呻いたことにより、その病気の進行が露見する形になってしまった。

 この一件以来、天才は完全に一線を退き、闘病生活に入る。もう一度舞台に立って、コンビ結成50年の復活を志したが、難病には敵わず、2004年12月22日、パーキンソン病のため死去。

 相方の死後、秀才はコンビ解消を名言。葬儀の直後、すべての仕事を終えたと悟ったのか、弟子の和才に向かって「俺は葬式をしない」と語った――『読売新聞夕刊』(2009年1月6日号)にそう記されている。

 天才死後は漫才協団の長老として発展を見守る傍ら、司会や漫談、漫才時代の思い出をまとめた講演などで活動を続けた。この頃よりヒゲを伸ばし始めるようになり、それが一つのトレードマークとなった。

 また、秀才は、芸能界きっての将棋好き、棋士として知られ、1976年には日本将棋連盟より三段に認定されている。その為、そちらの仕事やエッセイなどを受け持って、晩年まで活躍。

 出来る限りの仕事をこなし、芸能界の長老として尊敬をされたが、2008年7月、「声が出ず、長く立っていられない」と引退を漏らすようになり、折しも依頼が来ていたSMAPとのCM共演を断った――と、『読売新聞夕刊』(2009年1月6日号)の追悼記事にその顛末が掲載されている。

 引退をする直前で心不全に倒れ、死去。生前の約束通り、葬儀は密葬で慎ましく行われ、天才の下へと旅立っていった。

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