大江笙子・京美智子

漫才師 ア行

大江笙子・京美智子

京美智子・大江笙子(右)

 さえずり姉妹
(左から美佐子・〆子・美智子)

 

 

 人 物

 大江 おおえ 笙子しょうこ

 ・本 名 松沢 はつ子
 ・生没年 1909年11月28日~1984年9月23日
 ・出身地 東京

 京 美智子

 ・本 名 井上 巳代子(旧・松沢)
 ・生没年 1929年1月14日~1997年8月24日
 ・出身地 東京

 

 来 歴

 戦前戦後活躍した姉妹コンビ。落語協会に所属し、美智子がアコーディオン、笙子が三味線を持って、歌い踊る音曲漫才で人気があった。大江笙子の娘の夫は、昭和に活躍した三遊亭円之助、その倅は先日物故した三遊亭小円朝である。

 大江笙子に関しては、大江笙子・大江しげる夫妻の頁を参照にせよ。

 京美智子は大江笙子の妹。但し歳が20歳近く違う。大江茂は義理の兄、

 幼い頃は、大江笙子夫妻に育てられたようである。戦時中、出征してしまった姉婿・大江茂の代わりに姉と共に、初舞台を踏む。

 ただ、この時はまだ漫才というよりかは、子役のような立ち回りであったようで、大江笙子が貧窮のあまりに妹を漫才に仕立て、舞台に立たせることで、生活を成立させようとした背景があったという。

 一方、大日本漫才協会には所属していた他、東宝笑和会の舞台などには出ている。終戦前後でコンビを解消、1946年、音楽畑に進み、楽器(アコーディオン)演奏を習得。この頃、

 1951年、漫才に復帰。『芸能画報』掲載のプロフィールに、

 美智子 ①井上巳代子②昭和4年1月14日③東京④昭和21年音楽の道に入ったが同26年漫才界に転向する。

 とある。然し、この漫才復帰の一件で、内海桂子と大江茂の仲は険悪となり、大喧嘩となったが、その代わりに連れられてきたのが内海好江であった。内海桂子の自伝『転んだら起きればいいのさ』の中でも、

 そのころ、私と別れた染芳が大江しげるさんとボップ・ホープの芸名で、浅草国際劇場(現在、浅草ビューホテル)の前にあった百万弗劇場に出ていて、お店へ行く通り道だったこともあって、二人の舞台をちょっとのぞいてみました。大江さんが私のところに駆け寄ってきて、
「女房(大江笙子)の相棒がお嫁に行っちゃうんで、助けてくれないか」
 と頼むのでした。実は大江さん、その前に、
「あんたの亭主と漫才をやるから、衣装作りの金、貸してくれ」
 と言ってきたのですが、そのあとに染芳が断りに来て、
「大江が借金の申し込みに来たんだってな。わしは、そんなことは言わんよ。君に頼める立場じゃないし、君には世話になっているんだから……。あいつに、お金は貸さんでいい」
 それから間もなく大江さんは、染芳の子供の幸治さんを修業に預けてあった曲芸の師匠の家へ行き、私の知らない間にお金を借りて、自分たちの舞台衣装を作ったようです。そんな男でしたから、女房の笙子さんの相方を頼まれたときは、ちょっと考えましたが、亭主が借金するような状態で、しかも子供三人が病気で寝ているというのでは、笙子さんがかわいそうだと思って、
「一週間くらいだったら、いいわよ」
 と、私は富士荘に臨時休暇をもらうつもりで引き受けました。こうして私は戦後再び、女流漫才師として舞台に立つことになったのでした。

(中 略)

 かれこれ半年近く笙子さんと漫才をやっていたでしょうか。そのうち仕事の連絡が来なくなり、おかしいな、と思っていたら、
「笙子さんが妹の京美智子とコンビを組んで、姉妹で漫才をやっているよ」
と、教えてくれる人がありました。こんなことをされては、私の心中も穏やかではありません。だれだって黙っていられないはずです。
「どうなってんの」
と大江さんに聞いたら、
「美智子が、亭主に死なれて、また漫才やりたいと言って急に九州から出てきたんだよ。そんなわけだから、君、だれか相方を探してくれないかな」

 幼い頃から楽器をやっていたとはいえ、漫才の方は手馴れていなかったと見えて、復帰した後もうまくコンビの息が合わない状況が続いた。

『アサヒ芸能新聞』掲載の松浦善三郎『関東漫才切捨御免』(『アサヒ芸能新聞』1954年1月5週号)の中でも、

美智子という方が無理かも知れないが、只若くて可愛いゝ美人でチョロ/\弾いて流行歌を歌い、笙子の三味線と合奏をやる程度で、いまの舞台からは染寿の娘芳恵のように「末恐ろしや」は感じられない。

もっとも往年の砂川捨男(立体漫才ボップ・ホープのどちらか)と笙子が姉夫婦だからクントウよろしきを得れば将来たのしめるだろう。第一これだけの畑に育ってしかも当人にやる気が有れば佳くならなきゃウソだ。

江利チエミとか美空ひばりなど少女歌手が全国でワイ/\騒がれているようだが半分は宣伝力、如何に栄枯盛衰のはげしい世界であるかは論をまたない。

これにくらべると流行歌のような爆発的人気は望み得ないが寿命は長い。若い内にじっくり勉強しておけば一生それで飯が食えるわけだから流行歌手とは其の処って来る処が違う。

此の意味で明日の才人の一人として美智子を育てゝ奥事も笙子の当面の課題の一つであり、更には彼女の個人もしても美智子教育の完成を地上最大の喜びとすべきだろう。

ほかにこれと同じスケールの漫才があるので愛好者は時折冷静にこんな観点にも立って舞台を見たり聞いたりして戴きたい。

 と、なかなか厳しい評価が与えられている。

 以降、精進を続け、寄席にも劇場にも通用する女流漫才師として成長し、放送などにも出演する人気コンビとなった。

 美貌の京美智子がアコーディオンとツッコミを請け負い、姉の笙子がボケと踊り、時にはゴリラの物真似をするなど、両人ともに芸達者なコンビとして知られたようだ。

 1960年11月下席を最後に、姉とコンビを解消。但し、1961年2月中席になぜか一度だけコンビを復活させている。

 1961年2月下席より武田美佐子とコンビを組み、姉から独立。

 武田美佐子は、松鶴家千代若の門下生で、後年、東京二と結婚。東笑子と名乗ったその人である。この人のことは、また別項を立てる事にする。

 新山ノリロー氏によると、「美佐子ちゃんは、京美智子と芸名を対にするために、美佐子、ってつけられた、っていうような話を聞いたことがある」とのことであるが、真相は不明。

 1964年3月上席から、「〆和」コンビの西〆子を迎え入れて、「さえずり姉妹」を結成。アコーディオンと三味線を演奏する東京版「かしまし娘」というようなスタイルで人気を集めた。

 長らくこのトリオで活躍し、放送や舞台で引っ張りだこになったが、1966年頃、〆子が脱退したため、相原ひと美が代わりに参加している。

 このトリオは割かし長く続き、寄席の色物としても異彩を放った。

 その後、美佐子が東京二と結婚。寿引退した事により、トリオは自然解散となった。

 1970年3月より、残った相原ひと美とコンビを組み直し、「美智子・ひと美」となる。この頃、しゃべくり風の漫才に移行したと聞く。

 長らく落語協会系の定席に出演し、愛嬌を振りまいていたが、1979年頃より、休席が続くようになる。

 1980年2月限りでコンビを解消。相原は東喜美江とコンビを組んだ。以降、「さえずり」という表記だけが残る形で、休席が続き、同年12月中席を最後に番組表から名前が消える。舞台から一線を退いた模様か。

 但し、1980年以降も落語協会に籍を置き続けており、引退したというわけではなかった。

一線を退いた後は、落語協会会長の五代目柳家小さんの運転手兼世話係を長らく務め、人間国宝の舞台を支え続けた。この辺りの事情はいろいろあり、柳家一門の関係者から話を聞いてはいるが、幕内のことゆえに書けない事が多い。ご了承ください。

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