曾我廼家童三
在りし日の童三
人 物
曾我廼家 童三
・本 名 青木 善次郎
・生没年 1886年1月10日~1934年2月25日
・出身地 東京 木挽町
来 歴
東京漫才の初期に活躍した漫才師。戦前人気を博した兵隊漫才の先駆けの一組といっていいかもしれない。
但し漫才師としてのキャリアはほとんどなく、その生涯の殆どは曾我廼家喜劇で過ごした。漫才になった直後に死んだため、その力量計り知れぬ存在ではある。
その経歴は1923年発行の『現代俳優名鑑』に詳しく載っているので引用。
曾我廼家童三
屋 号 二代目曾我廼家
本 名 青木善次郎
生 年 明治十九年一月十日 三十八歳
出 生 地 京橋木挽町
身 長 五尺二寸一分
体 重 十五貫目三百匁
代 表 作 (1)社会劇「炭焼き」の佐平(2)旧喜劇「三年後」の徳兵衛
宗 教 萬神
主 義 自己売買の力によりて楽人に感動を与ふるを舞台の主義とする
崇 拝 曾我廼家五郎氏
家 族 五人女中共
好 き 囲碁 玉突
嫌 ひ たまご シュウマイ
愛 読 書 諸雑誌 歴史物
乗 物 俥
常用煙草 敷島
常用飲料 月桂冠
日用化粧品 みその他
服装の好み 渋いもの特に結城もの略 伝 初舞台は八歳の時に、新富座に於て鍋島猫騒動の小姓を勤む。十九歳の時、新派竹中鐵夫の門に入り、其後明治四十三年曾我廼家喜劇団に入り、現在に至る。舞踊を志賀山伊之助氏に師事す。
父親は、新富座の座主を一時期務めた青木秀次郎か。秀次郎は明治27年に守田勘弥が手放した新富座の経営に乗り出し、座元として就任している。その関係から新富座の舞台を踏んだ、と考えるのが辻褄が合う所ではないだろうか。
初舞台は8歳(明治27年)といっているが、どうも数え間違えているようである。実際は明治28年(1895年)7月の新富座『嵯峨奥妖猫奇談』が正しい模様か。この芝居は團十郎門下の若手たちーー八百蔵、新蔵、染五郎といったメンツが修行のような形で打ち続けた芝居で、この7月は新富座における第1回目の公演であった。
その後は、上記の通りであるが、諸々の事情から明治37年(1904年)に設立された曾我廼家喜劇へと飛び込んだ。入団のため、東京を捨てて関西へ走った、と見るべきだろうか。
曾我廼家童三という名前は二代目で、初代は創立メンバーの一人として人気を博したが夭折したという。
また、震災前後に浅草で爆発的な人気を集めた女剣劇の都桜水の門下にいた事もあるという。詳しい年代は知らんよ。
曾我廼家一座で長らく活躍を続けていたが、1931、2年ころに漫才へ転向。この頃、同じく喜劇で活躍していた曾我廼家祐十郎と共に転向した模様か。
浅草の劇場を中心に出勤した祐十郎に対し、童三はお座敷中心だったせいか、出演記録が残っておらずわからない点が多い。
1934年2月25日、肺病のために死去。東京漫才の開花を目前に控えた死であった。以下は『都新聞』(2月26日号)に掲載された訃報。
曾我廼家童三死す 喜劇から兵隊萬歳に轉向して専らお座敷を稼いでゐた曾我廼家童三が肺症のため廿五日午後三時廿分、浅草田島町六七の自宅で死んだ享年四十九
童三は本名青木善次郎、都櫻水の門下となり小都錦水と名乗り浅草で人氣を博した時代もあつたが、のち喜劇から兵隊萬歳へと移つた人である
コメント