木村咲子・笑子

木村咲子・笑子

國學院『招魂と慰霊の系譜に関する基礎的研究』より

 人 物

 木村きむら 咲子さきこ
 
 ・本 名 柿村 キテイ 

 ・生没年 ??~戦後
 ・出身地 ??

 木村きむら 笑子えみこ

 ・本 名 北風 トメ

 ・生没年 ??~戦後?
 ・出身地 ??

 来 歴

木村咲子・笑子は、戦前、女流漫才の一組として浅草を中心とした人気を集めたコンビ。三味線が得意で、諸芸尽くしの漫才を展開していたという。

 そのくせ、前歴は不明。女流漫才にしては鉄火肌で、ポンポンと男勝りの言葉を投げあう所に人気があったというが――咲子が三味線を弾き、笑子が芸尽くしを見せたようである。

 1941年頃、事情は不明であるが、コンビを一旦解消し、咲子は「隆の家万龍」とコンビを組んだ。

 万龍とのコンビはそこそこ人気があったらしく、東宝名人会の昼の公演「笑和会」に出演。以下はその出演記録。

1941年
6月 上席

繁子・繁夫
米子・主水
七五三・都枝
染吉・染二郎
松旭齋清子一行
咲子・万龍

8月 上席

壽美・小万
奇術 天菊・小菊
ジャズ漫才 まり子・若二
咲子・萬龍
娘義太夫 住若・三生
現代落語 三壽
ナンセンス漫才 千若丸・成若
女流浪曲 天女
民謡漫才 紀美・不二
漫ショウ ?・小夜子・栄一

 1941年10月、なぜかコンビを再び結成。笑和会に出た記録が残っている。

10月下席

雪子・萬蝶 
春雄・洋子 
咲子・笑子 
弘明・栄一 
喜美枝・英二 
三亀夫・三亀子・三亀代・三亀恵 
茶目丸・一八 
やの字・かしく 
一路・突破

 1943年、両人ともに帝都漫才協会に参加。咲子は第1区、笑子は第12区に所属した。離れ過ぎである。

 戦後、咲子はコンビを続投。古株の千代の家計之助とコンビを組んだ

 計之助のページでも記したが、『アサヒ芸能新聞』(1954年1月4週号)の『関東漫才切捨て御免』に掲載された芸風が、数少ない咲子の芸風を残したものとなっている。

◎木村咲子 千代の家計之助

男女で組んでいる漫才はあらゆる場合に利点が有るようで比較的夫婦が多く男女で他人コンビをいうものは真に数少ない。
其の少いコンビの中の一組でしかも割合に長続きして居る漫才で、舞台から受ける性格的な感じは咲子が陽、計之助は陰である。申し合わせにもよるのだろうが、咲子のポンポンと煙花以上の鉄火鍋――まるで喧嘩腰のしゃべり――を計之助がシネリと受けて行く。「アノネェお寅さん」などと咲子に呼びかけるが実にぴったりといったら御当人怒るかね? 咲子の三味線でつかうが人のやらない数え歌など出して全体の調子は至極古風で区分は音曲の部であろう。逆コースの新春の東京の町々には本場の三河漫才が出て来て江戸模様をたのしませてくれたが、今日舞台に上っている漫才は、三河漫才と別流の三曲漫才と両方の進化したもの――此の二つのイキカタに大出来るのではないだろうか。更に此の二つの中でも現代の漫才は大部分が三曲漫才の亜流をくんで、知らず知らずの内にイキカタで筋立てられているのでは無かろうか。
正調三河漫才にしても尾張漫才にしても聞いて面白いものでは無いのだから、掛合調の三曲漫才のイキカタになるのは当然なわけ。という仮説をたてたのは此のコンビが三河式であるという事を云い度いためで、漫才が興行種目に加えられた中興時代の姿其のであるからだ。三河式すなわちオーソドックスは勿論珍直し、愛存して行かねばならぬものではあるが原子力時代の漫才としては相当のヴァラエテイも要求されるし、そのため台本作家も苦労しているのである。とすると此のコンビも新らしいテアイデアをとり入れて今年の干支のように、三河式から一ハネも二ハネも三ハネもしてほしいところである。

 青空うれし氏によると、「俺らが本格的にやり始めたころ(1955、6年頃)にはまだいた」との由であるが、詳細は不明。引退した模様か。

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