玉子家源六・喜代志

玉子家源六・喜代志

源六がいるという集合写真。右端は横山エンタツ。

 人 物

 玉子家たまごや 源六げんろく
 ・本 名 大槻 治三郎
 ・生没年 1902年9月10日~戦後
 ・出身地 ??

 玉子家 喜代志きよし
 ・本 名 大塚 一清
 ・生没年 1897年9月3日~戦後
 ・出身地 ??

 来 歴

 玉子家源六・喜代志は戦前活躍した漫才師。拍子木で相手を殴り合う派手な暴力漫才を得意とし、東京漫才黎明期に活躍。関西の玉子家源丸の門下で、玉子家源一とは兄弟弟子の間柄であったという。

 玉子家の亭号の通り、前身は上方の漫才師だったようであるが、前歴には謎が多く残る。

 上京してきたのも早く、1927年にはもう東京の劇場に出演している。以下は『都新聞』(1927年10月22日号)の広告。

▲第二館 萬歳小櫻金之助セメンダル、日の丸、源六、源一、花の家娘連加入

 当初は兄弟弟子の源一と組んでいた模様か。

 その後、源一とコンビを解消したものの、順調な滑り出しを見せ、1928年7月に行われた漫才大会にも(『都新聞』6月30日号)――

▲市村座 一日よりの萬歳親交記念大會に出演する関東関西の顔ぶれは
直之助、朝日、かほる、春雄保子、六郎、源六、清、啓之助、玉春、清子、染團治、芳春、芳丸、源一、友衛小芳、染若、初江、日出男、静子、文雄、駒千代、喜代駒金之助、セメンダル、秀千代、秀夫、花輔、デブ清丸、玉奴、豊丸、小一郎、愛子、金吾、力春、力松、小徳、春夫、芳郎、千代治、愛子、秀丸、茶目鶴、仲路、こたつ、夢丸

 と出演している様子が確認できる。相方の清は、後年の相方、玉子家喜代志の変名だと推測される。

 玉子家喜代志の経歴も不明。やはり古株の漫才師だったことはわかる。

 1929年夏、上方漫才の千代の家蝶丸一座「笑楽団」に参加して、当時としては珍しくハワイ巡業に出かけている。

 当時の資料を見ると――千代の家蝶丸・登美子、横山エンタツ・須賀春子、玉子家源六・足利啓丸、浪曲の鼈甲斎吉之助、女道楽の濱田一二三・笑の家住之助という顔ぶれであった(後に千代の家蝶一、横山太郎、桂扇団治なども名前が出て来る)。エンタツは後にしゃべくり漫才で一時代を築いた「横山エンタツ」である。

 同年9月中旬にハワイ島に上陸。同地の劇場で公演を行い、大入りを記録したという。

 11月にはマウイ島各地を巡業。さらに12月末には米国本土の興行社に買われ、サンフランシスコへ旅立つこととなった。

 そのため、1930年の新年はアメリカで迎える――という珍しい経験をしている。

 1930年3月までアメリカの日本人街を中心に回り、帰国。

 帰国後は喜代志とコンビを再結成――と思いきや組まなかった。この頃はまだ相方が安定せず、『都新聞』(1930年11月21日号)の広告に、

▲萬歳研究会廿一日夜より五反田第一大崎館に、出演者は
源一正三郎、染次染團治、もと子圓十郎、三代孝亀八、談之助源六、百々龍小源太繁子一休松江大正坊主

 と、立川談之助(團之助)とコンビを組んでいる様子が確認できる他、同様『都新聞』(1931年3月17日号)の広告に――

▲萬成座 十六日より東西万歳競演會出演者は
六郎、和歌子、百々龍、小源太、九州男、静子、茶福呂、花子、ぽんた、政之助、梅香、一徳、デブ子、花輔、吉丸、源一、小豊、喜一、正二郎、源六、一丸、金茶丸、緑郎、祐十郎、二郎、出羽三、喜代坊主、日出夫、日出丸

 と、源一の相方であった若松家正二郎とコンビを組んでいたのを確認できる。

 その後、再び「玉子家喜代志」とコンビを結成し、浅草の劇場へ出演するようになる。

 漫才としては手足や拍子木で相手を殴りつける、古風なドツキ漫才に近い事をやっていたそうで、波多野栄一は『寄席と色物』の中で――

「合棒の頭をたたくのがネタだが客が真に受けて抗議して大笑いした」

 と評している。

 1930年代後半に入ると、松竹演芸部に所属。東ヤジロー・キタハチ、柳ミチロー・ナナと共に一枚看板で扱われた。

 1940年1月、林家染二郎・染吉音羽代志子・三升静代、寿々木米若丸と共に中支慰問に出発。(「陸恤庶發第三〇号」船舶便乗ニ関スル件申請)

 さらに、帰国後再び慰問に出発。「陸恤庶發第三一一號 船舶便乗ニ関スル件申請」(1940年4月27日)に詳しい名簿が出ていた。ここから本名や経歴を割り出した。

 往航 昭和十五年四月二十四日宇品発―塘沽行 
 復航   同  六月下旬  塘沽発 宇品行
陸軍恤兵部主催 北支方面 皇軍慰問團人名表
藝 目    藝 名    名 前   生年月日
舞 踊    玉子家源六 大槻治三郎 明治丗五年九月十日
漫 才   玉子家喜代志 大塚一清  明治丗年九月三日
浪 曲     早川辰城 柳澤彌三郎 明治廿二年二月二日
三味線      すみ子 川合すみ  明治廿五年十二月一日
漫才と   大道寺春之助 岸田金造  明治卅年四月五日
奇 術    松旭齋良子 寺島良子  明治四十二年三月二日
         花子  手島時子  大正五年七月十日
松竹社員引率者      外村禮文  明治廿三年三月五日

 1943年、帝都漫才協会の発足に伴い、入会。二人は特に幹部職につかなかった。

 敗戦直前にコンビ解消。それぞれ別の道を歩んだ模様。

 源六は轟たけみという若い女性とコンビを組み直し、1950年代初頭まで活躍した――というが、東京漫才復興前後で消息不明となる。

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