曾我廼家祐十郎

東京漫才を彩った人々
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曾我廼家祐十郎

 

 人 物

 曾我廼家そがのや 祐十郎すけじゅうろう

 ・本 名 野中 正
 ・生没年 
1892年8月23日〜戦後?
 ・出身地 東京 下谷

 

 来 歴

 戦前活躍した兵隊漫才の一人。コンビというよりは、「曾我廼家祐十郎一座」なる少数のグループを組み、兵隊コントのような形で活躍する事が多かったという。東喜代駒の「漫劇」的なポジションの人である。

 そういう所から、コンビとしての「漫才」としては、いささか意を異なるものの、戦前漫才に深く関わったのでここに記す事にする。

 前歴は名前の通り、曾我廼家喜劇の役者。ひびのけい氏のご教示によると、五一郎一座の流れなので、十郎とはそこまで縁がないとのことである。私淑してつけたか、単にゴロで付けたか、そこまではわからない。

 基本的なプロフィールが『現代俳優名鑑』(揚幕社 1923年)に掲載されているので引用する。

本 名 野中正

生 年 明治二十五年八月二十三日 三十二歳

出生地 下谷区御徒町二丁目二三番地

身 長 五尺五寸三分

体 重 十四貫八百五十匁

代表作 「不如帰」の川島武夫、「潮」の和田信一

宗 教 日蓮宗

主 義 自由主義

崇 拝 大隈重信

系 統 五一郎一派

出 勤 世界館

支配人 北村又市

同住所 浅草区柴崎町廿六番地

家 族 戒名

好 き 講談 酒 釣魚

嫌 ひ 甘味

愛読書 怪談揃

乗 用 俥

常用煙草 敷島

常用飲料 銀釜

日用化粧品 クラブ

服装の好み 八端織

略 伝 中学四年修了、初舞台は十八歳のとき師匠は高木蝶之助、過去数年各地巡業後、大正八年始めて喜劇曾我廼家一派に加入現在に及ぶ苦心談は次きの回にくわしくお話しいたします

 1929年頃、兵隊劇に転向。1931年には早くも「兵隊漫才」の一人として、漫才大会に出ている。その時の相方はなんとリーガル千太であった。

 以下は『都新聞』(3月17日号)に掲載された広告の引用。

▲萬成座 十六日より東西万歳競演會出演者は

六郎、和歌子、百々龍、小源太、九州男、静子、茶福呂、花子、ぽんた、政之助、梅香、一徳、デブ子、花輔、吉丸、源一、小豊、喜一、正二郎、源六、一丸、金茶丸、緑郎、祐十郎、二郎、出羽三
喜代坊主、日出夫、日出丸

 以降は玉木座に出勤。大和家八千代一座とも面識があったようである。

 1932年には、『都新聞』(1932年11月26日号)に取り上げられるほどの人気を博した。以下はその記事の引用。

記録破りの大當り
浅草帝京座
人気の焦点は祐十郎の『兵隊』

昨今の浅草興行界は一段と目立つて活気づいて来たが中にも物凄いばかり大衆の人気を集めてるのは帝京座の曾我の家祐十郎一座である。遠方から態々帝京座目當に来る客が引きもきらず先づ近来での記録破りの大當りだらうと云はれてゐる。出し物の組合せが素晴らしい上に何れも一粒選りの人気者やスターがズラリと顔を揃へ、一座擧つて大車輪大馬力の奮闘だから、此の成功を見たのも當然である。特に人気の焦点となつて観衆を唸らせてゐるのは祐十郎熱演の「兵隊」である。
飄逸軽妙、自在奔放の演出に加へて持味の垢抜けた藝風がぴつたりと役柄にはまり、洒脱な仕草で見物の顎を解かしめる合間々々に純真な「兵隊」の情味を十分に漂はせて思はず泣き笑ひさせられる様な所もあり、藝もこゝ迄行くと大したもの、金語楼の兵隊も申分ない妙味を聴かせるが舞台で見る祐十郎のそれは行き方をかへて軽い中に奥行も深味もあり、眞に劇界の珍とするに足りよう。断じて見逃す事の出来ない至藝である。こゝには曾我の家立花、大河達也、玉木新蝶、笑福亭福圓、鈴木芳江等の老公に混へて此の劇を光らせ、尚此外同座の演藝番組は

▲音曲柳家三亀松▲漫談橘の圓次郎▲萬歳三笠月子出雲友衛(浪曲物真似)▲文化萬歳河内家米奴九州男▲千葉琴月三味線曲弾▲女道楽玉木美人連▲座員総出演の舞踊ナンセンス▲支那人奇術陳徳山▲大切所作事レビユー

で女道楽で玉木美人連と座員総助演の舞踊ナンセンスは地方に仲登志、太郎、秀子、立方に福奴、松子、富美松、綾子、美代子、若千代、せい子、琴子等同座の選り抜きの美しい處を集め前記兵隊さんと相俟つて一層人気を煽つてゐる

 1935年、帝都漫才組合結成に際し、幹部に取り立てられる。漫才劇からの抜擢は彼一人であった(もっとも朝日日出丸も漫才ショーをやっていたので完全に仲間外れというわけではないが)。

 以降、浅草の劇場を中心に活躍。ホームは金龍館だったようである。

「兵隊」という経験が、一般男性における義務だった時代において、大きな共感と「あるある」を呼び、人気を集めたのはいうまでもない。

 1936年頃が人気の絶頂で、『読売新聞』(6月23日号)の中で「兵隊芝居の家元 創作六十二篇 祐十郎の奮戦」とまで取り上げられる程の人気を誇った。以下はその引用。

 トンキヤウものの柳家金語楼がら小屋に出て餘技の「兵隊」を始めたとき、お株を奪はれては大変だと田舎廻りをしてゐたのが、東京の眞ん中に突貫して来て萬成座にふた開けし、防戦に努めたのが兵隊芝居の家元曾我廼家祐十郎、本人は筋肉薄弱とかで、検査ではいつぺんに撥ねられた男だが何の因果か、子供の時から大人になつても、兵隊ゴツコさへはせて置けば、虫一つ起さぬといふ変つた性分、それで落込むところに落込んで、兵隊芝居を始めてから七年になる、「検査」から「除隊」まで六十二篇、みな祐十郎の作だ、一本つくりあげるごとに憲兵隊に届けて向ふから初日には検閲に来るが、憲兵さんゲラ/\笑つてばかりゐて「あすこがイカン」などいつたことは一度だつてない、祐十郎にすると、兵隊芝居をやる目的は、愉快な兵営生活をのぞかせて、徴兵忌避を除くところにありといふのだから大したものさ

【祐十郎さんの話】一座八人仲よしはかり寄つてゐるので舞臺で踏まうと蹴らうと、怒るもの謎一人もゐません、有難かつたのは、麻布の第三聯隊でこの芝居を秩父宮さまにお目にかけたら、大変なご機嫌でキツネウドンを下賜せられましたが、勿體なくて頂けませんでした
一座の仲よしは写真でもごらんの通り楽屋で若水の伊藤軍曹が、舞臺に出る支度をとゝのへて祐十郎の木村二等兵を一生懸命や汗をかきながら団扇で風を送つてゐるぐらゐです

 とある。その人気に乗じて、レコードの吹き込みもしている。

 然し、第二次世界大戦や日中戦争の泥沼化につれて、兵隊漫才も統制の対象になり始め、徐々に活躍の場を失い始める。

 1938年には、普通の喜劇俳優へと戻ったらしく、『読売新聞』(1938年9月9日号)で、

 祐十郎の免除 兵隊劇の祐十郎、やる度にあれもイケない、これもイケないと、検閲よりも表の方から叱られるので、到頭手足も出ずにこつちは廃業、常盤座に並の役者で出て大納まりをしてゐるが會ふ人ごとに頭を掻いて「やつと兵役免除で、ヘエ」。

 などと揶揄されている。ただし、検閲や表方がうるさくない地方などでは兵隊劇を続けていたようである。

『都新聞』の廃刊(1942年)前後まで消息が確認できるが、それ以降はどうしたのだろうか。

 1943年、帝都漫才協会の雑芸部の幹部になったのが最後の消息。

 戦後、消息を絶つ。兵隊劇という立場故か、あるいは病気や戦後の動乱の為に死没、転職したのかまではわからない。

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