Wチャンス(赤城チャンス・青木チャンス)

Wチャンス
(赤城チャンス・青木チャンス)

青木チャンス・赤城チャンス(右)

 人 物

 赤城あかぎ チャンス
 ・本 名 ??
 ・生没年 ??~??
 ・出身地 ??

 青木あおき チャンス
 ・本 名 青木 博志
 ・生没年 1944年4月5日?~2016年11月29日
 ・出身地 熊本県 熊本市

 来 歴

 Wチャンス(赤城チャンス・青木チャンス)は、戦後活躍した漫才師。Wけんじ門下である。青木は後年、チャンス青木と改名し、「浅草の名物芸人」として君臨。ナイツやロケット団が「漫才協会の名物人間」として喋りまくったのは有名である。

 一方、両人共に「年齢・本名を明らかにしたがらないコンビ」だったそうで、四方八方の手を尽くしても経歴が判然としない。ある意味では「芸人に年齢は関係ない」の美学を貫けた最後の人ではないか。

 その姿勢はインタビュー本『ザ・浅草芸人 中二階の男チャンス青木』でも貫かれている。中には「海外旅行の折り、パスポートを覗き見みようとしたら封筒に入っていた」という伝説さえ紹介されているほどである。

 うれし師匠が持っていた青木チャンス時代のプロフィールによると「?年4月5日生れ」とのことらしい。そして享年を逆算すると上のような誕生日が浮かび上がる――のだが、真偽は不明。

 ただ、年齢以外の経歴は結構残っている。

 出身は熊本県熊本市。実家は結構いい所の育ちだったという。弟は銀行の支店長にまでなっている。成績は結構よかったそうで、地元の名門校・熊本県立済々黌高等学校へ進学。

 当時、徐々に話題になっていたバスケットボールの颯爽たる姿に憧れ、バスケットボール部に入るが、当時の青木は極度のあがり症で、練習でも試合でもすくみっぱなし。最終的にマネージャーに回されたという。 

 学校の方ではそこそこ勉強して、九州の名門校・西南学院大学に合格。花の大学生となった。

 大学では演劇部に所属。熊本生れの関係もあってか、仲間からは『ナマリがきつい』と笑われたそうで、何時までも舞台に出してもらえなかったというのだから意外である。

 ただ真面目な人徳を買われて部長になっている。この頃の経験が演じる楽しみの原点になったともいう。

 卒業論文はなんと「アダムスミスの国富論について」というのだから意外。ただ、ゼミの出来は悪く、先生に何度も頭を下げて卒業店をもらった――と『東京漫才列伝』の中で笑っている。

 卒業直前、北陸に本店を構える某名門製紙会社の内定をもらう。

 すぐさま地元の福岡支店に配属となり、営業部へ回された。演劇時代に鍛えた礼儀正しい姿勢とまじめな勤務態度から、成績は上々で、600万稼ぐほどのやり手営業マン。一時は「支店随一の営業マン」と尊敬されるほどであったという。

 数年後、「福岡支店の代表」として、東京支社に転勤となるが、「自分は井の中の蛙だった」と散々思い知らされたという。福岡では随一の営業マンも東京では一介の営業マンにすぎず、自身を喪失した。

 さらに営業の最中に「人身事故」に遭遇し、入院。すっかりと意気消沈した青木は辞表を提出し、サラリーマンを辞めた。

 退職後、「前から好きだった芸人になろう」と志し、落語家・柳亭痴楽に入門しようと決意。

 痴楽の出番を探し、出待ちを繰り返すが、ついに「師匠、弟子にしてください」のひと声がかけられなかった。痴楽は間もなく大阪で倒れ、高座へ出て来なくなってしまう。

 その後、松竹演芸場に出入りし「師匠になるべき人は誰だ」と勉強を続けた。

 1972年、同演芸場で「Wけんじ結成十年記念公演」が開催されたのを機に、「Wぽんじ」の永尾ぽんじと仲良くなり(永尾は宮尾たか志の弟子であるが、漫才師としてはW一門に所属。鹿児島出身でウマが合ったという)、Wけんじと面会するチャンスを得た。

 Wけんじにその礼儀の正しさを見込まれ、入門を許される。ツッコミ役の宮城けんじに配属された。

 宮城はあまりうるさい事は言わず「諸先輩たちの芸を見て、よく話術やネタを学べ」と教えたという。青木は漫才師よりも、アダチ龍光の奇術漫談に惹かれたというのだから、これまた意外である。

 数年、Wけんじの付き人としてしごかれた後に独立。斎藤チャンスという男とコンビを組み、「Wチャンス」を結成。

 ただ、このコンビは長続きせずすぐに別れてしまった。

 コンビ解散後、浅草松竹演芸場に出入りしていた男をスカウトし、「青木チャンス・赤城チャンス」を結成。この名前は、浅草松竹演芸場の支配人だった住田真澄が命名してくれたそうである。

 相方の赤城チャンスは謎が多いものの、元々は「大都映画の下回り」だったという。

 1979年のNHK漫才コンクールの資料をみてみよう。

〈Wチャンス〉青木チャンス・赤城チャンス
師匠はWけんじ。
昭和51年にコンビを組んでのホヤホヤの2人。青木チャンスは『ボクは東けんじ師匠について7年、モタモタしてましたから…今こそのチャンスと思ってます』大映の映画で通行人専門役者の赤城君をひっぱりこむチャンスにぶつかって······チャンスを尊重してWチャンス。
(夢は?)NHKの今日のコンクールに出ることが夢。…ダカラ、一つの大きな夢は成功中とか‼ダカラ…
(夢が破れたら?)…は考えられない!
(マタ…来年…どうぞ‼オシマイ‼)

 一方、『ザ・浅草芸人 中二階の男チャンス青木』では、あるお笑いトリオの弟子だったという。

「あるトリオの弟子として付いてきており、ハゲのくせにうしろにある髪を前に持っていっておっ立てているキャラクター型の芸人だ。話がカタく、見た目もどちらかといえばサラリーマン風の青木とはビジュアルも全然違う。」

 ただ、当時の赤城チャンスと面識のあった人々に「どういう人だったか」と聞いて歩いた事があるが、誰一人とて「印象にない」「素性は知らない」と言っていた。本名も年齢も明らかになっていない。

 いかにも好青年風の青木、モヒカンでコワモテの赤城――という取り合わせが売り物だったようである。

 赤城チャンスとコンビ結成後、木馬館で初舞台を踏んだ――と、はたけんじ氏より伺った。「青木君から見に来てほしいといわれたので見に行った」との由である。

 1978年3月3日、第26回NHK漫才コンクールに出演。

審査員=玉川一郎・神津友好・住田真澄・コロムビアトップ・平田馨(NHK)
ゲスト=松旭斎八重子 
星セント・ルイス(昨年度最優秀賞)
司会=生方恵一アナウンサー
「野球の詩」青空ヒッチ・ハイク
「どちらが犯人」青空ピン児・ポン児
「もしも……」東京丸・京平
「別れは悲しい」大空あきら・たかし
「湯島の白梅」春日富士松・雪雄
「漫才誕生」桂光一・光二
「三太・良太の一年生」さがみ三太・良太
「聖者のような人だった」高峰和才・洋才
「ツービートの少年時代」ツー・ビート
「ファッションショー」W・チャンス

 出演者だけ見ていると、凄まじい顔ぶれである。まさに漫才ブームを担った関係者ばかりである。しかし、優勝は出来ずに敗退。

 1979年3月2日、第27回NHK漫才コンクールに出演。当時のパンフを見てみよう。

審査員=江国滋●神津友好●住田真澄●コロムビアトップ●閑谷雅行(NHK)
ゲスト=東京コミックショウ
東京丸・京平(昨年度最優秀賞)
司会=原善三郎アナウンサー
青空ヒッチ・ハイク「釣の天才」
青空ピン児・ポン児「何が大切」
東京助・玉助   「僕たちの予算管理」
大空あきら・たかし「ここに現代がある」
春日富士松・しげる「シャレ落ち夫婦喧嘩」
桂光一・光二   「どうなってんの?」
高峰東天・栄天  「ほめ方心得帳」
高峰和才・洋才  「応援席のお嬢さん」
Wチャンス    「僕の自慢」
ツー・ヤング   「ザ・ヒットパレード」

 その後は主に司会漫才で活躍。歌謡ショウに参加して、各地を歩く日々を送っていた。また、東北の地方局でレギュラーを持つなど、待遇こそは悪くなかった。

 そうした日々の中で相方が不義理を犯し、コンビ解散の憂き目に遭遇した。

 当人が『ザ・浅草芸人 中二階の男チャンス青木』で語った所によると、「2ヶ月の契約で行った能登のホテルで、相方が女風呂覗きで捕まった。さらに余罪を調べると下着泥棒までやっていた。」そうで、すぐさま浅草にこれを知らせると、「アイツの手癖の悪さは本当だったのか」と関係者が激怒。

 いわく、赤城の盗み癖は浅草界隈でも知られていたそうで、「アイツが来ると物がなくなる」と訝しまれていた矢先に、この事が発覚した。結局、劇場主や先輩から「お前だけ残れ、コンビは解消しろ」と迫られてコンビ解消。Wチャンスはコンビわかれとなった。

 コンビ解散は1980年末のことらしい(1983年コンビ解消という漫才協会のプロフィールは漫才界から一線を退いた時期だろう)。

 その後、周りの斡旋で相方をコンビ解消をしたばかりの高峰愛天(唐沢英)とコンビを組み、「高峰鋭才・鈍才」を結成。青木が鋭才であった。

 一方、当時の資料では「高峰英才・凡才」「高峰凡才・宮城英才」というものもある。個人的には「宮城英才」の表記が正しいと考えている。

 1981年2月27日、第29回NHK漫才コンクールに出場。当時のパンフレットによると――

審査員=神津友好・サトウサンペイ・住田真澄・中村メイコ・前川宏司・コロムビアトップ・加藤好雄
ゲスト=青空ヒッチ・ハイク(昨年度最優秀賞)、セント・ルイス
司会=生方恵一アナウンサー
7 東京助・玉助   「初恋の思い出」
4 大瀬ゆめじ・うたじ「平行線パートⅡ」
3 大空ネット・ワーク「タダ酒も芸のうち」
1 桂光一・光二   「ことわざ問答」
2 大空あきら・たかし「うさぎ獲り大作戦」
5 高峰凡才・宮城英才「ことわざアラカルト」
6 高峰和才・洋才  「料理教室」

 パンフレットにプロフィールらしきものも掲載されている。

○高峰凡才・宮城英才
凡才十二年、英才十一年の芸歴のもち主、ただコンビとなって二年目。凡才はコンピ運の悪い人だった。今まで何人相棒を変えただろうか、それだけに辛い日が続いた筈だ。しかし、いい相棒をつかまえた。諦めずに耐えて待った甲斐がある。
一方の英才にもコンビ別れの悲しさがあった。傷ついた者同志の理解と忍耐の共同作業がはじまったのだ。嬉しいことだ。
いまは、いかにボケとツッコミの役割をお互いに自覚して相手を生かしきるか、その点が宿題だろう。君達の茫洋とした味こそ、さわがしい現在の漫才界にとって、得がたいものといえる。
初出場。

 Wけんじリーガル天才・秀才門下――と毛並みはよかったが、コンビ仲はあまり仲がよくなかったという。

 コンビ結成1年半後、大須演芸場でネタを巡って大喧嘩し、絶交に発展。凡才は高峰一門に戻って「高峰愛天」として復活。またしても宙ぶらりんとなった。

 その後、愛天の兄弟弟子・高峰コダマとコンビ「チャンス・コダマ」を組むも、これもうまくつづかず、1年でやめる事となる。

 1983年には一度漫才から足を洗い、漫才協団も離脱。そのため、1985年に出された「日本演芸家名鑑」にはプロフィールが掲載されていない。

 その間、結婚と離婚を繰り返したり、当てもなく放浪をしたり――と一人で芸を磨いていたという。

 1992年、再び漫才協団へ復帰。ピン芸人として高座に現れるようになる。

 派手に売れる事はなかったが、面倒見がよく、人間的な実直さも評価され、先輩後輩からも慕われる貴重な中堅となった。

 そうした性質も評価されて、2002年には漫才協会の理事に選出。

 当時、漫才協会の人員不足に悩む中で、ナイツ、ロケット団、ホンキートンクなどを可愛がり続けたのは特筆すべき点であろう。

 2008年1月、「青木チャンス」から「チャンス青木」に改名。当人曰く、「横文字が頭に来ないと売れないんだ、逆にビートたけしなんかいい例だが、横文字を頭に付ければ売れる」と思い立ったからだという。

 一方、ナイツからは「でも、師匠。所ジョージは横文字が後ですが……」と言われ、絶句したなど、エピソードは欠かさない。

 2010年代に入り、ナイツやロケット団が売れるようになると「浅草芸人の代表的存在」としてラジオやテレビで真似されるほどの名物人間となった。「ナイツでチャンス青木の名前を知った」という人もいるのではないだろうか。

 チャンス青木当人は、ナイツやロケット団のいじりを喜んでみていたそうで、彼らの茶化しを大らかに受け止めていたと聞く。

 また、無名の新人や協会員にも率先して仕事を廻したり、楽屋の礼儀作法を教えたり、舞台袖で高座を見て「ここはこうした方がいい」とアドバイスをしたり――と兎に角面倒見はよかった。

 さらに、協会内の雑務や司会なども担当し、一種の大御所的な風格さえも有していたという。

 そうした事もあり、青空球児・好児や東京太・ゆめ子などの大幹部からも「若いもんは、あいつが面倒みるから」と強い信頼を受けていた。

 2016年11月22日、浅草公会堂で行われた漫才大会で、真木淳と共に「淳とチャンス」としてコントを披露。臨時コンビであったが、両者共に芸歴40年以上の猛者とだけあってか、大受けであったという。

  その大会から1週間後の11月29日、自宅で心不全を起こし急逝。享年72歳。訃報で初めて年齢を知った人もいる――というのだから、最期まで己の美学を貫いたというべきだろう。

 葬儀には、漫才協会の大幹部を筆頭に、ナイツやロケット団なども駆けつけ、彼を見送った。ナイツの塙は人目をはばからずに泣きだし、「ああ、いい人を失った」と周りも涙ぐんだほどであったという。

 チャンス青木の指導やアドバイスは、今も漫才協会の中堅・若手たちに根付いているといってもいいだろう。

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