獅子てんや・瀬戸わんや

 

獅子てんや・瀬戸わんや

てんや・わんや(左)
コンビ結成間もない二人(わんやがひげを生やしているのに注目)

漫才を披露する二人

『お笑いカラー寄席』で司会をする二人
(左端二人はチック・タック 遠藤佳三氏旧蔵)

瀬戸わんやの幼かりし頃(?!)

 

   人 物

獅子しし てんや

 ・本 名 佐々木 久雄
 ・生没年 1924年6月25日2014年頃
 ・出身地 東京 品川

瀬戸せと わんや

 ・本 名 妹尾 重夫
 ・生没年 1926年3月10日1993年2月10日
 ・出身地 東京 台東区大阪府 大阪市 南区

 

  来 歴

 安定した話芸と上品な舞台で人気を博し、長らく東京漫才をリードしてきた名コンビの一組。とにかく崩れることのない整然とした舞台と、優しい語り口は、東京漫才の見本として高く評価され、テレビ・ラジオの演芸の司会、東西の若手漫才師に大きな影響を与えた。

 また、片岡鶴太郎の出世作(?)の「ぴ、ぴ、ぴよこちゃんじゃ、あひるじゃガーガー」の原作者でもある。漫才で使用したほか、コミックソングとしても吹き込んでいる。

 その前身は、警官に公務員という異色コンビの先駆け的な存在でもあった。

 

 ・獅子てんやの前身

 実家は魚屋を営んでいたが、幼い時に父親を失い、1934年、川崎にいた母親の姉に預けられる。更に新潟県栃尾にいる父親の両親(祖父母)と、身内の家を転々とした。幼いころは、そんな家庭環境のせいか、真面目でおとなしい少年だったと聞く。

 大原尋常小学校から義胤尋常高等小学校へと転校したが、経済事情の為に間もなく中退。

 三田の電機製品工場に就職し、住み込みの小僧として働いていた。間もなく戦争が始まり、軍需工場へと徴用を受けるようになる。

 このころは、立派な軍国少年で、戦争で誉を立てる事を夢にしていたという。召集令状の届く前――18歳の折に海軍へ志願し、少年兵となる。横須賀海兵団を経て、追浜霞ヶ浦の予科練に入り、兵隊教育を受けていたが、出兵して戦果を上げる前に終戦を迎える。この終戦には、大変ショックだったそうで、一時期茫然とするほどであった。

 予科練の解散により、復員。焼野原の下で日々の生活を送っていたが、国の為に尽くすという志を諦めきれず、似た職種である警察へと志願。この時、警察は、戦後の動乱や進駐軍対策などで緊急増員令を出しており、兵隊上がりのてんやは面倒くさい試験やテストを受けることなく、入れたという。

 警察学校へと通い、1945年10月10日、警察官に任命され、原宿警察に配備される。警察学校の指導員を経て、部長試験に合格し、丸の内警察署へ転属。

 当時出来たばかりの警視庁予備隊の分隊長に任命され、若手の育成を命じられる。形こそ違うものの、国防を担う一人として、大いに奮起したものの、柔道の訓練中に負傷し、出世の道を断たれる。

 後年、舞台などでは、「予備隊の時分に女性警察官のおっぱいを揉んでクビになりました」などとネタにしていたが、この時の挫折はすごかったそうで、後輩や弟子に「本気で死のうかと思った」と、語っていたーーと新山ノリロー氏から伺った。

 何もすることがない療養生活の中で、唯一の娯楽がラジオであった。スピーカーから流れてくる柳家金語楼や榎本健一、内海突破などの朗らかな話術に感動し、芸人を志す。

 退院後、療養期間を利用して、住所を探り当て、柳家金語楼や榎本健一に弟子入り志願をするが、断られる。

 1950年、ラジオの人気者であった内海突破に入門。入門が許されるまで、てんやは警察から発行される定期券を使い、突破を追い回した事により、突破がその根気と執念に音を上げて入門を許した、という逸話があるが、詳細は不明。

 間もなく警察をやめ、芸人に転向。内海突破の鞄持ちをしながら、芸能界のイロハを学んだ。

 

 ・瀬戸わんやの前身

 瀬戸わんやの出身は大阪。間違っても岡山ではない。

 幼少期のことを語った資料が少ないため、判らない点もあるが、普通の家庭だったようである。地元の錦尋常小学校卒業後、東田中高等小学校に進学。

 1940年に同校を卒業し、大阪市役所へ就職。給仕として勤務する傍ら、関西工業学校夜間部に通い、1943年12月に同校を繰り上げ卒業している。

 この学校で測量の知識を身につけ、測量士の免許を取得。後に大阪市港湾局へと移り、測量の仕事を続けていた。

 但し、『寄席爆笑帳』などを見ると、測量の仕事こそしていたものの、余りにも小柄がゆえに測量機が覗く事が出来ず、現場に来るだけ来て、下請けの作業員を確認すると、後は映画館で暇をつぶす日々を過ごしていた――と書かれている。これも真相は不明。

 公務員生活を過ごす中で、芸人を夢見るようになり、1952年3月、港湾局を退職。

 同年4月、大阪市役所港湾局の先輩でもあった内海突破を頼って上京し、門弟となる。余談であるが、芸人転向の由来を舞台では、「もともとは野犬捕獲員」「犬を三匹煮て食べたのがバレてクビになった」「それが祟って毛が抜けた」と、ひどいネタにされていた。

 

 ・コンビ結成

 1952年7月27日、師匠の勧めに従って、コンビを結成。国電大塚駅前の天祖神社の夏祭りの舞台で初舞台を踏んだ。

 芸名の由来は、当時人気を博していた獅子文六『てんやわんや』を分解したもので、「獅子てんや」は、てんやが風貌が獅子文六に似ているからとも、「獅子頭」みたいな顔だったとも、わんやの「瀬戸」とは、『てんやわんや』の舞台が、四国瀬戸であることから、またわんやの出身が関西だから、「瀬戸」になったという。

 当然、無断使用であり、後年詫びに行くことになる珍談が残っている。

 後年の名コンビには珍しく、師匠の仲介で初めて顔を合わせた際、クソ真面目そうな顔つきをしている二人は、「こんな無愛想な人と組むのか」と両者ともに思ったという笑い話がある。

 1955年に設立された漫才研究会に関与し、初期メンバーとして入会。

 早くから師匠譲りの明るく、スマートなしゃべくり漫才を得意とし、頭角を現した。松浦善三郎『関東漫才切捨御免』(『アサヒ芸能新聞』1954年4月4週号)にも、

獅子てんや・瀬戸わんや

てんやのチョイスマート、わんやの小さい風体からにじみるボケ。御存知内海突破氏に師事して猛烈に勉強している新進若手の立体。歌謡曲の司会も軽妙にこなして人気がある。
 昭二道郎等の舞台と対照すると、こちらはあくまでもいわゆる大衆演芸的な感。それだけにつぎの時代の一方の地歩をしめるであろうホープ。突破氏の名支配人本田氏の温厚なる指導を得て若いのに珍らしく楽屋も神妙

 と高く評価されている。

 1956年1月25日に開催された産経新聞主催の漫才コンクールに出場し、師匠譲りの『国定忠治』を演じて、第一位を射止める。

 1957年3月2日に開催された、第1回NHK漫才コンクールで『世界旅行をかえりみて』を演じ、第1回の優勝者となった。

 余談であるが、コンクール当日、わんやは持病の胃潰瘍を悪化させており、腹が痛くてしようがない。てんやにも相談して、休演をしようか本気で悩んだが、舞台に出たところ、痛みがなくなってしまい、まさかの優勝。その喜びで、胃潰瘍もケロリと治ってしまった、という逸話が『東京新聞』(1959年5月13日号)の中で紹介されている。

 二冠達成をした事により、次世代のリーダー分として目されるようになり、盛んに放送や劇場へ出演するようになった。

 絵に書いたような凸凹コンビに安定した話術、嫌味のない芸風は、放送からも好まれ、司会者としても活躍するようになる。

 1958年7月、大舞台である日劇に直井オサム・大沢ミツルと共に出演したが、愚劣なギャグで舞台をめちゃくちゃにした、と『読売新聞夕刊』(7月7日号)の中で批判されている。

 然し、これ以降は大舞台にもあった芸や所作を確立し、東京を代表する喜劇人としても売り出した。

 1959年6月、わんやが急病のためコンビ活動を停止。相方復帰までの間、知人で、サンドイッチマンをやっていた安部久(1930年〜?)とコンビを組んで埋め合わせをしていた。安部久は、この後、内海突破に弟子入りしたはずであるが、詳細は不明。

 1961年7月26日、牧野周一等と共に北海道小樽を巡業中、自動車事故に遭遇し、てんやは全治3週間の大怪我、わんやは全治2ヶ月の重傷を負う。

 先に復帰したてんやは、司会業や漫談、臨時コンビなどで穴を埋めたが、ピン芸の難しさを改めて知り、相方との関係を考えるいい機会になったという。以来、二人の関係は、良すぎず、悪すぎず、絶妙なバランスを維持するようになった。 

 1963年、牧伸二司会の『大正テレビ寄席』の準レギュラーとして活躍。山下武からその品格のある芸を高く評価されている。そのほか、『お笑いカラー寄席』や『笑点』など、人気番組に出演。

 1966年、TBS系列よりはじまった『家族そろって歌合戦』の司会者に抜擢される。この番組は10年以上続く名番組となった。 

 安定した活躍は高く評価され、テレビ時代の顔役となり、『お笑いカラー寄席』『お笑いチャンネル』『サンケイホール昼席』『てんやわんやのお笑いランチ』など多くの番組の司会や出演に関与。

 その功績とこれまでの活躍が評価され、1967年、「第7回放送作家協会賞大衆芸能賞」を受賞した他、第1回、第3回フジテレビ放送演芸大賞を受賞している。

 このころ、『てんやわんや』の原作者である獅子文六の家を訪ねて、詫びに行った。この顛末を、獅子文六が随筆にしているので、引用する。どこか、とぼけていて、悲しくって、おかしい。

 獅子てんや、瀬戸わんやという漫才師が、以前からいるのだが、私と何か緑故でもあるのかと、よく人にきかれた。何もないというと、
「それは、ひどい。勝手にあんな名をつけたんなら、文句いってやりなさい」
と、ケシかける人もある。
勿論、私の作品に『てんやわんや』というのがあるからだが、獅子と名のるのは、ちょっと乱暴だと思った。
それはだいぶ前のことで、その頃、テレビにその漫才師が出たことがあったが、あまり上手でなかった。少しアクどくて困った。
ところが、一昨年だったか、この二人の漫才師が、突 然、私の家を訪れてきたのである。カステラの折りかなんか持って、ひどく恐縮して、お辞儀ばかりしてる。まア上れといっても、ここで結構ですといって、玄関に立ってる。何の用できたかと思ったら、どうやら芸名に獅子だの、てんやわんやだのを、無断で使ってるのを、詫びにきたらしい。
どうやらというのは、彼等の言語が早口で、口の中でモグモグいうので、わかりにくかったからである。漫才師が恐縮した場合は、あまり発言明晰でないという事実を知った。しかし、今頃になって、何でアヤマリにきたのか、よくわからなかったが、多分、誰かに著作権侵害とか何とか、オドカされて、慌ててやってきたのだろう。
二人の漫才師のどちらが、獅子てんやで、瀬戸わんや なのだか、私にはよくわからなかった。しかし、背が高くて、眼鏡をかけた方がてんや君ではないかと思う。なぜといって、彼の方がよくシャベったし、話の様子では彼が私の疎開してた南伊予の出身で、そこを舞台にした『てんやわんや』を 芸名にする気になったのだと、いってるようだった。そして、私に会ったことはないが、写真で見ると、私に似てるところがあるので、獅子と名乗る気になったとかいってた。しかし、私自身からいうと、あまり似てる人とも思わなかった。体は頑丈だし、肉づきもいい。
瀬戸わんや君の方は、背が低くて、額が広くて、見る から漫才師的愛嬌に富んでたが、てんや君の相槌ばかり打ってた。
とにかく、非常に恐縮して五分間ぐらいシャベって、 ソソクサと帰ってしまったが、その様子が何だかおかしく、笑いを残した。
しかし、その後、彼等の芸名問題を、私はまるで意に介しなくなった。そして、この頃、テレビなぞで彼等の出演を見ると、一ころより、やることに泥くささがなくなり、芸が以前より進歩したような気がするのを、うれしく思うようになった。やはり同姓のヨシミというものだろうか。

(『オール読物』1969年11月)

 1966年、昭和のいる・こいるが弟子入りしている。この弟子はてんやわんやコンビが解消するまで長きに渡って師事し、良き師弟関係を築いた。

 以来、東京漫才の幹部として、東宝名人会や国立演芸場など一流どころの劇場へ出演を続けていたが、1969年7月2日、わんやの三男の哲也が母親の目を盗んで風呂場へ侵入し、溺死する悲劇に見舞われている――この時ばかりは、わんやも自分の稼業を忘れ、泣き崩れるほどであったと聞く。

 息子の死を受け止めた後は、再び第一線に復帰。何時でも何処でも品と格式のある健全な漫才を心がけ、三河萬歳の復活やお神楽の実演など芸への態度も真面目だった。『花王名人劇場』では、その余芸や研究成果を遺憾なく発揮。現在も映像に残されている。

 当たりネタは数多くあるが、『なんでいったの?』『ぴよこちゃん』『健康診断』はその中でも生涯の大当たりで、テレビ番組でもよくかけられる名作であった。『健康診断』でわんやがてんやに騙されておしっこを舐めてしまうおかしみ、『ぴよこちゃん』の馬鹿馬鹿しさ、なかでも『なんでいったの?』など、日本語の複雑さを見事にとらえた、漫才史上類を見ないほどの傑作――と管理人は考えている。

 両人ともに人特に優れ、円満な性格だった所から、漫才研究会、漫才協団の幹部として、活躍。年長だったてんやが、主な役職に就いた。『産経新聞夕刊』(1960年7月5日号)掲載の『漫才ばなし』に

ここで、リーガル万吉の会長辞任が承認され、あたらしく都上英二が新会長にえらばれたのである。ちなみに、副会長は従前通りコロムビア・トップ、理事長は大空ヒット、理事は松鶴家千代若、橘エンジロ、新山悦郎(えつろう)、リーガル天才、獅子てんや、木田鶴夫、内海桂子、天乃竜二、大江笙子、浅田家彰吾(しょうご)、晴乃ピーチク、大空平児の十二人。会計が春日章(あきら)会計監査がコロムビア・ライト。顧問は林家染団治、隆の家万竜がそれぞれ就任した。

 とある。そのあとは、コロムビアトップ政権下で、理事、更には理事長に就任した。

 わんやは、前歴の職種を生かし、理事監査に就任し、協団のお目付け役としても活躍。「仏のわんや」と渾名されるほどの温厚な人物で、多くの同業者や後輩から慕われた。

 1981年、『お笑い研究会』の成果が評価され、芸術祭優秀賞を授賞している。

 1985年には警察官だった前歴が買われ、東映教育映画部作成の教育映画『てんやわんやのお年寄り交通安全教室』に出演。てんやは、30数年振りに制服姿を披露。わんやの老人役を相手に、コミカルながらも交通事故の怖さを啓蒙する役として、奮闘した。

 1984年頃より、病の悪化や老年により、記憶力が変になり、セリフや所作を誤ることが度々あった、と『在家佛教』(1993年10月号)で、相方の獅子てんやが語っている。この頃の状態が矢鱈に誇張されて、不仲となり舞台も荒れた――というような文章を見かける事があるが、どうしたものだろうか。

 その詳しい事情は、弘文出版『落語』(29号)の、獅子てんやのインタビューに出ているので引用。

爆笑名コンビ瀬戸わんや倒れる
獅子てんや心境を語る

大野 わんやさんの病気の工合は、どうなんですか。
てんや 病名は糖尿病ですが、それが悪化して腎臓にきて、膀胱のほうにもちょっと……。糖尿ってのは病気がいろいろ出ちゃうんですね。
大野 今は自宅療養ですか。
てんや 病院と両方なんです。自宅でやってると、ラーメンやなんか好きな物食べたりして悪くなる。底で入院すると、またよくなる。帰ってくるとまたダメになっちゃう。病院へ行ったり来たりが生活みたいになってるんです。
大野 数年前からわんやさんの病気が始まって、漫才に影響に出てきたわけですか。
てんや 糖尿ってのは、何がこわいかっていうと、記憶力がなくなるんです。その徴候が出はじめて、なれたネタでもパッと出てこない。たとえば、岡山のお婆ちゃんてネタありますね。その中で「お婆ちゃん、耳が悪いから補聴器を買って持ってった」っていうのを、「お婆ちゃん、工合が悪いから、入れ歯買ってった」っていう(笑)
こっちゃしょうがないから、「じゃ、その入れ歯を耳ンとこでカチカチやるの?」「入れ歯、そんなことしないよ」「今入れ歯っていったじゃない」「入れ歯じゃない、ホラ、何ていったっけ。こう、入れるもん?」「入れ歯?」(笑)
大野 お客さんはネタだと思ってる。
てんや そんなことがちょいちょいあったんです。それはもう一年以上前だったんですけど。これは、いつか来るな、と思ったんです。そんな時、講演の話がきて、やり始めたのが、一人舞台の度胸をつけるのに役立ちました。

(同書 94頁~)

 イライラすることなどあったようであるが、コンビ仲をこじらせて解消したものではなさそうである。いわゆる、楽屋雀の姦しいところか。

 1987年5月、瀬戸わんやが脳梗塞に倒れ、武蔵野市の藤本病院へ入院。コンビ活動を休止する。臨時で拝啓介(美田夕刊)とコンビを組み、当座の仕事をこなし、一段落着いた後は「巷談」と称して舞台に立った――が、贔屓の助言や本人の思う所があり、間もなく辞めている。

 1987年12月20日、はじめて坐禅会に参加し、仏教への関心を強めることとなった。1990年、菩提寺で授戒、「徳菴宗光居士」と法名を得た。

 1993年、瀬戸わんやが死去。以前から、てんやは所属事務所から「てんやわんや」の解散を打診されたが、これを拒否。最期までコンビの関係を貫いた。

 葬儀では相方のてんやが弔辞を読み、相方の死を惜しんだ。名ツッコミ役の死を以て40年続いた「てんや・わんや」を正式に解消。これを機にてんやは漫才との縁をすっぱり切り、在家仏教への道へと進んでいった。

 以来、講演会や雑誌の取材などを積極的に行い、自分の信じる仏の道を歩み続けた。芸界との付き合いも距離を置くようになっていったという。

 2009年、漫才協会の主催する東京漫才の殿堂に選ばれ、殿堂入りを果たした。受賞者の中では唯一健在であった。

 その後もしばらくご健在だったそうだが、2018年に昭和のいる氏にお尋ねした所、「4年くらい前に亡くなりました」との事である。

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