大正坊主
大正坊主・吉田明月(右)
晩年の大正坊主
人 物
大正 坊主
・本 名 塚越 勝次郎
・生没年 1878年~1954年
・出身地 群馬県 館林市
来 歴
漫才よりも八木節の名手として知られた人物である。大正坊主という名前の通り、坊主頭の人物であった。
然し、漫才師としても中々の人物で、八木節を演じる傍ら、昭和一桁台から喜代駒や日出夫日出丸らと混じって奮闘を続けた。大和家八千代や大和家かほるなどと同様に、民謡を本業にしながら、漫才師としても活躍したという、東京漫才の移行を見る上でも貴重なサンプル的存在である。
八木節を得意としただけか、その経歴は『群馬県史』『太田県史』等の郷土史、八木節の本などに記録されている。
中でも、『朝日新聞 栃木版』(1936年1月19日号)の「追走八木節時代=天下を泣かせたあの頃思へば=」に掲載された、聞書は白眉である。見事なので、すべて引用してみよう。
名人會第三回に栃木が生んだ八木節まんだんをお贈り致します現はれましたる語り手は堀込源太老と一緒に八木節天下を現出東都を人氣をさらつた名歌手「大正坊主」塚越勝次郎さんで御座ります……
おや、いらっしゃいまし、へゝえ、さやうですか、八木節の源太さんのことをな――古いことつてすよ、ちやうど二タ昔近くなりますな、へえ、上州にゐる時は源太さんと私とは仲のいいとんだ道楽者でした、何でもやつた、何でもやつてたうたう役者、そいつも田舎廻りになつちまつた、その頃から八木節ぢや源太さん大した評判だつたもんです
大正何年のことか、或る日、源太さんが私の家に寄つて「俺ア一寸東京へ行つてくるよ」といふ、はてなと思つたが、こいつは源太さんが東京へよばれて日本中ではじめて八木節をレコードに吹き込みに行つたンでしてな、大正元年頃かと思ひます、その頃、日蓄(日本蓄音器會社)の人で館林にゐた大島さんて方が足利で源太さんの歌を聞いて「こいつァ素晴らしい」ッてんで吹き込ませることになつたもンでござんす、それがな、源太さん、東京で契約の文句をよく讀まんでハンコを押したまンま續いて帝蓄(帝国蓄音器會社)の方にも吹き込んだから、さア、ことです、日蓄でガミガミいつて来る、弱りましてな、日蓄の方は私が吹き込んでケリをつけたこともありましたよ
淺草へ飛び出したのは私が一ト足先の大正三年奥山(今日の淺草公園映画街)の江川、あのタマ乗りで名高い江川の大盛館に拾はれてコツケイ劇なんかやつてたンですがな、その頃から私の頭がハゲはじめちまつて、だん/\ツルツルになる、こいつァいけないと思つてると或る日のこと江川の座元から「ハゲ結構、いつその事ツル/\にして大正坊主にしちまいな」といはれて大正坊主と名乗つた、評判も出て來る、チヤラポコ/\やつてゐるおころへ、源太さんが大正五年上州から買はれて池ノ端の御園座にはじめてかゝつてつてえわけでな、この邉から八木節が日本中に有名になる全盛期がはじまつたンで、淺草ぢやあつちもこつちもピーヒヨロ、スツトントロスク、大した人氣だつたもンでござンすよ
かう申すのもなんでござんすが、源太さんと私とが八木節界の両横綱、源太さんの節廻しは「国定忠治」で申上げると讀出しは『はアゝ』に續いて”音に聞えし國定村の”のウクがとても強く高く元気でさア、私の方はやはらかい、でな、源太さんが「豪」私が「艶」だなんてお客さんにいはれましたよ、御園座に私と源太さんが出た時には、櫓の廻りに上州から連れて来た若い娘や江川の玉乗の女の子に振り袖なんか着せて踊らせたものですがな、そン中に小櫻勝子、あなた様など御存知はあるまいでしようが、この勝子のやつ、踊りながらわざとスツテンところぶ、こいつが何ともいへない、お客が喜ぶ、今でいふエロ味があつたンでせうな、それが當今ぢや女の子が裸で踊る、世の中も變つちまひましたな
へえー野州でも選挙に八木節をなー源太さんもやるンですか、へゝえ、實はな昨年の八月二十二日に私も自分で作つた拙い選挙粛正の歌で一つレコードに吹き込みました、レコード會社の方でスツトントロスクの例の調子ぢやいかんてね、どうです、八木節を木琴でヴァイオリン、シロホンなんて西洋楽器に笛と太鼓、恐ッろしく賑やかにやりゃした、一つ御覧に入れませう、例の”はあゝ”と出ましてな
〽うかとなるまい御馳走なぞに
これに手があるまた底がある
義理や人情で縛つて置いて
きつと持ち出す買収話
バカになさるなブローカさんよ
わしはこれでも日本の民よ
とやつて、スツトントロスクとなる、さぞあちら(郷里)でやつとりませうな源太さんは堀込(足利郡山邉村)の生れでな、子供の頃から八木節が好きでうまかった、八木節の元は村の縁日などにやつて来た「くどき節」から生れたもンださうですがな、かう頭に手拭を乗ツけて”はあゝ”と讀んで歩いて銭を貰つたもンだが、そいつを八木宿(足利郡御厨町福居遊郭のあつた所)の若い者が田ノ草取に唄つてはやつた、源太さんがこいつを八木節にしたンでせうな、その頃から實にうまかつた、好きで上手ときてる、聲もいゝ、源太さんは馬方をやつてゝ荷を車につけて送る、送つちまふと帰りの空車に乗つて桶をひつくりかへしてチヤツポコ/\やりながら村を通る、そいつがだん/\評判になる、そのうち源太さんは馬で荷を送ると帰りは歩いてかへることが多くなった、そのはずでござんすよ、帰りのみち/\に村の若い娘ツ子などに引き止められてあつちこつちと”はあゝ”をやつてね、それでいくらかになつたンだ、偉くなつたのも熱心が通じたといふンでせうな
あの澁い聲で「継子三次」なんか唄はれると、さア、なんといふのでせうな、どんな人でも涙をこぼす、實際、あんなチヤツポコ/\つて賑やかな歌でどうして涙が出て来るのか、藝ですな、何といつても源太さんの藝でござんすよ、あの「継子三次」でも「佐倉宗吾」でも「國定忠治」でも子供の出てくる人間のつらい件がありませう、あすこんとこですな、陽気な歌の中でホロリとして来る、福店に女郎屋があつて、その廓の真ン中に源太さんが櫓を組んであつちからもこつちからも引ツ張り凧で歌はされて、さんざ泣かしたもンでさア、源太さんともこゝんとこ六、七年は會ひません、源太さんは東京で名をあげて郷里へかへつてしまつた、弟子もなにもみンな東京を見限ッちまつてな、ざつと廿年、今ぢやたつた私一人、それでも聲の方はまだ/\自慢でやつとりますが、當今東京ぢや八木節もすたれましてな、何か一つお國のためにと思つてもどうにも駄目でござんすよ
文末に、人物略歴が掲載されているのでこれも引用。こういう情報は非常にありがたいのです。
大正坊主さん
本名塚越勝次郎、明治十一年、群馬縣館林に生る、長じて教導教師となり、後一轉藝界に志を立て大正三年出京、東都に堀込源太老と共に八木節全盛時代を作り、源太老の「豪」に對し勝次郎老の「艶」をもつて「大正坊主」の名天下に轟く、以来源太老帰京後もたゞ一人東都に止まり八木節の爲め孤軍奮闘今日に至る、年五十九
栃木の記事なのに群馬県生まれの大正坊主が話しているのがどこかちぐはぐで面白い。もっとも、今とは違って県境があやふやだった当時は、館林も足利も同じと目されていたところがあるので、凄まじく的外れ、というわけでもない。
上記の聞書きだけで、大体のことは言い尽くされているが、この朝日新聞の記事と、『太田市史 民俗篇』に出ている資料に齟齬があるため本当の生年は不明。
田舎のことゆえ、ずぼらといえばずぼらなのかもしれないが、『太田県史』には「明治九年」生まれとあり、『朝日新聞』や『群馬県史』には「十一年」生まれとある。どちらが正しい事やら。
上記の通り、大正初期に上京し、堀込源太に先駆けて八木節を披露して人気を集めた。このころ、学生だった川端康成や医師の新鋭として奮闘を続けていた斎藤茂吉は、この大正坊主の舞台を見ている。川端は贔屓だった、と当時の随筆や鈴木彦次郎の随筆から伺える。
震災以前まで人気を博したものの、文句が長く覚えづらい事や安来節などの新興芸能の進出により、長い人気を保つ事は出来なかった。
然し、八木節衰退後、東京を去った源太とは違い、浅草に永住し、東京で八木節を演じ続けた。源太は栃木と群馬に戻り、両毛の八木節啓蒙と後継者育成に関与、今日まで続いているのは有名な話である。
八木節の歌い手として全国を巡る傍ら、1930年頃から漫才師としても活躍するになる。『都新聞』(1930年11月21日号)の広告に、
▲萬歳研究会廿一日夜より五反田第一大崎館に、出演者は
源一正三郎、染次染團治、もと子圓十郎、三代孝亀八、談之助源六、百々龍小源太、繁子一休、松江大正坊主
ここでは松江という女性、また同年の『都新聞』(11月29日号)の広告に、
▲萬歳研究会廿九、丗の両夜六本木の歌舞伎に、出演者は
百々龍小源太、芳江美代子、立花圓十郎、正三郎源一、三代孝亀八、はま子大正坊主、繁子一休、瀧奴瀧夫
とある。二人の相方の詳細は判らない。
1931年11月21日から初音館の漫才大会に出演。相方は大公坊主という。実にふざけたいい名前である。
▲初音館 廿一日より
日本チャップリン、猫遊、楽三郎、和助、出羽三、筑峰、一夫、大公坊主、大正坊主、久良坊、いろは、茶福呂、華子、鷹之丞、かぶら、大和家、松島家連舞踊数番
1932年2月、新富演芸場の漫才大会に出演。相方は「いろは」。変わりすぎである。
▲新富演藝場 三日より三日間
大正坊主、いろは、小糸、雀右衛門、仲路、茶目鶴、チャップリン、俊子、美智江、一夫、蝶壽、初子等の萬歳……
1936年9月、漫才大会に出演。この頃には戦前派の顔ぶれが現れるようになる。
▲漫才大會 十一日より四日迄毎夜八丁堀住吉亭に
艶子、洋月、美家子、大正坊主、美津子、百合子、光子、ハッピー、武夫、主水、芳江、三五郎、たけし、染華、染二郎、貞夫、かほる、〆吉、〆坊
1943年、再編成された帝都漫才協会に「漫才師」として登録される。相方は記載されていないが、倅の東天朗と共に第六部に所属。長年の功績が認められたのか、第六部の幹部に就任している。
戦時中は倅の東天朗と組んで浅草に出ている様子が『都新聞』で確認できた。
戦後は地元の群馬で八木節保存会の復興や指導に取り組んだ以外は、漫才師として、芸人として大きな活躍はなかった模様。
倅の東天朗が司会や漫才で売れ始めたので、楽隠居になった模様か。この天朗と一時期組んだのが、喜劇俳優の玉川良一で、『タマリョウのぶっちゃけ放談』の中で、
昭和二十六年頃、俺は師匠玉川勝太郎の家での修業もおわり、ドサ回りも経験し、第1回目の上京当時は浅草の田中町に住んでいた。歌手で芝居も達者な尾藤イサオの家に居候、御母堂に世話になった。そして塚越勝次郎こと大正坊主のせがれ東天朗と組み、漫才をやっていた。
と記載している。因みに尾藤イサオの実家と大正坊主の家は近所(同じ田中町にあった)であった模様。
1954年、77歳という高齢で、冥土へと旅立った。
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