玉子家源一

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玉子家源一

玉子家源一

目次

 ・人物
 ・来歴
  ・漫才師以前
  ・上京と東京漫才
  ・セミリタイアと晩年
 ・芸風

人物

玉子家たまごや 源一げんいち

・本 名 井原 嘉平
・生没年 明治30年/1897年6月11日~昭和61年/1986年10月15日
・出身地 福岡県宗像市(旧・津屋崎町)

※玉子家源一氏のご遺族のご協力をいただきまして、無事に頁を完成させました。
ご協力、厚く御礼申し上げます。(ご遺族様のサイト 玉子家電脳社

来歴

 

 関西で修業をした後、志ありて上京し、そのまま東京に根を下ろしたタイプの漫才師である。こういうタイプは戦前、特に東京漫才が出来る前後――即ち、震災前後に多く、林家染団治などもこれに該当する。東西の漫才の関係や流れを知る上では欠かせない存在というべきであろう。


・漫才師以前

 玉子家源一は福岡県津屋崎町、現在の宗像市の生まれ。実家は小間物屋――現在のスーパーマーケットのようなことをしていたそうで、なかなか裕福な家柄だった。幼い頃は海の近くで育ったらしく、晩年まで故郷の風景や思い出を度々回顧していたという。

 故郷では「カド屋のカァちゃん」(カド屋が屋号なのか、渾名なのかは分からなかったが)という愛称で慕われたらしく、店の手伝いや行商などを行っていたそうである。

 しかし、芸事や遊びにハマってしまったのが運の尽き、実家の潤沢な資産を盾に、色事や遊びごとに熱中し、都々逸、小唄端唄、三味線、音曲など、芝居に出てくる若旦那のような放蕩三昧な生活を送るようになってしまった。

 ご遺族によると、「小原庄助さん状態」(民謡「会津磐梯山」に出てくる伝説上の遊び人)だったというのだから、相当な放蕩ぶりだったようで、それが元で身上を潰し、芸人になる遠因になったともいう。後年、親族などからは「あれだけ遊んでいれば……」などと皮肉を言われたというのだから、その遊びっぷりが如何なるものであったかは、想像することが出来ない。

 道楽の果てに身を持ち崩した井原青年は、流れ流れて大阪へとたどり着く。当時(大正年間であろう)、大阪では漫才ブームが起こっており、玉子家、松鶴家、若松家、菅原家、荒川などと言った漫才師たちが軒を連ね、人気を競い合っていた。その華やかな様子に魅了されたのかまではハッキリとしないが、当時漫才界の人気者として数えられていた「玉子家源丸」の門を叩き、漫才師になった。

 芸は身を助くという言葉の通り、道楽時代に覚えた音曲や都々逸などの類は随分と役立ったそうで、漫才には欠かせない素養はやる以前から身についていたという。その後、源丸の「源」の字を貰い、「玉子家源一」として、漫才稼業に明け暮れることとなった。

・上京と東京漫才

 その後は、師匠の源丸について大阪の寄席や巡業などに出ていた模様であるが、当時の出演名簿が殆ど発見されておらず、また吉本などにも所属していなかったので、詳細はよく分かっていない。しかし、後述の通り、漫才をやっていたのは間違いないだろう。

 上京した時期は不明であるが、昭和2年の時点で、

  ▲音羽演芸館 万歳玉子家源一加入

(「都新聞」昭和2年5月3日 9頁)

と、いう記載があるのを見ると、昭和初期頃に上京した模様か。しかし、松鶴家千代若の、

『そう、昭和三、四年ですね。その時はまだ五、六組しかいませんでしたよ。立花家デブ・花助(原文ママ)、小桜金之助・セメンダル、荒川末丸、東喜代駒、林家染団治、荒川清丸位でした。』

 と言った発言や、桂喜代楽の、

『私らが東京で三、四年に万才の協会を作ったときは八組ほどだった』

(共に『大衆芸能資料集成』の対談より引用)

 と、いった発言を見ると、果たして東京にいたのかという疑問も残らないこともない。推測ではあるが、この時にはまだ東京に移住しておらず、砂川捨丸や横山エンタツと同じように、東京に漫才が本格的に定着するまでは、関西圏の往復や全国の巡業などをしていたのかもしれない。

源一が本格的に東京で活躍し始めるのは、昭和ひと桁代の終わりから戦中の頃である。全ては把握していないものの、当時、新聞に出ていた漫才大会の広告を見ると、源一の動向を確認することが出来る。(判明し次第、随時更新します)

目下は、源一が組んでいたコンビの変遷と当時の名称だけを記す。

 昭和10年に行われた漫才大会の広告を見ると、

 (『読売新聞』昭和10年8月21日号 夕刊3頁)

 源一は玉子家一丸という相方と組んでやっている。続いて、翌年の11年7月に行われた漫才大会にもその名が確認でき、

 (『読売新聞』昭和11年7月19日号 夕刊6頁)

 源一・一丸は松竹演芸の方に属していた事がわかり、また「ナンセンス音楽オンパレード漫才」なる、芸風であったことが確認できる。この時代の漫才のネーミングセンスはすごく、最近のそれとは比べ物にならないくらい横文字が多かったりするので結構見ていて面白かったりもする。

 暫くの間、一丸とのコンビで活躍していたが、少し時代が下って、昭和14年5月に至ると、コンビを解散したと見えて、

 (『読売新聞』昭和14年5月14日号 第二夕刊2頁)

 中村音之助なる人物と組んでいる。この人の素性も良く分からないが、戦後、上方漫才に中村直之助という達者な人物がいた事が確認されている所を見ると、同一人物の可能性がある。この頃が、漫才師としての人気の盛りだったようではないだろうか。

 また、源一にはキャリアがあり、漫才師の中でも知識があった事から、帝都漫才協会の役員に任命されている。昭和18年における役職は『理事会計』。昔、商売をやっていたという経験が多かれ少なかれ、この役職につながっているのではないだろうか。

 戦時中は慰問や官僚たちのお座敷で活躍したといい、ご遺族によると、『東条さんとか海軍大将さんなんかの近くにせいか、生活には困らなかったし、まさか日本が負けるとは思ってもいなかった、と後年語っておりましたよ。』との事。話を聞く限り、どうやら、源一は、時々昔を思い返しては、「愛宕山時代の放送に出た」、「大臣さんの近くにいた」「慰問にも回った」などと、懐かしそうに語っていたという。(目下調査中)

 しかし、戦争末期はそうもいかなかったようで、東京大空襲をはじめとした空襲などで焼き出されてしまった。

 ・セミリタイアと晩年

 終戦後、昭和20年前半まで一応舞台に立っていたようである(ご子息は昭和23年ごろ、松竹演芸場でご覧になられたという)が、相方と別れ、コンビを組む相手がいなくなったのを機に、漫才から足を洗い、「玉子家芸能社」の社長として再出発をした。

 当初は浅草に事務所を構え、仕事を行っていたそうで、設立前後から、一応知名度はあったようである。ご子息曰く、「住所をいちいち書かなくても、『台東区浅草 玉子家』って書いて送ればちゃんと届いたって、自慢していましたよ」。

 昭和27年、江戸川区に引っ越し、新たな「玉子家芸能社」を設立した。この頃はまだ戦前の人気の名残があったようで、近所の人から慕われていたという。

 芸能事務所の社長としても、相応の腕はあったそうで、昭和30年に完成した、レジャー施設「船橋ヘルスセンター」の入れ方(凱旋)も依頼されていたという。当時、「船橋ヘルスセンター」と言えば、大変な人気スポットで、栄華を極めていた。その施設内には芸人の出演するステージや劇場もあったという。

 1969年10月、一線を退いていた源一であったが、青空うれしやリーガル天才らの後押しで、大朝家五二郎、林家染団治と共に『東京漫才の長老』として、「東宝名人会」に出演し、昔話に花を咲かせた。演芸評論家の三田純一は、この舞台を見て、

 大朝家五二郎、玉子家源一、林家染団治――若い寄席ファンにはなじみのない名前だが、いずれも漫才界の長老である。  「東宝名人会」の土曜の昼席、めずらしくこの三人の顔がならんだ。「なつかしの演芸」というタイトルだが、司会の青空うれし・たのしのインタビューが主で、かんじんの“演芸”が見られなかったのが残念。わずかに、染団治が十八番の“ゴリラの安来節”をやって、オールドファンをなつかしがらせた。この三人、いずれも大阪で修業し、震災後東京に定住したという経歴であるのも、漫才は西から、という芸能史の一コマをうかがわせて興味があった。  

(「朝日新聞・夕刊」 昭和44年10月21日 9頁)  

 と、なかなか興味深いコメントを寄せている。この時にはもう、コンビを組んで漫才をやっていたのは染団治だけで、五二郎も源一も芸能社をやっていたというのは何かの因縁であろうか。

 推測ではあるが、これが芸人・玉子家源一としての最後の大舞台であり、公の立派な劇場に出た最後の記録ではないだろうか。その後、新聞や雑誌を探っても、源一の名前は殆ど出てこなくなる。

 ご遺族のお話によると、晩年は芸人の凱旋や事務所の仕事をつづけながら、老人会などの余興で、若い頃覚えた芸を時折演じていたという。昔取った杵柄とはこの事であろう。老人会などの間では、結構な人気者だったようである。

 また、青空うれし氏によると、「漫才師としては珍しく、品のいい人で、如何にも育ちのいい感じの社長な感じだった。ゴロツキ興行主の多かった時代にしては、物腰の柔らかい人だとは思ったな」とのこと。

 最期は、数え年90歳という天寿を全うし、この世を去った。葬儀の折には、十八番であった「ドンドン節」のテープを流し、故人を偲んだ、という。何とも粋な芸人冥利に尽きる話ではないだろうか。

 芸風

 俗謡の「ドンドン節」の替え歌を看板ネタとして活躍し、人呼んで「ドンドン節の源一」として大いに売れた。波多野栄一も、

玉子家源一 音之助 ドンドン節でよく売れた。音之助のあとは「一丸」と演っていた

(波多野栄一「寄席といろもの」)

と、その頃の人気ぶりを賞賛している。しかし、音之助と一丸の順は逆ではないだろうか。

 そもそもドンドン節とは、『明治末期から大正初期のはやり唄。浪曲師の三河屋円車が唄い、楽屋で太鼓をどんどんと打たせて人気を博したのが始まり。「駕籠で行くのはお軽じゃないか」で始まるものが有名。』(大辞林)というようなもので、浪曲師のうなりをヒントに、演歌師などが改良して広めた曲であった。当時、浪花節の一節を改良して、一曲に仕立て上げるといった事は頻繁に行われており、「奈良丸くづし」などはその類である。

 このドンドン節が生まれる経緯には、三河屋と桃中軒雲右衛門との確執があったというのを、バイオリン演歌研究家の人から聞いた事がある。曰く、「このドンドン節のヒントになった円車の師匠は梅車といって、中部近辺で大変売れた浪曲師だった。この人の家内が、お浜さんと言って、大変達者な曲師であったが、梅車は人間が難しく、事あるたびに家内に強く当たるので険悪な関係になっていた。そんなお浜さんといつの間にか仲良くなってしまったのが、当時、吉川繁吉と名のり、梅車の一座で修業していた雲右衛門であった。二人は相思相愛になり、遂には梅車の下から駆け落ちをしてしまう。これだけならばよかったが、繁吉はお浜と手を取りあってあれよあれよという間に成功してしまい、遂には日本一の浪花節語りになってしまった。梅車の悲憤慷慨は幾許なるものだったか、円車はまるでその意趣返しの如く、寄席に出ては、太鼓を入れさせた節回しを生み出し、これを演歌師の後藤紫雲が取り入れて、流行させた」という。しかし、その一方で、当時浪曲師は一席終わると余興として、都々逸や民謡、節真似等を興ずることがあったので、ドンドン節もその延長線上にあったのではないか、という解釈も出来ない事はない。

 話がずれてしまったが、当時よく歌われていたドンドン節の見本を挙げて、筆を置く事にしよう。

 駕籠で行くのは お軽じゃないか 私しゃ 売られて行くわいな ととさんご無事で またかかさんも 勘平さんも 折々は 便りを聞いたり聞かせたり ドンドン

(忠臣蔵より。これが本歌のような物)

 伊勢は津でもつ 津は伊勢でもつ 尾張名古屋は城でもつ うちの所帯は あのかかあでもつ かかあのゆまきはヒモでもつ ヒモの虱は皴でもつ ドンドン 

(伊勢音頭の文句から)

 駕籠は行くのは 海老ではないか 私しゃ 売られてゆきますよ 向こうの蕎麦屋と こちらの料理屋へ 1キロいくらで 買い取られ 皮をまた剥かれたり 首をちぎられて 白い衣をつけられて 油の中に ちょいと入れられて 熱い思いはするけれど おまんまの肌に乗る テンドン

(ご遺族様のご指摘なさる「テンドン節」はこういった歌詞に近かったのではないだろうか)

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